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奇皇后のバヤンフトの最期は本当に毒殺だったのか?【驚きの事実】

ドラマ「奇皇后」で息子の死に激怒した奇皇后はバヤンフトを毒殺します。

バヤンフトのモデルのバヤン・クトゥクも最期は毒殺されたのでしょうか?

実在したバヤン・クトゥクについて詳しく調べてみました。

すると、驚きの事実が。。。

 

バヤンフトの最期

バヤンフトのモデルとなったバヤン・クトゥクは1365年8月に42歳で亡くなりました。

新元史によると坤德殿に移って、外出することなく、慎ましく暮らしたと記録されています。

毒殺ではなく病死だったと思われます。

後居坤德殿,終日端坐,未嘗妄逾閫閾。二十五年八月,崩,年四十二。
<引用元:新元史/卷104より>

坤德殿に住んでからは、終日、慎ましく過ごし、決して外出することはなかった。1365年8月に42歳で逝去した。

 

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実在のバヤンフトはどんな人物だったのか

バヤン・クトゥクは慎ましく、人を妬むことのない礼儀正しい人だったと伝えられています。

後性簡重節儉,不妒忌,動中禮法。
<引用元:新元史/卷104より>

質素で倹約した生活をおくり、嫉妬深くなく、礼儀正しい人だった

ドラマ「奇皇后」のバヤンフトは嫉妬深く、残虐な女性でしたが、実在したバヤン・クトゥクは全く性格の違う女性でした。

これほどまで性格を変えてしまうとは、物語の展開のためとはいえ驚きですね。

 

バヤン・クトゥクのプロフィール

ドラマ「奇皇后」ではバヤンフトはペガン(バヤンがモデル)の姪でした。

しかし、実在したバヤン・クトゥクとバヤンには血縁関係はありませんでした。

バヤン・クトゥクはコンギラト部族、バヤンはメルキト部族と二人は別部族の出身です。

<バヤン・クトゥクのプロフィール>
在位:1337年3月17日 – 1365年8月21日(陰暦)
漢字表記:伯顔忽都
生年:1324年
没年:1365年8月21日
配偶者:トゴン・テムル(恵宗)
子女:チンキム
氏族:コンギラト部族
父親:毓徳王ボロト・テムル

 

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名門コンギラト部族の出身

バヤン・クトゥクは多くの皇后を輩出したコンギラト部族の出身です。

元の第3皇帝カイシャンの宣慈恵聖皇后(ジンゲ)はバヤン・クトゥクの伯母さんにあたります。

<バヤン・クトゥクの家系図>

 

コンギラト部族はチンギス・カンの正妃ボルテを輩出して以来、チンギス・カン家の姻族として繁栄してきた一族です。

<歴代のコンギラト部族の皇后>

名前 別称 皇帝 備考
ホエルン 宣懿太后 イェスゲイ・バアトル チンギス・カンの母親
ボルテ 光献翼聖皇后 チンギス・カン 正妃
フトクタイ 貞節皇后 モンケ 皇后
イェスル モンケ 皇后
チャブイ 昭睿順聖皇后 クビライ 正妃
ナムブイ クビライ 皇后
ココジン 徽仁裕聖皇后 チンキム 正妃
シリンダリ 貞慈静懿皇后 テムル 正妃
ダギ 昭献元聖皇后 ダルマバラ 正妃
ジンゲ 宣慈恵聖皇后 カイシャン 正妃
ラトナシリ 荘懿慈聖皇后 アユルバルワダ 正妃
ブヤンケルミシュ 宣懿淑聖皇后 カマラ 正妃
バブカン イェスン・テムル 皇后
ブダシリ トク・テムル 皇后
ダリエテミシ イリンジバル 皇后
バヤン・クトゥク トゴン・テムル 皇后

この一覧表を見てわかるように、コンギラトは后妃を輩出することで権勢を保ってきた一族であるといえます。

 

バヤンフトの生涯

トゴン・テムルの最初の皇后ダナシリが兄の謀反の罪で殺害され、バヤン・クトゥクが2番目の皇后として選ばれました。

トゴン・テムルは奇皇后を愛していたので、バヤン・クトゥクが寵愛を受けることはありませんでした。

 

しかし、バヤン・クトゥクとトゴン・テムルとの間に息子のチンキムが生まれます。

ところが残念ながら、このチンキムは2歳で亡くなってしまいました。

バヤン・クトゥクはドラマとは違い、慎ましく質素な生活を送り、1365年に42歳で亡くなっています。

 

まとめ

ドラマ「奇皇后」のバヤンフトは、嫉妬深く、常に裏があり、残虐な女性でした。

しかし、バヤンフトのモデルになったバヤン・クトゥクは名門一族の出身で、慎ましく、礼儀正しい女性でした。

 

また、奇皇后が皇帝の寵愛を受けても、決して妬むことはしなかったと伝えられています。

これほどまで、違う女性に描かれるとは。。。

ドラマを面白くするためとはいえ、バヤン・クトゥクが少し可愛そうな気がするのは私だけでしょうか。

 

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