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奇皇后の家系図で知る【奇氏一家の繁栄と没落】

韓国で最も古い名門氏族でありながら、没落して貧しかった奇皇后の一家でした。

しかし、奇皇后が元の皇后になると王にも並ぶ権力を手に入れ、奇氏一族は繁栄していきます。

奇氏一族の横暴さは、遂には高麗王の粛清対象となり、そして、元の滅亡とともに一族は再び、没落していきました。

奇氏一家の繁栄と没落を奇皇后の家系図からご紹介します。

 

奇皇后の家系図

奇皇后は韓国で最も古い氏族の一つである幸州奇氏(ヘンジュギシ)の出身です。

幸州奇氏の始祖は奇友誠(キウソン)ですが、李适の乱のときに族譜が消失したようです。

そこで、改編のときに奇友誠の65代孫で門下平章事(正2品)を務めた奇純祐を1代祖(中始祖)として記録することになりました。

<豆知識>
中始祖とは
没落した一族を再び復興させた先祖
派祖(派始祖)とは
新しい氏族として分離独立したときの先祖

奇純祐は第17代高麗王・仁宗の時代に政治の中心で活躍した人物です。

また、奇純祐の孫で奇皇后の高祖父である奇允肅は第23代高麗王・高宗のときに大将軍として功績を上げた人物です。

しかし、奇皇后の父の奇子敖(キ・ジャオ)は下級官僚にすぎませんでした。

<奇皇后の家系図>

また、奇友誠の長兄の友平は太原鮮于氏の始祖、次兄の友諒は清州韓氏の始祖です。

清州韓氏といえば、章順王后、安順王后、恭恵王后、仁烈王后の4人の王妃を輩出した名門氏族です。

<三大氏族の始祖>

 

奇皇后が聡明であった理由

奇皇后が皇帝に認められ、皇后にまで上り詰めるほど聡明であったことには理由がありました。

それは、幸州奇氏一族が家門の教えを守って子弟の教育に熱心に取り組んでいたからです。

これは奇氏一族が多くの有能な人材を輩出してきた大きな要因となっています。

 

奇皇后も例外ではなく、小さい頃から厳しく教育されてきたのでしょう。

皇后になってからも、歴史書などの書物をよく読んで歴代王妃の徳などを学んだと伝えられています。

 

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奇皇后はどんな人物だったのか

奇皇后はとても美しく聡明であったと伝えられています。

宮女として仕えていたところ、皇帝の目に止まったのですから、類まれな美貌の持ち主であったことは間違いありません。

 

奇皇后のプロフィール

奇皇后になってからの記録では、頭が良くて美貌の持ち主、行動的で上昇志向が強く、粘り強い意志を持った女性と考えられます。

<プロフィール>
生年:1315年頃
没年:1369年以降
配偶者:トゴン・テムル(恵宗)
子女:アユルシリダラ
氏族:幸州奇氏
父親:奇子敖
母親:不明

奇皇后は貢女として元に送られますが、高麗にいた頃の記録は全くありません。

<豆知識>
貢女 (コンニョ) とは
貢女とは朝貢品(貢ぎ物)として送られる若い女性のことです。元の時代は要求が厳しく、両班の美少女が良いとされ、王族の娘も対象でした。貢女は高麗後期から盛んに行われ、朝鮮王朝時代まで続きました。記録されていない人を入れれば数千人とも言われています。

奇皇后が貢女に選ばれたのは、3人姉妹の末娘ということが大きかったかもしれません。

ちょうど、父親の奇子敖が亡くなったころではないでしょうか。

 

また、貢女が相手国の皇后(正式な妃)までになったのは奇皇后だけです。

これは、奇皇后が容姿容貌だけでなく、人格、学識ともに優れていたことを示していると思います。

奇皇后以外に皇帝の寵愛を受けた女性としては、明の永楽帝の側室になった権賢妃がいました。

 

奇皇后の家族

奇子敖の娘として生まれた奇皇后には、5人の兄と2人の姉がいました。

<奇皇后の家族>

関係 名前 生年-没年 備考
父親 奇子敖 1266-1328
母親 不明
長男 奇軾(キシㇰ) 生没年不詳 早世
次男 奇轍(キチョル) 生年不詳~1356 シンイに登場
三男 奇轅(キウォン) 生没年不詳
四男 奇輈(キジュ) 生没年不詳
五男 奇輪(キリュン) 生没年不詳
長女 不明
次女 不明
三女 奇皇后 1315年頃 – 1369年以降 順帝の皇后
トゴン・テムル 1320-1370 元の第11代皇帝
子供 アユルシリダラ 1340-1378 元の第12代皇帝

 

奇皇后の兄の奇轍(キ・チョル)

奇轍(キ・チョル)はドラマ「シンイ-信義-」に登場する高麗の官僚でした。

奇皇后の一族は没落していましたが、奇皇后が元の皇后になると勢いを盛り返します。

 

特に、妹を盾にした兄・奇轍の横暴さは目に余るものがあったと言われています。

当時、高麗は元の従属国なので皇后の兄の自分は高麗王よりも地位が高いと思っていました。

 

奇皇后の息子アユルシリダラ

奇皇后と皇帝トゴン・テムルとの間には生まれた一人息子がアユルシリダラです。

アユルシリダラが成人する頃から元の状況に陰りが見え始めます。

 

そして、遂に1368年、元の軍隊が明の軍隊に破れると、皇帝の一家は大都から逃げることになりました。

1370年に父親のトゴン・テムルが亡くなると、アユルシリダラが皇位を継ぎます。

その後も逃亡生活が続き、1378年に逃亡先のカラコルムで亡くなりました。

 

アユルシリダラには息子のマイダリ・バラがいましたが、後に明軍に捕まってしまいます。

しかし、明はマイダリ・バラを厚遇して、明の徳を示す宣伝の材料としました。

 

成人したマイダリ・バラはモンゴルへの帰還が許されますが、その後の消息は分かっていません。

奇皇后の子孫はここで完全に途絶えてしまいました。

 

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奇氏一家の繁栄と没落

奇皇后が元に貢女として送られたときの奇氏の家は非常に貧しかったといいます。

父親の奇子敖は下級官僚にすぎず、家柄も低いものでした。

 

しかし、奇皇后が元の第二皇后になると一家の境遇は大きく変わってきました。

奇皇后の兄弟たちは、元の皇帝の力をバックに官僚として出世していきます。

それに合わせて奇氏一族は高い地位の官僚に取り立てられます。

 

当時、高麗は元の属国であり、高麗の王は元の皇帝の臣下にすぎませんでした。

従って、元の皇帝の妃を家族に持つ奇氏一家は高麗の王家よりも格が上との意識があったと思われます。

 

実際、奇皇后の父の奇子敖には栄安王の称号が与えられました。

奇皇后の兄たちの王を王とも思わぬ横暴な振る舞いがそれを示していました。

 

しかし、これをよく思っていなかった恭愍王が奇轍が国王排除を計画したとして、奇氏一族を粛清してしまいました。

怒った奇皇后は夫の順帝に恭愍王の廃位と高麗への攻撃をお願いします。

遂に、順帝は高麗に1万の兵を送りますが、結果は高麗に惨敗してしまい、恭愍王の廃位も失敗してしまいます。

 

そして、それから5年後には、元は明に破れ、順帝は奇皇后と皇太子を連れて逃亡することになります。

これにより、奇皇后の奇氏一家は朝廷から完全に消えてしまいました。

 

奇皇后の生涯

奇皇后は高麗の貢女として元に渡り、高麗出身の宦官であった高龍普の推薦で元朝廷の宮女になりました。

食膳の給仕をしていた奇皇后は順帝トゴン・テムルに見初められて寵愛を受けることになります。

 

面白くないのは嫉妬深い皇后のタナシルリでした。

しかし、奇皇后は皇后タナシルリのいじめにも耐えて、最後には正皇后の座まで上り詰めました。

 

奇皇后が高龍普に推薦されて宮女となり、食膳の給仕をして皇帝の寵愛を受けたことは元史にも記録されています。

初,徽政院使禿滿迭兒進爲宮女,主供茗飮,以事順帝.后性頴黠,日見寵幸. 後答納失里皇后方驕妬, 數箠辱之.
<引用元:元史 卷114 后妃より>

徽政院使の禿滿迭兒が宮女に推薦して、順帝のお茶の世話をさせた。奇皇后は美しくて賢く、日に日に寵愛を受けるようになりました。その結果、ダナシリ皇后から嫉妬され、鞭で打たれることがありました。

 

奇皇后の生涯を関連する出来事も合わせてまとめています。

出来事
1315年頃 奇子敖の娘として生まれる
時期不明 高麗の貢女として元に送られる
1333年 宮女として順帝のお茶出しの世話をする
順帝の目に止まり、順帝の寵愛を受ける
1335年 ダナシリ皇后の兄が反乱を起すが失敗する
ダナシリは流刑にされ殺害される
1337年 バヤン・クトゥクが2番目の皇后になる
奇皇后は次皇后となる
1340年 奇皇后がアユルシリダラを生む
奇皇后が第二皇后になる
1353年 奇皇后の息子アユルシリダラが皇太子になる
1356年 恭愍王は謀反の罪で奇轍ら奇氏一門を殺害する
1363年 順帝が兵1万で高麗を攻撃するが惨敗
1365年 皇后バヤン・クトゥクが亡くなる
奇皇后が正皇后に昇格する
1368年 元軍が朱元璋の明軍に破れる
順帝は奇皇后や皇太子を引き連れて大都を去る
1370年 順帝が内モンゴルの応昌で亡くなる
アユルシリダラが後を継ぐ(国名は北元)
1378年 アユルシリダラが逃亡のすえ亡くなる
異母弟トグス・テムルが後を継ぐ
1388年 トグス・テムルは逃亡の途中で殺害されるれる

トグス・テムルが殺害されたことで、元は完全に消失しました。

奇皇后がいつどこで亡くなったのか詳しいことは分かっていません。

 

まとめ

奇皇后は韓国でも最も古い名門氏族の一つである幸州奇氏(ヘンジュギシ)の出身でした。

しかし、奇皇后の父親は下級官僚で家は貧しく、家柄も低いものでした。

 

ところが、奇皇后が元の皇后になると、その状況は一変しました。

高麗における奇氏の勢力は拡大し、王をも凌ぐ勢いになります。

 

しかし、その繁栄も長く続くことはなく、元の衰退とともに消失してしまいました。

奇皇后もいつどこで亡くなったのかさえ知られることはありませんでした。

 

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