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奇皇后の史実とは【歴史学者が30話まで実話がないと批判】

先に元史に残る実在した記録を見たい方は
>>元史に記録された奇皇后の生涯

ドラマは歴史学者から史実がない、歴史を歪曲していると批判されました。

実在した奇皇后の史実はどうだったのか?

奇皇后の実話を詳しく調べてみました。

 

奇皇后の史実

奇皇后は貢女として元に送られますが、高麗時代の記録はほとんどありません。

当時の韓国の女性は王妃でさえ、王宮に入る以前の記録はほとんど無いのが当たり前でした。

女性は名前すら記録されていません。

 

そんな奇皇后の生涯をできるだけ史実に基づいてたどっていきます。

 

高麗の貢女として元に送られる

奇皇后は1315年頃に奇子敖の末娘として生まれました。

上には3人の兄と2人の姉がいました。

 

奇皇后の奇氏一族は韓国でも古くからある氏族で、高祖父の奇允肅は第23代高麗王・高宗のときに将軍として活躍した人物です。

しかし、奇皇后の父親の奇子敖は下級官僚で、家柄は低く、暮らしは貧しかったといいます。

 

末娘の奇皇后が貢女として元に送られたのも、こうしたことが要因だったのかもしれません。

1330年頃、14、5歳の奇皇后は貢女として元に送られます。

 

高麗に流刑にされたトゴン・テムル

トゴン・テムルはドラマ「奇皇后」のタファンのモデルになった元の皇帝です。

実は、1330年頃、トゴン・テムルは高麗の大青島に流刑になっていました。

 

その理由は、

1329年8月にトゴン・テムルの父親である第9代皇帝のコシラが亡くなり、将軍エル・テムルによって、皇帝の弟のトク・テムルが即位しました。

すると、ご多分に漏れず、将軍エル・テムルはコシラの息子トゴン・テムルを皇帝の座が狙える危険な人物と考え、高麗に流刑にしてしまいました。

 

その後さらに、トゴン・テムルは遠く離れた広西の静江府(中国の広西チワン族自治区)に流刑になっています。

 

ドラマでは流刑中のタファン(トゴン・テムル)と貢女から逃れたスンニャン(奇皇后)が出会いますが、こうした史実が上手くドラマに使われたようです。

実際には二人の出会いもなく、流刑地でのトゴン・テムル暗殺事件もありませんでした。

タファンについて詳しくは>>奇皇后のタファンの実在を家系図で知る【実像のトゴン・テムルとは】でご紹介しています。

 

弟のリンチンバルが皇帝になる

1332年に皇帝のトク・テムルが28歳の若さで急死しました。

<トク・テムル逝去時の皇族の系図>

トク・テムルは兄である先の皇帝コシラの息子を即位させることを遺言としていました。

それは、自身がエル・テムルと図って、兄のコシラを毒殺した懺悔の気持ちからでした。

 

報復を恐れたエル・テムルは自身の権力継続のため、トク・テムルの息子エル・テグスを皇帝に即位させようとします。

しかし、遺言を盾にトク・テムルの皇后ブダシリが激しく反対しました。

 

そこで、エル・テムルはコシラの次男リンチンバルを即位させ、幼少のリンチンバルを自身が摂政をする妥協案で事を収めました。

この時、トゴン・テムルは依然として流刑地にいました。

 

ドラマで突然、皇太后が見守る幼い病気の皇帝(タファンの弟)が出てきは背景には、このような史実があったのです。

 

遂に、トゴン・テムルが元の第11代皇帝

リンチンバルは即位後、わずか2ヶ月で亡くなってしまいます。

皇后ブダシリは、高麗の大青島から広西の静江府に流されていたトゴン・テムルを呼び寄せます。

 

遂に、トゴン・テムルが皇帝になるかと思われましたが、将軍エル・テムルの妨害にあいます。

しかし、半年後に宿敵エル・テムルが病死、1333年6月にトゴン・テムルはやっと元の第11代皇帝として即位しました。

トゴン・テムルは13歳

このときに、トゴン・テムルを皇帝に後押ししたのが武将のバヤンでした。

 

史実では、トゴン・テムル(タファン)の即位は、エル・テムル(ヨンチョル)の死後だったのです。

しかも、元に戻ってきたときのトゴン・テムルはまだ13歳でした。

 

皇帝の目に留まり寵愛を受ける奇皇后

貢女として元に送られた奇皇后の美貌と才覚に高麗出身の宦官であった高龍普(コ・ヨンボ)は驚きました。

高龍普は奇皇后を宮女として取り立て、トゴン・テムルのお茶の世話をさせます。

トゴン・テムルが高麗の女性である奇皇后を必ず気に入ると思ったのです。

 

高龍普の思惑通り、トゴン・テムルの目に留まった奇皇后はトゴン・テムルの寵愛を受けることになりました。

このことは、元史(元について書かれた歴史書)に記録されています。

初,徽政院使禿滿迭兒進爲宮女,主供茗飮,以事順帝.后性頴黠,日見寵幸.
<引用元:元史 卷114 后妃より抜粋>

徽政院使の禿滿迭兒が宮女に推薦して、順帝(トゴン・テムル)のお茶の世話をさせた。奇皇后は頭が良く、機転が利いたので、日に日に寵愛を受けるようになった。

注意)ここでは、禿滿迭兒は高龍普としていますが、禿滿迭兒と高龍普は別人と考えている論文も見られます。

 

ドラマで宮廷に入ったスンニャン(奇皇后)がタファン(トゴン・テムル)のお茶出しをするのは、この史実によるものと思われます。

なお、私は高麗出身の宦官・高龍普(コ・ヨンボ)がトクマンのモデルではないかと思っています。

 

ダナシリ皇后の嫉妬と末路

奇皇后が寵愛されたことに、嫉妬深いダナシリ皇后は面白くありませんでした。

ダナシリ皇后は奇皇后をいじめ抜きます。

この事実は先の元史の続きに記録されています。

後答納失里皇后方驕妬, 數箠辱之.
<引用元:元史 卷114 后妃より抜粋>

その結果(寵愛された結果)、ダナシリ皇后から嫉妬され、鞭で打たれることがあった。

 

奇皇后はこのダナシリ皇后のいじめに耐え抜きます。

そして、奇皇后に好機が訪れました。

 

最高権力者エル・テムルが亡くなって、バヤンが右丞相に就任するとエル・テムル一族の権力は次第に衰えていきました。

焦ったダナシリ皇后の兄タンキシは、1335年に丞相バヤンから政権を取り戻そうと謀反を起こしたのです。

しかし、この反乱は丞相バヤンに鎮圧され、タンキシをはじめダナシリ皇后の一族は処刑されてしまいます。

 

ダナシリ皇后は廃位の上、流刑となり命だけは助かりますが、流刑地で丞相バヤンにより殺害されてしまいました。

なお、ドラマでは皇后のダナシリはタナシルリ、兄のタンキシはタンギセと呼ばれています。

タナシルリについて詳しくは>>奇皇后のタナシルリは実在した皇后【15歳の少女の実像とは】でご紹介しています。

 

奇皇后に息子が生まれる

ダナシリ皇后が亡くなると、トゴン・テムルは次の皇后として奇皇后を望みました。

しかし、丞相バヤンの反対にあいます。

高麗の貢女が皇后になるなど許せなかったのでしょう。

 

1337年、トゴン・テムルは毓徳王ボロト・テムルの娘バヤン・クトゥクを皇后に迎えました。

前皇后のダナシリとは違い、バヤン・クトゥクは大人しい人で奇皇后と争うことはありませんでした。

バヤン・クトゥクは息子を生みますが、2歳で亡くなっています。

 

トゴン・テムルはバヤン・クトゥクを愛することはなかったといいます。

そして、1340年1月に遂に、奇皇后に息子アユルシリダラが生まれました。

 

奇皇后が第二皇后になる

奇皇后を寵愛するトゴン・テムルは、奇皇后を毛嫌いする丞相バヤンを面白くありませんでした。

このころ、バヤンの甥トクトも独裁者となったバヤンの専横に我慢ができなくなっていました。

 

トクトはトゴン・テムルにバヤンの排除を持ちかけます。

1340年2月、利害関係が一致した両者は、遂に職権乱用の罪でバヤンを追放します。

こうして1340年4月にトゴン・テムルの希望がかない、奇皇后は第二皇后に冊立されました。

 

なお、丞相バヤンはドラマの武将ペガンのモデル、甥のトクトがタルタルのモデルです。

タルタルについて詳しくは>>奇皇后のタルタルの史実での最後【戦死ではなく賜薬による死罪】でご紹介しています。

 

トクトの政権掌握

1340年にバヤンの排除に成功したトクトは政権の中枢に上がっていきます。

当初は、父のマジャルタイを右丞相として、影で政治を運営していましたが、直ぐにトクトが右丞相になり政権を掌握しました。

 

しかし、1344年、父が冤罪により追放されると、トクトは職を辞任してしまいます。

1347年に父の冤罪が認められると、トクトは再び、政権に復帰、1350年には右丞相に就任しました。

 

1351年には大規模な謀反が起こりますが、トクトは10数万の兵で鎮圧して功績を上げます。

国の富国強兵に喜ぶ一方で、

功績を上げ、巨大な権力を手にしていくトクトに皇帝のトゴン・テムルは恐怖を感じてきました。

 

奇皇后の権力拡大と奇氏一族の繁栄

第二皇后となった奇皇后は次第に元朝廷での権力強化に務めていきます。

特に、1353年頃からトゴン・テムルは政治に身を入れず酒色や好色にふける毎日を送るようになっていました。

 

これを見ていた奇皇后は高麗出身の宦官や腹心を官僚に取り立て権力基盤を構築していきます。

具体的には、資金調達の機関を「資政院」と改称して、高龍普を資政院使に任命、高麗の宦官を集めて、お金を自由に扱えるようにしました。

また、右腕として奇皇后を支える高麗出身の宦官である朴不花(パク・ブルファ)を軍の要職につけて、奇皇后は軍隊も掌握しました。

 

着々と、元での政治基盤を整えていった奇皇后

1353年、遂に息子のアユルシリダラを皇太子にすることに成功します。

また、1354年には、このころ政権の中枢にいたトクトをトゴン・テムルは帝位を狙うものとして恐れ、乱の鎮圧に向かうトクトを捕らえ、自害させてしまいました。

 

一方、高麗では妹・奇皇后の権力を盾に兄弟や一族が朝廷の要職に就いて横暴を振るい始めました。

奇氏一族は王朝の財政を私物化、放蕩に明け暮れました。

特に、兄の奇轍(キ・チョル)などは、高麗王を王と思わぬ態度だったといいます。

 

奇氏一族の滅亡

1351年に高麗王に即位した恭愍王(コンミンワン)は、元が衰え、明が台頭すると考えて、反元政策をとります。

恭愍王は高麗で元の外戚として権勢を振るう奇氏に目をつけます。

 

1356年、恭愍王は謀反の罪で奇轍ら奇氏一族を殺害して、高麗国内の親元勢力の排除をおこないました。

この結果、奇氏一族は滅亡してしまいます。

 

実は、恭愍王は奇皇后に登場しています。

最終回に登場した即位前の江陸大君(カンヌンテグン)です。

 

江陸大君はワン・ユのモデルと言われた忠恵王の実の弟なんです。

奇皇后の言葉「そなたを高麗の王座につけてやる。私を困らせるな」

そして、臣下の言葉「新高麗王を管理下に置くべきでは?」「信じ切るのはどうかと?」「皇后様の兄君に任せては?」

将来の江陸大君(恭愍王)の行いを暗示していたんです。

 

元の衰退の兆し

これに激怒した奇皇后は恭愍王の廃位をトゴン・テムルに働きかけますが、トゴン・テムルは動きませんでした。

1363年、やっとトゴン・テムルは恭愍王を廃位させる勅書を発します。

そして、1364年、兵1万で高麗を攻撃しました。

 

しかし、元軍は崔瑩(チェ・ヨン)が率いる高麗の軍隊に惨敗、恭愍王の廃位は失敗に終わりました。

崔瑩はドラマ「シンイー信義ー」でイ・ミンホが演じた武将です。

このころから、元の繁栄に影が見え始めます。

 

奇皇后がクーデターを計画

1364年、国が飢饉などで混乱しているにも関わらず、皇帝のトゴン・テムルは政治に関心がありませんでした。

実質的には皇太子が代理で政治を運営している状態でした。

 

呆れた奇皇后はトゴン・テムルの譲位による皇太子の即位を計画します。

奇皇后によるクーデターです。

しかし、トゴン・テムルに知られ、奇皇后は一時軟禁される事態になりました。

 

奇皇后が正皇后に昇格する

奇皇后にとって危機的な状況でした。

しかし、ここでも奇皇后に好機が訪れます。

 

1365年に皇后バヤン・クトゥクが亡くなったのです。

軟禁から解放されていた奇皇后が念願の正皇后に昇格します。

なんと、奇皇后は高麗の貢女の身分から元の皇后に上り詰めたことになります。

 

バヤン・クトゥクはドラマではバヤンフトと呼ばれています。

バヤンフトについて詳しくは>>奇皇后のバヤンフトの最期は本当に毒殺だったのか?【驚きの事実】でご紹介しています。

 

元王朝の中国支配が終わる

1368年に元の防衛軍が朱元璋の明軍に破れる事態が発生します。

勢いづいた明軍は大都(北京)に迫ります。

 

恐れをなしたトゴン・テムルは、奇皇后や皇太子を引き連れて大都を去る決意をします。

明軍の朱元璋は進撃を進め大都を占領、北平府と改称しました。

あっけなく、元王朝の中国支配が終わりを告げます。

 

奇皇后の夫と息子の死

1370年、奇皇后の夫トゴン・テムルが逃亡先の内モンゴルの応昌府で亡くなりました。

そこで、奇皇后の息子の皇太子アユルシリダラが昭宗として即位して後を継ぎました。

国名は北元としました。

従って、奇皇后は北元の皇太后となります。

 

明軍の勢いは止まらず、応昌府に進撃してきました。

1371年にアユルシリダラはカラコルムへと逃亡します。

 

一時は明軍の撃退に成功しますが、1375年に味方の将軍を病気で失うと一気に劣勢となりました。

1378年に皇帝アユルシリダラが38歳で亡くなります。

 

アユルシリダラには息子のマイダリ・バラがいましたが、年長の異母弟トグス・テムルが後を継ぎました。

なお、マイダリ・バラとトグス・テムが同一人物との説もあるようです。

 

元の滅亡と奇皇后の最後

このころ、北元としては最後の砦である大尉ナガチュ率いる20万の大軍が破れる事態が起こりました。

 

さらに、1388年に皇帝トグス・テムルが逃亡の途中で殺害されてしまいます。

遂に、元が滅亡した瞬間です。

 

悲惨な末路となった奇皇后ですが、

奇皇后がいつどこで亡くなったのか未だに分かっていません。

最後は高麗に戻り亡くなったとの説もありますが、定かではありません。

 

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元史に記録された奇皇后の生涯

奇皇后が宮廷で皇帝にお茶を出す女官をしていて、皇帝に見初められたことが記録されています。

宮廷で皇帝の世話して寵愛を受ける

初,徽政院使禿滿迭兒進為宮女,主供茗飲,以事順帝。后性穎黠,日見寵幸
<引用元:元史巻114、后妃一>

当初、徽政院に務める禿滿迭兒が女官に推薦して、お茶などの飲み物を順帝(トゴン・テムル)に出す世話をさせた。奇皇后は頭が良くて機転が利いたので、日増しに深く寵愛されるようになった。

禿滿迭兒は高麗出身の宦官・高龍普(コ・ヨンボ)ではないかと言われています。

もしそうなら、私はドラマ「奇皇后」に登場するトクマンのモデルは高龍普ではないかと考えています。

ただ、禿滿迭兒と高龍普は別人との説もあるようです。

 

<豆知識>元史とは
元について書かれた公式に認められた歴史書(正史)です。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻から構成されています。1369年の明の時代に宋濂・高啓などが編集しました。1206年のチンギス・カンの建国から、1367年に順帝トゴン・テムルが大都を放棄するまでが収録されています。

 

皇后のいじめを受ける

順帝(トゴン・テムル)に寵愛を受けた奇皇后ですが、当然、皇后のいじめにあっています。

答納失里皇后方驕妬,數箠辱之
<引用元:元史巻114、后妃一>

その結果(寵愛された結果)、ダナシリ皇后から嫉妬され、鞭で打たれ屈辱を受けた

答納失里は最初の皇后ダナシリの漢字表記です。

ダナシリはドラマの皇后タナシルリのモデルになった人物です。

 

順帝(トゴン・テムル)は史実でも奇皇后を深く愛していたようです。

ダナシリが亡くなったときに、皇后にすることを希望しました。

 

伯顏(バヤン)との対立

しかし、丞相の伯顏(バヤン)に反対されます。

伯顏(バヤン)はドラマの後半で、奇皇后と対立するペガンのモデルになった人物です。

答納失里既遇害,帝欲立之,丞相伯顏爭不可
<引用元:元史巻114、后妃一>

ダナシリが亡くなると、皇帝は奇皇后を皇后にすることを希望したが、丞相伯顏(バヤン)が反対した。

 

息子のアユルシリダラが生まれる

遂に、奇皇后に待望の息子・アユルシリダラが生まれたことが記録されています。

完者忽都皇后奇氏,高麗人,生皇太子愛猷識理達臘
<引用元:元史巻114、后妃一>

高麗人の奇皇后が、皇太子のアユルシリダラを生んだ。

完者忽都」は奇皇后のモンゴル名であるオルジェイ・クトゥクの漢字表記です。

奇氏は奇皇后が幸州奇氏の氏族出身であることを示しています。

「奇」は名字ですね。

 

また、「愛猷識理達臘」は息子のアユルシリダラの漢字表記です。

このように、元の歴史書「元史」には奇皇后が高麗出身の皇后であり、皇太子のアユルシリダラを生んだことが記録されています。

 

遂に、第二皇后になる

奇皇后に好機が訪れます。

伯顏罷相,沙剌班遂請立為第二皇后,居興聖宮,改徽政院為資正院

伯顏が丞相を罷免されると、沙剌班が奇皇后を第二皇后にすることを要請した。奇皇后は住居を興聖宮に移した。そして、徽政院を資正院と改称した。

伯顏(バヤン)が横暴だったのでしょう、丞相を罷免されてしまいます。

そして、沙剌班(大臣)が奇皇后を第二皇后に推薦しました。

 

奇皇后は第二皇后になると興聖宮に住むようになります。

このあたりは、ドラマも史実に忠実に描いていました。

 

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元史に残る奇皇后の功績

実在した奇皇后が皇后になってからの功績も、少しですが元史で知ることができます。

歴代の皇后に学ぶ

后無事,則取女孝經、史書,訪問歷代皇后之有賢行者為法
<引用元:元史巻114、后妃一>

奇皇后は時間があるときには、女孝經や歴史書を読んで、歴代皇后の徳のある行いを学んだ。

 

学んだことを実際に実践したのでしょう。

四方貢獻,或有珍味,輒先遣使薦太廟,然後敢食
<引用元:元史巻114、后妃一>

地方から収められた珍しい食べ物があると、まずは、太廟に供えてから食べるようにした。

太廟は皇室の先祖を祭る建物のことです。

 

大都の大飢饉での対応

1358年に大都で大飢饉が発生したときに、奇皇后が行ったことも記録されています。

至正十八年,京城大饑,后命官為粥食之。又出金銀粟帛命資正院使朴不花於京都十一門置冢,葬死者遺骼十餘萬,復命僧建水陸大會度之。
<引用元:元史巻114、后妃一>

1358年に大都で飢饉が発生すると、奇皇后は役人に粥の配給を命じた。金銀、穀物、絹を使って資正院の朴不花に都の11の門に墓を作るように命じ、10万人以上の死者を埋葬した。僧侶たちには水陸大會(諸霊の供養)を行うように命じた。

朴不花は高麗出身の宦官でしたが、奇皇后に取り立てられた奇皇后の腹心です。

ドラマでは奇皇后の臣下パク・ブルファのモデルになった人物です。

 

実在した登場人物

ドラマ「奇皇后」には実在した人物やモデルになった人物が多く登場しています。

なお、表内の備考欄ではトゴン・テムルを順帝と記載しています。

登場人物  実在 or モデル  備考
スンニャン  奇皇后 順帝の3番目の皇后
ワン・ユ  忠恵王 第28代高麗王
タファン トゴン・テムル 元の第11代皇帝
タファンの父 コシラ 元の第9代皇帝
タナシルリ ダナシリ 順帝の最初の皇后
皇太后 ブダシリ 順帝の叔母
ヨンチョル エル・テムル タナシルリの父
タンギセ タンキシ タナシルリの兄
ペガン バヤン トクトの伯父
タルタル トクト バヤンの甥
ワン・ゴ 王暠 ワン・ユの叔父
キ・ジャオ 奇子敖 奇皇后の父
オクプン 不明 奇皇后の母
トクマン 高龍普 高麗出身の宦官
パク・ブルファ 朴不花 高麗出身の宦官、奇皇后の右腕
ワン・ユの父 忠粛王 第27代高麗王
カンヌンテグン 江陸大君(恭愍王) 第31代高麗王、忠恵王の弟
バヤンフト バヤンクトゥク 順帝の2番目の皇后
アユルシリダラ アユルシリダラ 奇皇后と順帝の息子

 

漢字表記がドラマの人物名

皇帝トゴン・テムルがタファンのモデルにしては、ずいぶん名前が違うと思いませんか。

実は、トゴン・テムルの漢字表記「妥懽帖睦爾」を韓国読みすると「タファンチョプモギ」、最初の2文字「妥懽」から「タファン」と名前を付けたのです。

 

同様に、ドラマで人気が出たタルタルですが、モデルのトクトの漢字表記は「脱脱」、これを韓国語読みすると「タルタル」になります。

バヤンの「伯顔」の韓国語読みが「ペガン」です。

 

登場人物のモンゴル名の漢字表記をご紹介しておきます。

登場人物  漢字表記  読み方
スンニャン 完者忽都 オルジェイ・クトゥク
タファン 妥懽帖睦爾 トゴン・テムル
タナシルリ 答納失里 ダナシリ
皇太后 卜答失里 ブダシリ
ヨンチョル 燕鉄木児 エル・テムル
タンギセ 唐其勢 タンキシ
ペガン 伯顔 バヤン
タルタル 托克托または脱脱 トクト
バヤンフト 伯顏忽都 バヤンクトゥク
アユルシリダラ 孛羅帖木児 アユルシリダラ

 

放送前に架空の人物になったワン・ユ

ワン・ユは第28代国王・忠恵王(チュンヘワン)がモデルでした。

しかし、史実の忠恵王はドラマのワン・ユとは全く違い、暴力的で女好き、やりたい放題の国王でした。

 

そのため、急遽、ドラマの放送前に「ワン・ユは架空の人物」と設定を変えたようです。

この辺も、ドラマが歴史を歪曲していると非難される理由かもしれません。

ドラマの中でも尚宮が皇后にワン・ユのことを「凶暴で女好き」と説明している場面もあります。

詳しくは>>奇皇后のワンユは実在した忠恵王【でも、評判の悪さで架空の人物に】

 

史実でも王位を狙ったワン・ゴ

ワン・ゴは実在した王族の王暠(ワン・ゴ)がモデルです。

王暠は26代国王・忠宣王の甥にあたり、大変可愛がられていました。

 

そのため、忠宣王から瀋陽王(シミャンワン)の称号を受け継ぎました。

王暠は瀋陽王だけでなく、高麗の王座を望み何度も王位を狙いましたが、そのたびに失敗しています。

 

まとめ

高麗時代の奇皇后についてはほとんど記録が残っていません。

また、皇后になるまでの記録もほとんどありません。

 

従って、ドラマ「奇皇后」は少ない情報を脚本家が想像でつなぎ合わせたドラマと言えます。

このあたりが、史実がない、歴史を歪曲していると言われる所以のように思われます。

 

ドラマのオープニングに映される文字

「このドラマは実在した奇皇后を題材に創作したものです。架空の人物や事件を扱っており史実とは異なります。」

 

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