史実の奇皇后は、元の順帝(トゴン・テムル)に仕え、高麗出身ながら皇后にまで昇りつめた女性です。
この記事では、権威ある歴史書「元史」や「高麗史」に記された奇皇后の記録を辿り解析することで、知られざる奇皇后の真実に迫ります。
皇帝に仕え、寵愛を受ける
奇皇后(本名:不詳)は高麗の下級貴族の娘として生まれ、幼少期に元へ貢女(朝貢として送られる女性)として渡りました。
「元史」によれば、彼女は皇帝にお茶を供する女官として仕え、その才知と機転により、順帝(トゴン・テムル)の深い寵愛を受けるようになります。
初,徽政院使禿滿迭兒進為宮女,主供茗飲,以事順帝。后性穎黠,日見寵幸
<引用元:元史巻114順帝后完者忽都>
禿滿迭兒は、高麗出身の宦官・高龍普(コ・ヨンボ)と同一人物とも言われますが、別人説も存在します。
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順帝(トゴン・テムル)の深い寵愛を受けたことにより、当時の正室であった初代皇后ダナシリの嫉妬を買い、屈辱的な仕打ちを受けます。
後答納失里皇后方驕妬,數箠辱之
<引用元:元史巻114順帝后完者忽都>
※答納失里はダナシリの漢字表記、箠(せい)は細い棒や鞭のことを指します。
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順帝は史実でも奇皇后を深く愛していました。彼はダナシリが亡くなると、奇皇后を皇后にすることを望みましたが、丞相の伯顏(バヤン)に強く反対されます。
答納失里既遇害,帝欲立之,丞相伯顏爭不可
<引用元:元史巻114順帝后完者忽都>
このころ、元末期の権力争いが激しくなっており、権力闘争が宮廷政治に大きく影響を及ぼしていました。
息子アユルシリダラの誕生
奇皇后が高麗出身であり、皇太子のアユルシリダラを生んだことが記録されています。彼の誕生は皇室継承の安定に大きく貢献しました。
完者忽都皇后奇氏,高麗人,生皇太子愛猷識理達臘
<引用元:元史巻114順帝后完者忽都>
皇太子冊立と政治的影響力
高麗史に奇皇后の息子・アユルシリダラが皇太子に冊立されたことが記されています。
元以冊皇太子,赦天下・・・太子卽奇皇后所出也
<引用元:高麗史、恭愍王卷三十八 二年7月>
さらに、恭愍王が冊立を知らせる元の使節を迎賓館まで出迎えたとあり、このことは奇皇后の立場の高さと、彼女が生んだ皇子の地位を高麗でも重視されたことを示しています。
奇氏一族の登用と権力集中
皇太子の冊立によって、奇皇后の政治的影響力は一層強まり、兄・奇轍をはじめ、一族が次々と高位に就きました。
この一族登用による権力集中は王さえ無視できない有力派閥を形成し、朝廷内の対立を激化させていきます。
完者忽都皇后奇氏,高麗人,兄轍累官至太尉,參知政事・・・凡其族兄弟,以貴戚顯位
<引用元:元史巻114順帝后完者忽都>
第二皇后への昇格
奇皇后に好機が訪れます。横暴だっ伯顏が罷免され、奇皇后は第二皇后に任じられました。
伯顏罷相,沙剌班遂請立為第二皇后,居興聖宮,改徽政院為資正院
<引用元:元史巻114順帝后完者忽都>
宮廷での学問と礼儀
第二皇后となった奇皇后は女孝経や歴史書を学び、実践しました。
后無事,則取女孝經、史書,訪問歷代皇后之有賢行者為法
<引用元:元史巻114順帝后完者忽都>
さらに、宮廷での礼儀や行動も記録されており、特に皇室の先祖を祭る太廟に関しては、地方から献上された珍しい食べ物をまず供えてから食べる習慣を実践しました。
四方貢獻,或有珍味,輒先遣使薦太廟,然後敢食
<引用元:元史巻114順帝后完者忽都>
大都の大飢饉での対応
1358年、元の大都で大飢饉が発生しました。奇皇后は飢饉被害を軽減するため、粥の配給や死者の埋葬、僧侶による供養を指示したことが記録されています。
朴不花は高麗出身の宦官で、奇皇后に取り立てられた腹心です。
至正十八年,京城大饑,后命官為粥食之。又出金銀粟帛命資正院使朴不花於京都十一門置冢,葬死者遺骼十餘萬,復命僧建水陸大會度之。
<引用元:元史巻114順帝后完者忽都>
晩年と最期
史料によると、奇皇后は政治的影響力を維持しつつ、元末期の混乱に対応していました。しかし、明の勢力が北上すると元朝は首都を放棄。奇皇后は順帝に従い北方へと逃れ、その後の消息は史書から途絶えています。
没年・没地は確定しておらず、北方逃亡中に没した説やモンゴル高原に退いた説があります。
二十八年,從帝北奔。
<引用元:元史巻114順帝后完者忽都>
奇皇后の性格と評価
・機転が利く聡明さ
・礼儀と学問を重んじる知性
・寛容で慈悲深い一方、宮廷政治に翻弄される苦悩も抱える
史料間の矛盾もありますが、宮廷での寵愛や権力闘争の記録を総合すると、奇皇后は知性と配慮を兼ね備えつつも、政治的制約や嫉妬に翻弄された女性像が浮かび上がります。
元史と高麗史の比較
奇皇后の史実についてはほとんどが「元史」の記述に依存しています。一方、高麗史における奇皇后の記述は数か所に留まっています。
高麗史の奇皇后に関する主な記述
・母を元に迎えた(忠惠王後三年六月)
・皇帝が奇皇后の母の邸宅を訪れ酒宴を催した(忠惠王後四年夏四月)
・皇太子冊立の知らせ(恭愍王二年7月)
こうした高麗史における奇皇后の記述の少なさは奇氏一族への複雑な感情や奇皇后の存在を公的に認めたくなかったという高麗側の政治的配慮が背景にあると考えられます。
まとめ
史実の奇皇后は、高麗出身ながら元の皇后にまで昇りつめ、宮廷で礼儀と学問を重んじながらも、飢饉の救済や先祖祭祀に尽力した女性でした。
一方で、嫉妬や権力闘争にも翻弄され、苦悩する姿が浮かびます。「元史」の記録は、華やかさと苦悩が交錯する知られざる真の姿を伝えてくれます。