元の駙馬国となった最初の高麗王・忠烈王とはどんな王だったのか?
忠烈王の家系図から詳しく調べてみました。
忠烈王の家系図
忠烈王は初代・太祖から数えて25代目の高麗王です。
高麗王としては初めて、モンゴルから元の初代皇帝クビライの娘を王妃として迎えました。
<忠烈王の家系図>
これ以降、高麗の王は世子のときに元で暮らし、元の皇族の娘を王妃とすることが慣例となりました。
これは、忠烈王の祖父・高宗が太子(後の元宗)を人質として差し出すことを条件にして降伏したことが始まりです。
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忠烈王とはどんな王だったのか?
祖父の高宗が元に降伏、父の元宗が人質として元に行きますが、直ぐに高宗が逝去します。
そのため、元宗が帰国して第24代高麗王に即位、代わりに息子の王昛(後の忠烈王)が元に人質として送られました。
忠烈王は1269年から1272年まで3年間、元で人質生活をおくりました。
この間にクビライの娘である忽都魯掲里迷失(クトゥルク・ケルミシュ)と婚姻の許諾を得ています。
こうして、忠烈王は元王朝に絶対的に服従することで、高麗の安定化を求めました。
忠烈王プロフィール
第25代高麗王
生年:1236年2月26日
没年:1308年7月13日
在位:1274年7月24日-1298年3月2日
1298年9月13日-1308年7月30日
姓・諱:王昛(初名:諶、賰)
父:元宗
母:順敬太后
后妃:元成公主(荘穆王后)
貞信府主
淑昌院妃
陵墓:慶陵
元の駙馬国となり国の安定化を図る
忠烈王は元の初代皇帝フビライの娘を王妃に迎え、元に協力することで国の安定を図りました。
このため、高麗は駙馬国と呼ばれ、実質的には元の属国となりました。
駙馬国になったことで、元における高麗の地位は向上、元に対する要求も受け入れてもらえるようになりました。
しかし、一方で兵力や資金を提供すること、また毎年、莫大な貢物や人員を送る必要が生じました。
女性を朝貢品の1つとして献上する貢女(コンニョ)は、しばしば悪習としてドラマにも登場します。
元の時代には、なんと王族の娘も貢女の対象となりました。
忠烈王以降、王は王子のときに元に送られ、皇族の娘と結婚して、王に即位する慣習が続きました。
そのため、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿剌忒訥失里」(アラトナシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)というモンゴル風の名を持っています。
<高麗王とモンゴルの妃>
第25代王の忠烈王から第31代王の恭愍王まで、モンゴルから正妃を迎えています。
安定の代償に格下げされた王
元に服従を誓うことで、国に安定を手に入れましたが、一方で王としての権威を下げることになり、王は元皇帝より低い扱いをうけるようになります。
その証として、忠烈王以降の諡号(しごう)には○宗の”宗”の文字が使えなくなりました。
更に、王の諡号は元王朝への忠誠の意味を込めて、忠○王と名付けられます。
この慣習は第30代の高麗王・忠定王まで続きました。
第31代の恭愍王はモンゴルから王妃を迎えましたが、反モンゴル政策をとったため、名前に忠の文字は付けていません。
また、王の息子は太子ではなく世子と呼ぶようになりました。
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忠烈王の生涯
忠烈王は父の元宗の即位後に、元に人質として送られ、元で暮らしています。
また、妻に元の皇帝の娘をもらうなど、親元派であることを示します。
忠烈王は王に即位してからも親元政策をとりますが、頻繁に元に送る莫大な貢物や人員は国内を疲弊化させました。
また、あまりにも元を優遇する政策は臣下達からも反発を受けることになります。
忠烈王の経歴と出来事
忠烈王の経歴と関連する出来事をまとめておきます。
年月 | 出来事 |
1236年 | 忠烈王が元宗の息子として生まれる |
1259年 | 高宗がモンゴルに降伏 |
息子の元宗が太子としてモンゴルの人質になる | |
1259年 | 6月30日高宗が逝去 |
1260年 | 6月1日 元宗が帰国して即位 |
忠烈王が世子となる(25歳) | |
1269年 | 息子の忠烈王がモンゴルに人質となる(34歳) |
1271年 | クビライの娘・クトゥルク・ケルミシュと婚姻 |
1272年2月 | 37歳で高麗に帰国(3年間の人質生活) |
1273年 | 三別抄の乱を元との連合軍により鎮圧 |
1274年5月 | クトゥルク・ケルミシュと結婚 |
1274年8月 | 39歳で忠烈王として即位 |
1275年9月 | 王謜(後の忠宣王)が生まれる |
1275年12月 | 荘穆王后が貞和宮主に激怒。貞和宮主を幽閉する |
1275年10月 | 元の駙馬国となる |
1276年12月 | 貞和宮主のクトゥルク・ケルミシュに対するの誣告事件 |
1277年1月 | 3歳の王謜を世子にする |
1277年7月 | クトゥルク・ケルミシュによる国王殴打事件 |
1277年12月 | 金方慶誣告事件 |
1297年5月 | 王妃クトゥルク・ケルミシュが逝去 |
1298年 | 忠烈王が忠宣王に譲位 |
6カ月後に復位 | |
1308年 | 忠烈王、死去、忠宣王が高麗王になる |
忠烈王の家族
忠烈王には2人の正室(貞和宮主は後に側室に降格)と3人の側室がいました。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
正室 | 元成公主 | 1259-1297 | 諡号:荘穆王后 |
三男 | 王璋 | 1275-1325 | 第26代王・忠宣王 |
四男 | 不明 | 1278-不明 | 早世 |
三女 | 不明 | 1277-不明 | 早世 |
正室 | 貞和宮主 | 不明-1319 | 最初の妃、側室に降格 |
次男 | 王滋 | 不明-1308 | 江陽公 |
長女 | 靖寧院妃 | 不明 | 夫は斉安公王淑 |
次女 | 明順院妃 | 不明-1320 | 夫は漢陽公王儇 |
側室 | 盤珠 | 不明 | 侍婢 |
長男 | 王湑 | 1258-不明 | 小君、出家し僧侶 |
側室 | 柴無比 | 不明-1297 | 宮人、忠宣王が処刑 |
側室 | 金氏 | 不明 | 後宮 |
王より強かったモンゴルの王妃
忠烈王はモンゴルからフビライの娘・クトゥルク・ケルミシュを王妃に迎えました。
クトゥルク・ケルミシュは高麗では元成公主(ウォンソンコンジェ)と称されました。
荘穆王后(チャンモクワンフ)は死後、与えられた諡号です。
皇帝の娘を王妃に迎えたため、貞和宮主は一番最初に結婚した王妃でしたが、第2妃に降格させられてしまいます。
しかし、貞和宮主の悲劇は、これだけでは終わりませんでした。
1275年12月に王謜(後の忠宣王)の出産祝いの席で、元成公主は自分と同格の席に座る貞和宮主に激怒します。
更に、貞和宮主を陥れる密告があり、遂には貞和宮主は側室に降格され、息子・江陽公とともに幽閉されてしまいました。
元成公主が王妃として高麗に来たときには、まだ15歳の少女でした。
しかし、高麗へは多くの侍従を連れてきて、高麗の宮殿でもモンゴル同様の暮らしをしました。
モンゴルの風習を継続、贅沢三昧の暮らしをしました。
やがて、父親の権力を傘に王よりも強い権力を持ったと言われています。
忠烈王の寵愛を受けた柴無比
柴無比(シムビ)はドラマ「王は愛する」にオク・プヨンとして登場する側室です。
史実でも忠烈王の寵愛を受けました。
無比(ムビ)は、宮人として宮廷に入りますが、王に見初められて側室となりました。
忠烈王の寵愛が大きくなると、当然、周りにはその恩恵にあずかろうと人が集まってきます。
世子(忠宣王)は、そのために母親の元成公主が虐げられて苦しんでいると思い、無比に激しい増悪を持っていました。
元成公主が亡くなると、元より帰国した忠宣王は側室の無比を徹底的に調査します。
そして、呪詛した事実をつかむと無比と無比に関係した多くの人を処刑してしまいました。
忠烈王は譲位を決意するほどのショックを受けたといいます。
まとめ
忠烈王は元から高麗を守るためにモンゴルから王妃を迎え、元に服従を誓います。
駙馬国となった高麗は毎年、莫大な貢物や多くの貢女を元に献上することになりました。
これにより、民の生活は苦しくなり、高麗は疲弊していきます。
この関係は、1368年、元が明に敗れ北に逃げた第31代王・恭愍王の時代まで続きました。