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仁聖王后の家系図【朝鮮王朝で在位期間最短の王妃】

仁聖王后は、第12代王・仁宗の正室です。仁聖王后は夫の仁宗が即位からわずか8か月で崩御したため、「朝鮮王朝で最も在位期間が短い王妃」として知られています。しかし、彼女は世子嬪として20年、仁宗の死後は王大妃として30年の長きにわたり宮廷で暮らしました。

この記事では、仁聖王后の家系図をもとに、潘南朴氏の系譜、家族構成、世子嬪に選ばれた経緯、仁宗逝去後の歩みを詳しく解説します。

仁聖王后の家系図

仁聖王后は、高麗末期の豪族・朴應珠を始祖とする名門「潘南朴氏」の出身です。

仁聖王后の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<仁聖王后の家系図>

潘南朴氏は朝鮮王朝を通じて多くの高官を輩出した名門氏族です。仁聖王后の高祖父・朴訔(パク・ウン)と曽祖父の朴薑(パク・カン)は国政の中枢を担った「勲臣」でした。とくに高祖父・朴訔は世宗のときに左議政を務めています。

さらに、母方の曽祖父・金養中は、元敬王后(太宗の王妃)の兄弟(閔無恤)の娘を妻としていました。仁聖王后は父方・母方の双方に有力な家系とのつながりを持ち、世子嬪の家柄として申し分のない名家に生まれた女性でした。

潘南朴氏は、後に第14代王・宣祖の正室・懿仁王后や、第22代王・正祖の側室で純祖の生母となった綏嬪朴氏を輩出しています。このように潘南朴氏は、朝鮮王朝において王室と深い関係を築いた氏族の一つに発展していきます。

二人の王妃と側室を輩出した潘南朴氏の家系

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<二人の王妃と側室を輩出した家系>

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仁聖王后はどんな王妃だったのか?

仁聖王后の人柄について直接記された記録は多くありませんが、世子嬪として迎えられた際の冊文には、その優れた資質を称える表現が残されています。

毓粹名宗, 儲敬淑德, 含章有順
<中宗実録:中宗19年3月6日>

<訳>名家に生まれ、清らかで気品のある資質を育み、敬虔で淑やかな徳を身につけた。優れた才能を内に秘め、柔和で穏やかな性格であった。

この記録は世子嬪冊封に際して作成された公的な文章であり、彼女の実際の性格をそのまま示すものではありません。しかし、彼女は穏やかで争いを好まない性格であったことが推測されます。

仁聖王后と仁宗の間には子ができず、仁宗が崩御すると、文定王后の息子・慶源大君が第13代王・明宗として即位しています。

仁聖王后の控えめな性格と跡継ぎに恵まれなかったことで、息子を王位に就けたい文定王后と正面から利害が衝突することはありませんでした。そのため、仁宗の崩御後に小尹派が大尹派を粛清した乙巳士禍においても、仁聖王后や彼女の実家は難を逃れることができた考えられます。

仁聖王后のプロフィール

仁聖王后(インソンワンフ)
生年:1514年10月1日
没年:1577年11月29日(享年64歳)
在位:1544年11月20日-1545年7月1日
諡号:孝順恭懿仁聖王后
氏族:潘南朴氏
陵墓:孝陵(西三陵)
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仁聖王后の家族

仁聖王后は、父・朴墉と後妻・金氏の娘として生まれました。朴墉と正妻の間には男子がおらず、仁聖王后の兄・朴諫は養子でした。一方、側室との間には異母弟・朴春丁、朴平と、異母妹がいました。

なお、仁宗が仁聖王后との間に子をもうけることを避けたため、二人の間には子がいなかったとする説もありますが、それを裏付ける史料は確認できません。

関係 名前 生没年 備考
祖父 朴䎩 1440-1499
祖母 成氏 不詳 昌寧成氏
朴墉 1468-1524 錦城府院君
母(後妻) 金氏 1490-1550 聞韶府夫人、金益謙の娘
兄(養子) 朴諫 不詳
父の側室 不詳 不詳
異母弟 朴春丁 不詳
異母弟 朴平 不詳
異母妹 朴氏 不詳 李鏘の妻
仁宗 1515-1545 第12代王
子女 なし

仁聖王后の父・朴墉

仁聖王后の父・朴墉(パク・ヨン)は、1495年に進士となった文臣です。官職に就いてからは、都での勤務と地方への赴任を繰り返していました。娘が世子嬪に選ばれると、官職は副正から僉知(チョムジ)へと引き上げられましたが、その年に病で倒れています。

実録によると、1524年2月、王大妃(貞顕王后)によって世子嬪の候補が朴墉の娘に決定しました。しかし、婚礼を10月に控えていた矢先、父の病状が悪化したため、急遽婚礼を前倒しするよう王命が下されます。その後も病状は悪化の一途をたどり、危篤に陥ったため、予定を大幅に繰り上げて3月6日に婚礼が執り行われました。

朴墉は娘が世子嬪となった後、同年6月27日に亡くなっています。死後に右議政、さらに仁宗が即位して娘が王妃となった後には、領議政が追贈されました。

仁聖王后が世子嬪に選ばれた背景

仁聖王后が世子嬪に選ばれた際、中宗は彼女を高く評価する次の言葉を残しています。

傳曰: 世子嬪, 慈殿已揀擇, 無如朴壕女子之可當。
<中宗実録:中宗19年2月12日>

<訳>(王が)伝教した。「世子嬪については、慈殿(王大妃)がすでに選定したが、朴壕の娘ほどふさわしい者はいない。」

この記録から、仁聖王后は王大妃に選ばれ、中宗からも世子嬪にふさわしい人物と認められていたことが分かります。

また、潘南朴氏は過去に多くの高官を輩出した名門であり、王室ともゆかりのある家柄でした。仁聖王后は人物と家柄の両面で、世子嬪として申し分のない条件を備えていたといえます。

さらに、祖父や父が朝廷の権力者ではなかったことも、選定の要因だったと考えられます。外戚が権力を強めて争っていた中宗の時代において、まだ勢力基盤が大きくない家柄であることは、王室にとって好ましい条件だったのです。

史実で見る仁聖王后の苦悩

1545年、仁宗の崩御後に明宗が即位すると、文定王后の弟・尹元衡らによる乙巳士禍(ウルササファ)が起こります。これは、鳳城君を推戴しようとしたという謀反の罪を理由に、仁宗の外戚である尹任一族と、彼らと関係の深い士林派が粛清された事件です。

仁聖王后自身に直接の危害は及びませんでしたが、夫・仁宗の母方の親族である尹任らは、逆賊の罪を着せられて殺害されました。

政治からは距離を置いていた仁聖王后でしたが、死を目前にした1577年、宣祖に対し、粛清された大尹派の人々の名誉回復を訴えています。

大妃白于上, 欲復柳灌、柳仁淑、尹任
<宣祖修正実録:宣祖10年5月1日>

<訳>大妃が王に申し上げた。「柳灌、柳仁淑、尹任の名誉を回復したい。」

彼女が人生の最期にこの問題に触れたことは、乙巳士禍による粛清の苦しみを長く忘れずにいたことを示しています。その後、宣祖は尹任らの名誉を回復しました。

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仁聖王后の生涯

仁聖王后は11歳で李峼(後の仁宗)の世子嬪に選ばれると、即位までの約20年間を世子嬪として過ごしました。1544年11月、中宗が逝去して、夫が仁宗として即位しますが、翌年7月に崩御しています。

そのため、王妃としての在位期間はわずか8か月で、朝鮮王朝の歴代王妃の中でも最も短いものでした。その後は王大妃となり、約30年にわたって表舞台から距離を置きながら、宮廷で静かに暮らします。1577年11月29日、景福宮の交泰殿で亡くなりました。享年64歳です。

実録には次のように記されています。

傳曰: “恭懿殿, 申初昇遐, 予心罔極。
<宣祖実録:宣祖10年11月29日>

<訳>(王が)伝教した。「恭懿王大妃殿が、申の刻の初め(午後3時頃)に逝去された。私の心は限りない悲しみに包まれている。

死後は仁宗とともに孝陵(京畿道高陽市の西三陵)に葬られています。

生涯一覧

出来事
1514 朴墉と後妻・金氏との間に生まれる
1524 世子嬪に選ばれる。この年、父・朴墉が逝去
1544 仁宗が即位。王妃になる
1545 仁宗が逝去。王大妃になる
1547 「恭懿」の尊号を受け、恭懿王大妃となる
1567 明宗が逝去。宣祖が即位
1577 景福宮で逝去

まとめ

仁聖王后は第12代王・仁宗の正室であり、朝鮮王朝の歴代王妃の中で最も在位期間が短かった王妃として知られています。王妃としての期間はわずか8か月でしたが、その後は王大妃として30年以上の歳月を宮廷で送りました。

11歳で世子嬪に選ばれたときには父の病死という試練を経験し、王妃となってからは夫との死別、そして夫の外戚たちが次々と粛清される悲劇を目の当たりにしました。

死を目前にして、亡き夫の親族たちの名誉回復を宣祖に訴えた彼女の願いは、長年抑圧されてきた深い苦悩の表れだったといえるでしょう。その悲願が無事に叶えられたことを知ることなく旅立った仁聖王后ですが、今は夫・仁宗の隣で安らかに眠っています。

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