章順王后(チャンスンワンフ)は第8代王・睿宗に嫁ぎ、わずか17歳で生涯を閉じた薄幸の王妃です。
この記事では、章順王后の家系図にから彼女の人物像、家族関係、そしてその生涯について史実に基づいて詳しく解説します。
章順王后の家系図
章順王后は、名門・清州韓氏一族の出身でした。清州韓氏は高麗時代の功臣・韓蘭(ハン・ラン)を始祖とし、王室との婚姻を通じて朝鮮王朝でも大きな勢力を築いた氏族です。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<章順王后の家系図>
同じ清州韓氏からは、李成桂の正室・神懿王后(シンウィワンフ)、仁粋大妃(インスデビ)、安順王后(アンスンワンフ/睿宗の継室)、恭恵王后(キョンヘワンフ/成宗の妃)など、複数の王妃が輩出されています。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<清州韓氏の王妃>
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章順王后は16歳で当時の世子(後の睿宗)に嫁ぎ、世子嬪となりました。しかし、翌年、王子・仁城大君(インソンデグン)を生みますが、産後に健康が悪化。17歳の若さで亡くなっています。たった17年という短い命でした。
そのため、彼女に関する史料は多くはありませんが、「睿宗実録」や「世祖実録」の記録から、婚姻の経緯や追尊の過程がうかがえます。
章順王后のプロフィール
没年:1461年1月5日(享年17歳)
諡号:徽仁昭徳章順王后
氏族:清州韓氏
夫:睿宗
子女:仁城大君
父親:韓明澮
母親:驪興閔氏
章順王后の家族
章順王后の父・韓明澮は、1453年の「癸酉靖難」で首謀者として首陽大君(世祖)の王位奪取を支えた政治家です。
彼は王室との関係を深めるために、二人の娘を王族に嫁がせました。妹の恭恵王后は第9代王・成宗の正室となり、朝廷で大きな影響力を持つことになりました。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 父 | 韓明澮 | 1415-1487 | |
| 母 | 黄驪府夫人 | 不詳 | 驪興閔氏 |
| 兄 | 韓堡 | 不詳 | |
| 長女 | 不詳 | 不詳 | 尹磻(尹思路の息子)の妻 |
| 次女 | 不詳 | 不詳 | 申澍(申叔舟の息子)の妻 |
| 三女(本人) | 章順王后 | 1445-1461 | 睿宗の正室 |
| 四女 | 恭恵王后 | 1456-1474 | 成宗の正室 |
| 夫 | 睿宗 | 1450-1469 | 第8代王 |
| 長男 | 仁城大君 | 1461-1463 | 早世 |
章順王后の生涯
1445年、章順王后は韓明澮の娘として生まれました。1460年に16歳で王世子(睿宗)と婚姻し、世子嬪になっています。
1461年、章順王后は世子嬪のときに長男・仁城大君を出産しましたが、産後亡くなり、王妃になることはありませんでした。睿宗が即位後に王妃として追尊され、「徽仁昭徳章順王后」の諡号が贈られました。
実録には次のように記されています。
追尊章順王后爲徽仁昭德章順王后上具冕服、率百官、就仁政殿
<成宗実録:成宗1年1月22日の条(1470年)>
「徽」は優れた品性、「仁」は仁愛の心、「昭」は明らかで高潔な徳、「德」は道徳・徳行を表しています。つまり、章順王后を「優れた品性と仁愛の心を持ち、高潔な徳を備えた女性であった」と称しています。
お墓は恭陵(京畿道坡州市)ですが、亡くなったときは、世子嬪墓として簡素な作りでしたが、追尊されると文臣、馬、羊、虎などの石像が追加され、王妃墓にふさわしい形式へと整えられました。
まとめ
章順王后は、世祖の大功臣であり権力者だった韓明澮の娘でした。当時まだ世子だった睿宗に嫁ぎ、王子を生みますが、出産後まもなく17歳で亡くなりました。
その8年後、夫の睿宗も即位からわずか1年2か月で世を去ります。政略に翻弄され、自らの運命を選べなかった章順王后の薄幸の生涯は、長い朝鮮王朝史の中に埋もれ、ほとんど顧みられることがありません。