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武烈王(金春秋)の生涯【三国統一への道を史実で解説】

新羅第29代国王・武烈王(金春秋)は悲願であった三国統一への道筋をつけた王でした。

この記事では、滅亡寸前にあった新羅を立て直し、次代・文武王による統一事業への道筋を整えた武烈王の生涯を史実に基づき解説します。

<解説の要点>
・王族としての立場
・外交官としての活動
・国王としての統治
・百済滅亡とその後

金春秋の誕生と王族としての立場

603年、金春秋(後の武烈王)は、金龍樹(真智王の子)と天明公主(真平王の娘)に間に生まれました。

父の死後、金春秋は金龍樹の弟・金龍春の養子となります。「三国史記」では金龍樹と金龍春は同一人物とする記述もありますが、真偽は不明です。いずれにしても、金春秋は生まれながらにして王族の血を引く存在でした。

しかし、祖父の真智王は「三国遺事」によると廃位された王であり、金春秋の王統的立場は必ずしも安定したものではなかったと考えられます。

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金春秋の結婚

金春秋(後の武烈王)は、最初の妻・宝羅との間に一男一女をもうけました。

長女・古陁炤(コタソ)は後に百済侵攻の中で命を落としています。一方、宝羅自身も長男出産後に亡くなっています。

その後、金春秋は名将・金庾信の妹(後の文明王后)を妻に迎えています。この婚姻は、王族と軍事勢力を結びつける政治的意味を持つものでした。

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百済の侵攻と娘・古陀炤公主の死

641年、百済で義慈王(ウイジャワン)が即位すると、新羅への侵攻が激化しました。翌年には新羅国境付近の四十余城を攻略し、さらに伽耶地方へ侵出して大耶城を陥落させています。

この時、降伏した城主とその妻であった金春秋の娘・古陁炤(コタソ)は殺害されます。史料によると、この訃報に接した金春秋は深く落胆したと記されています。

しかし、この出来事は金春秋にとって単なる私的感情にとどまらず、以後の外交・軍事行動を加速する原動力となりました。

高句麗への援軍要請と失敗

642年、新羅は百済の圧迫を受け、国家存亡の危機に直面していました。金春秋(後の武烈王)は危機打開と娘の仇を討つ決意のもと、単身で高句麗に赴き援軍を要請します。

しかし交渉は決裂し、漢江上流域の返還を拒んだことで監禁されてしまいます。この知らせを受け、金庾信が軍を挙げると高句麗はこれを恐れて釈放しましたが、新羅は依然として孤立した状況に置かれました。

唐との交渉決裂

643年9月、新羅は高句麗・百済連合に対抗するため、唐に救援軍の派遣を要請しました。

しかし唐の太宗は、援軍の条件として王位に自らの親族を立てるという屈辱的な提案を示します。<三国史記5 新羅本紀 善德王十二年九月条より>

新羅はこれを拒否し、唐との交渉は決裂しました。以後、新羅は単独で百済・高句麗に対抗する道を選びます。

金春秋が使節として倭国を訪問

「日本書紀」によれば、647年、金春秋(後の武烈王)は新羅の使節として倭国を訪れたと記されています。

ただし、この記録は韓国側史料には見られず、信憑性には慎重な見方もありますが、当時の東アジア情勢の中で、新羅が活発な対外活動を行っていたことを示す材料とも考えられます。

毗曇(ピダム)の乱が勃発

647年、上大等に就任した毗曇(ピダム)は、「女主不能善理」、すなわち女性君主は国を治められないとして反乱を起こしました。この毗曇の乱は、金庾信によって十日余りで鎮圧され、毗曇一族は滅ぼされます。

乱の最中である同年12月8日、善徳女王が亡くなり、後を継いで真徳女王が即位しましたが、この時点で金春秋(後の武烈王)は事実上、新羅の最高権力者となっていました。

善徳女王の死因についてはこちら>>善徳女王の死因とは?【謎の多い女王の死を徹底調査】

唐との外交交渉と同盟成立

648年、百済の侵攻に苦しむ新羅は、金春秋(後の武烈王)を唐へ派遣。太宗に謁見した金春秋は、「五経正義」への関心を示して信頼を得たうえで百済の脅威を訴え、唐との軍事同盟を成立させます。

帰国の途上、高句麗兵に遭遇する危機もありましたが、従者・温君解が身代わりとなったことで金春秋は無事帰国しています。

この唐・新羅同盟は、新羅の運命を決定づけるものであり、後の百済滅亡・高句麗討伐の基盤となりました。

武烈王として即位

654年、真徳女王の死去により金春秋が武烈王として即位しました。和白会議は伊飡・閼川を推挙しましたが、閼川は高齢を理由に辞退し、金春秋を推薦します。金春秋は三度これを固辞した末、王位就任を決意しました。

度重なる辞退は、祖父・真智王の廃位に関わった和白会議に対し、自身の王位継承の正当性と家柄の復権を認めさせる意図があったと考えられます。

即位後、父を文興大王、母を文貞太后に追尊。王権の正統性を明確にし、自らの王位を制度的に固めました。

新族支配による王権の強化

王位を確立した武烈王は、続いて王権強化に着手しました。655年、長男・法敏を太子に冊立して後継を明示し、四男・文王には伊飡の高い官職を授けます。

656年には唐から帰国した次男・金仁問を軍主に、658年には文王を執事部中侍に任命しました。さらに、貴族の代表的官職である上大等に側近の金庾信を据え、貴族連合体制の弱体化を図ります。

太子冊立、人事刷新、金庾信の登用などは、王権再編の象徴的政策でした。

唐・新羅連合軍の出撃

655年、百済は高句麗と連合して新羅の城を次々に奪取しました。武烈王は危機感を抱き唐に救援を要請します。

659年、再び百済の侵攻が激化すると、唐は水面下で討伐を決定して準備を進めました。

660年3月、高宗は蘇定方を総管とする水陸13万の大軍を派遣し、新羅にも出兵を命じます。新羅軍5万がこれに呼応し、遂に、唐・新羅連合軍は百済討伐に向けて出撃しました。

これは武烈王の外交と王権強化が結実した瞬間でした。

黄山伐の戦いと階伯の最期

唐・新羅連合軍による百済滅亡の経過は「三国史記」に詳しく記されています。660年5月26日、武烈王は金庾信らとともに出陣し、7月9日、金庾信は黄山原で百済将・階伯と対峙しました。

戦の中、盤屈と官状の決死の突入が新羅軍の士気を奮い立たせ、戦局は一変します。百済軍は総崩れとなり、階伯は戦死、黄山伐(ファンサンボル)の戦いは新羅の大勝利に終わりました。

この勝利によって百済滅亡は決定的となりました。

百済の滅亡と大耶城裏切り者の処刑

黄山伐の勝利後、660年7月12日、唐・新羅連合軍は百済王都・泗沘城を包囲しました。義慈王は夜陰に紛れて熊津城へ逃走し、王子・隆は降伏します。この際、法敏は妹・古陀炤を殺された恨みを隆にぶつけました。

このときの状況が、「三国史記」に詳しく記載されています。

法敏跪隆於馬前,唾面罵曰:「向者,汝父枉殺我妹,埋之獄中,使我二十年間,痛心疾首,今日汝命在吾手中!」隆伏地無言。<三国史記5 新羅本紀 武烈王七年七月十三日より>

<訳>法敏は隆を馬の前にひざまずかせ、顔面にツバを吐きつけ罵った。「お前の父は私の妹を無実の罪で殺し、その遺体を獄中に埋めた。このことで、私は20年間心を痛め、恨みをいだき続けてきた。今日、お前の命は我が手中にある」隆は地に伏せ返す言葉がなかった。

7月18日、義慈王も降伏し、9月には唐へ連行され、百済はここに滅亡しました。

また、大耶城を落城させた裏切り者の毛尺と黔日を処刑。娘の古陁炤(コタソ)を失ってから18年、遂に武烈王は娘・古陁炤(コタソ)の恨みを晴らしています。

高句麗軍の侵攻

661年5月、高句麗将の惱音信は靺鞨軍と連合して新羅へ侵攻し、述川城を攻撃しました。攻略に手間取ると、手薄な北漢山城へ標的を変更します。城内にはわずか2800人しかいませんでしたが、城主・冬陁川は士民を励まし二十余日間持ちこたえました。

やがて高句麗陣営に星が落ち、雷雨が起こると、敵軍は動揺して退却したと伝えられています。この逸話は、武烈王の時代がなお戦乱の只中にあったことを示すと同時に、新羅が寡兵で強敵に抗し、国家存亡をかけた防衛戦を続けていた時代であったことも物語っています。

そして三国統一事業が、こうした苛烈な防衛戦の積み重ねの上に成し遂げられたことを、象徴的に示すものです。

武烈王の逝去と三国統一

661年6月、高句麗侵攻に参加していた武烈王は陣中で病没しました。享年59歳で、この時、大官寺の井戸が血に変わったなどの異変が伝えられています。

武烈王の死後、王子は第30代王・文武王として即位。668年に、唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼし、676年には唐を退けて、遂に、武烈王の意思を継いだ文武王が朝鮮半島の統一を達成しました。

まとめ

金春秋(後の武烈王)は王族の血統として生まれ、善徳女王の甥に当たりますが、祖父の真智王が廃位されたことで王統の中で必ずしも安定した立場ではありませんでした

しかし、武烈王は、激動の三国時代に唐との同盟を軸に外交と戦争を主導した「外交と戦争の王」だったといえます。

彼は巧みな外交戦略で危機的状況にあった新羅を救い、三国統一の道筋を切り開きました。

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