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朝鮮王朝の世子たち【王になれなかった悲運の跡継ぎ】

世子とは、王位継承者であることを約束された王子のことです。朝鮮王朝時代に次期国王を約束されながら、国王になれなかった世子たちがいます。

この記事では、廃位、殺害、病死など。なぜ国王になれなかったのか、その真実に迫ります。

朝鮮王朝の世子とは?

世子(セジャ)とは、次期国王として正式に認められた王子の称号です。中国皇帝からの冊封(承認)が必要であり、承認前の跡継ぎは元子(ウォンジャ)と呼ばれました。

世子は王になるための教育を受け、政治を学び、王室が認めた妻(世子嬪)を迎えました。時に「代理聴政」を任されることもあり、単なる名目上の跡継ぎではなく政治的役割も大きな存在でした。

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廃位された世子

朝鮮王朝で最初に廃位された世子は譲寧大君でした。女性問題と素行不良により廃位されています。代わって世子となった実弟の忠寧大君は後に名君の世宗として名を残しています。

燕山君の息子のイ・ファンと光海君の息子・イ・ジ(李祬)は共にクーデターにより父王が廃位され、世子の座を失いました。

世子 生年-没年 国王 廃位の経緯
譲寧大君 1394-1462 太宗 素行不良により廃位
イ・ファン 1498-1506 燕山君 中宗反正で廃位
イ・ジ 1598-1623 光海君 仁祖反正で廃位
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殺害された世子

朝鮮王朝最初の世子の李芳碩(イ・バンソク)は、17歳のときに王位を狙った李芳遠(太宗)により殺害されました。後に宜安大君(ウィアンテグン)と追号されています。

荘献世子(思悼世子)は父親の英祖により殺害されました。荘献世子は精神不安定からくる異常な行動により英祖が米びつに閉じ込め、命を落としました。

世子 生年-没年 国王 死因
李芳碩 1382-1398 太祖 第一次王子の乱で殺害
荘献世子 1735-1762 英祖 米びつに閉じ込められ死亡

病死した世子

世子の中には、即位を目前に病死した者も多くいます。
昭顕世子は8年間の清での人質生活から帰国後のわずか2ヶ月で病死しています。仁祖による毒殺説もあります。

孝明世子は純祖に代わり代理聴政を行うなど、その功績から聡明な世子として知られていますが、22歳の若さで病に倒れました。

世子 生年-没年 国王 死因
懿敬世子 1438-1457 世祖 病死
昭顕世子 1612-1645 仁祖 病死(毒殺説あり)
孝章世子 1719-1728 英祖 病死
文孝世子 1782-1786 正祖 病死(麻疹)
孝明世子 1809-1830 純祖 病死

追贈された世子/世孫

実質的な王位継承者ではありませんでしたが、死後、世子の称号を追贈された例もあります。

懿昭世孫は荘献世子の息子で正祖の兄にあたりますが、2歳で病死しています。死後、父親が荘献世子に追尊されると、懿昭世孫の諡号が贈られました。

世子 生年-没年 国王 備考
懿昭世孫 1750-1752 英祖 父追尊により諡号を追贈

王子の称号|大君・君・世子・世孫

王子を名前で呼べるのは親近者(王様や王妃)だけです。そこで、王子は成長すると称号が与えられます。王子の呼称は出生の身分や地位で分かれます。

正室から生まれた王子:〇〇大君(テグン)
側室から生まれた王子:○○君(グン)

また、王位継承者は「世子」と呼ばれ、中国皇帝から承認されていない場合は「元子」と称されました。

王の孫が継承者となる場合は「世孫」、弟が指定される場合は「世弟」と呼ばれます。例えば、英祖の孫の正祖は世孫(セソン)、英祖自身が景宗の世弟(セジェ)でした。

まとめ

朝鮮王朝の世子は、国王になるはずの存在でありながら、その座を追われ、殺され、あるいは若くして命を落とした例が少なくありません。

彼らの運命をたどることで、王位継承をめぐる朝鮮王朝の複雑な権力闘争や制度的背景が浮かび上がってきます。

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