韓国朝鮮王朝の歴史をドラマを見るのに役立つ主要な人物の年表です。
時代劇ドラマを見るときの参考にしてください。
なお、他の人物についても随時、追加していく予定です。
師任堂(1504年~1551年)
師任堂(サイムダン)は 中宗の時代を生きた女流書画家で、大儒学者である李栗谷の母親でした。
年月 | 出来事 |
1504 | 師任堂が申命和の次女として生まれる |
1510 | 7歳のときに母方の祖父が絵を学ばせる |
その後、儒教の経典、古典を学ぶ | |
1516 | 申命和が41歳で科拳(進士)に合格する |
1519 | 己卯士禍が起こる。申命和は難を逃れ、江陵に戻る |
1522 | 師任堂が19歳のときに李元秀(イ・ウォンス)と結婚する |
父親の申命和が亡くなる | |
1524 | 三年の喪に服した後に姑の家で婚礼を挙げる |
師任堂が長男・李璿(イソン)を出産する | |
以降、夫の赴任先を転々として暮らす | |
1529 | 師任堂が長女(梅窓)を出産する |
不詳 | 次男の李璠(イボン)を出産する |
不詳 | 次女を出産する |
1536 | 江陵の実家(烏竹軒)で三男・李珥(イイ)を出産する |
不詳 | 三女を出産する |
1541 | 師任堂が38歳の時に夫の実家(寿進坊)で姑と暮らす |
1542 | 四男の李瑀(イウ)を出産 |
1550 | 師任堂の夫が水運判官に任命される |
1551 | 春から三清洞で暮らし始める |
1551 | 5月17日、師任堂は48歳で病死 |
白光炫(1625年~1697年)
白光炫(ペク・クァンヒョン)は煮沸消毒した鍼による治療で医術を飛躍的に向上させた医官でした。
顕宗から粛宗の時代に活躍しています。
年月日 | 出来事 |
1625 | 父・白哲明の次男として生まれる |
不詳 | 軍隊の羽林衛に入る |
落馬の大怪我がキッカケで医師を目指す | |
馬医として医術を学ぶ | |
人の腫れ物を治療して評判となる | |
1663 | 典医監の提調の推薦で治腫教授になる |
李相國に推薦されて内医院に入る | |
1670 | 顕宗の治療に携わる(8月16日実録) |
1672 | 仁宣王后(大妃)の腫れ物を切開して治療する |
1684 | 康翎県監その後、抱川県監に任命される |
1691 | 知中樞府事(正二品相当) |
1692 | 崇禄大夫(正一品相当) |
1695 | 領敦寧府事の尹趾完(ユン・ジワン)を治療(12月9日実録) |
1696 | 5月景宗の王妃・端懿王后の腹痛を治療する |
1697 | 突然、吐血して亡くなる |
興宣大院君(1821年~1898年)
興宣大院君は、朝鮮末期の激動の時代を生きた主導的な人物です。
年月 | 出来事 |
1821年 | 李昰応(興宣君)が生まれる |
1832年 | 閔致久の娘(驪興府大夫人)と結婚 |
1843年 | 興宣君に封爵(ほうしゃく)される |
1852年 | 次男の命福(後の高宗)が生まれる |
1863年 | 命福が高宗として即位、興宣大院君と称される |
1865年 | 景福宮の再建工事を開始 |
1866年3月 | 丙寅教獄(宣教師9名と多数の信者を処刑) |
1866年3月 | 明成皇后を高宗の王妃とする |
1866年10月 | 丙寅洋擾(フランス海軍と交戦) |
1871年6月 | 辛未洋擾(通商を迫った米国が江華島に侵攻) |
1873年11月 | 癸酉政変(大院君失脚、高宗の親政が始まる) |
閔氏一族の勢道政治が始まる | |
1874年3月 | 明成皇后が長男・李坧(後の純宗)を出産 |
1875年8月 | 李坧が清から世子として認められる |
1875年9月 | 江華島事件(日本軍と朝鮮軍の交戦) |
1882年7月 | 壬午事変(朝鮮人兵士の反乱) |
明成皇后は宮殿を脱出、閔応植に保護される | |
1882年8月 | 大院君が清に強制連行、幽閉される |
1884年12月 | 甲申政変(日本軍が王宮を占領) |
清軍が反撃、3日後には閔氏が政権を奪回 | |
1885年1月 | 日朝間で漢城条約が結ばれる |
1885年4月 | 日清間で天津条約が結ばれる |
1885年10月 | 大院君が清から帰国 |
1890年 | 東学党の全琫準を門客として保護 |
1893年2月 | 大院君が全琫準と東学党の支援を密約 |
1894年2月 | 甲午農民戦争が始まる |
1894年7月 | 甲午倭乱(日本軍による王宮占拠) |
開化派の政権成立、大院君が摂政に再任 | |
1ヶ月後に摂政を解任、雲峴宮に幽閉される | |
1894年8月 | 日清戦争が始まる |
1894年11月 | 甲午農民戦争の鎮圧(牛金峙で大敗) |
1895年4月 | 日清講和条約(下関条約) |
1895年10月 | 乙未事変(明成皇后暗殺される) |
1895年10月 | 大院君が明成皇后の廃位を提言 |
1896年2月 | 高宗はロシア公館に亡命 |
大院君は揚州に隠居(権力欲はなくなる) | |
1898年1月 | 大院君の夫人が死去 |
1898年2月 | 大院君79歳で死去 |
李垠と妻・李方子(1897年~1989年)
朝鮮王朝最後の皇太子であった李垠の妃は、日本の皇族の娘・梨本宮方子でした。
年月 | 出来事 |
1897 | 10月20日、李垠が高宗の七男として生まれる |
1901 | 11月4日、梨本宮守正王と伊都子夫妻の長女として李方子が生まれる |
1907 | 8月27日、義兄の李坧が純宗として即位 |
9月7日、李垠が皇太子に冊立され、英王と称される | |
12月、李垠が12歳で日本に留学 | |
1908 | 李垠は日本の学習院に入学する |
1910 | 日韓併合 |
朝鮮の王室は日本の皇族に準じる王公族となる | |
純宗は李王と称され、李垠は王世子となる | |
1911 | 李垠は陸軍中央幼年学校予科の第2学年に編入 |
1913 | 9月、陸軍中央幼年学校本科に入学 |
1915 | 士官候補生となり、近衛歩兵第2連隊に配属される |
1916 | 学習院女子中等科在学中の李方子と李垠が婚約 |
1917 | 李垠は陸軍士官学校を卒業、陸軍将校となる |
1918 | 皇室典範第39条が増補され、結婚が容認される |
1919 | 1月21日、李太王(高宗)が逝去、結婚は延期される |
1920 | 4月28日、李垠と李方子が結婚する |
1921 | 長男の晋が生まれる |
1922 | 夫妻は、晋を連れて日本統治下の朝鮮を訪問する |
帰国直前に晋は急逝する。性消化不良と診断される | |
韓国、日本の双方から毒殺説が流れる | |
1923 | 陸軍大学を卒業する |
1926 | 李王(純宗)が逝去、李垠が王位を継承、李王垠と呼ばれる |
朝鮮軍司令部附を兼務する | |
1927 | 5月から翌1928年4月まで夫妻は欧州を訪問する |
1923 | 李方子が流産する |
1928 | 陸軍少佐となる |
1930 | 李方子が2度目の流産する |
1931 | 次男の玖が生まれる |
1938 | 李垠は陸軍少将になり、中国に赴任する |
1940 | 李垠は陸軍中将になる。大阪に赴任する |
1941 | 12月、太平洋戦争の勃発 |
1943 | 李垠は第1航空軍司令官になる |
1945 | 4月、李垠は軍事参議官になる |
8月、日本が太平洋戦争に敗戦する | |
日本政府からの歳費が打ち切られ、生活は苦しくなる | |
1946 | 財政再建の財産税により、多額の納税負担を負う |
1947 | 王公族の身分を喪失、外国人扱いとなる |
但し、国籍はまだ日本のまま | |
1948 | 大韓民国が建国、李承晩が大統領となる |
1952 | 平和条約発効により、日本国籍を喪失。無国籍となる |
李承晩大統領が韓国籍を認めず、帰国できなかった | |
財産税の納入時の多額の借金返済に李王家邸を売却 | |
李王家邸は後に赤坂プリンスホテル(旧館)となる | |
1957 | 留学していた息子の李玖がマサチューセッツ工科大学を卒業 |
家族で米国生活を始める | |
1959 | 3月、李垠が脳血栓に倒れ、歩行困難になる |
5月に日本に戻る | |
1960 | 再度渡米を企図して、夫妻は日本国籍を取得する |
初代大統領・李承晩が失脚 | |
1962 | 大韓民国の国籍法の規定に基づき、夫妻が韓国籍を回復する |
1963 | 韓国政府からの生活費の送金が開始される |
5月、李垠の容体が悪化、赤坂の山王病院に入院する | |
11月22日に夫婦ともに韓国へ渡り、大歓迎を受ける | |
病身の李垠はソウルの聖母病院に入院する | |
1970 | 5月1日、李垠がソウルの聖母病院で逝去 |
韓国に帰化した李方子は障害児教育に取り組み始める | |
1989 | 4月30日、李方子が逝去。享年87歳 |