韓国朝鮮王朝の歴史をドラマを見るのに役立つ主要な人物の年表です。
時代劇ドラマを見るときの参考にしてください。
なお、他の人物についても随時、追加していく予定です。
黄喜(1363年~1452年)
黄喜(ファン・ヒ)は朝鮮で最も長く領議政を務めた人物で、世宗の偉業を支えた政治家でした。
| 年 | 職歴(及び出来事) |
| 1363 | 黄君瑞の次男として生まれる |
| 1390 | 成均館の学官になる |
| 1392 | 李成桂が朝鮮を建国 |
| (高麗王朝が滅ぼされると、朝鮮王朝への出仕を拒否する) | |
| 1394 | 説得され朝鮮王朝に出仕。成均館の学官に世子右正字を兼務する |
| 藝文春秋館、司憲監察、右拾遺、京畿道都使の官職を歴任する | |
| 1400 | 刑曹・礼曹・吏曹・兵曹などの正郎を務める |
| 1401 | 朴錫命の推薦で都評議使經歷になる |
| 承樞府都事を経て、兵曹正郞になる | |
| 1402 | 右司諌大夫に就任する |
| 1402 | (3月、父親の喪でしばらく職を辞す) |
| 3年の喪が終わる前に、承樞府の官職に推薦される | |
| 1404 | 右司諌大夫、左司諫大夫に任命される |
| 1405 | 12月6日、朴錫命の推薦で、承政院知申事に大抜擢される |
| 1408 | (閔無恤などの横暴を排除する) |
| 1409 | 8月10日、嘉靖大夫、參知議政府事に任命される |
| 12月6日、刑曹判書(正2品)に任命される | |
| 1410 | 2月13日、知議政府事に任命される |
| 7月6日、再び司憲府大司憲に任命される | |
| 1411 | 7月20日、兵曹判書に任命される |
| (8月29日、左軍摠制の河久と明に行く) | |
| 1413 | 4月7日、礼曹判書(正二品)に任命される |
| 1414 | (2月13日、礼曹判書で病気で辞職する) |
| 6月12日、礼曹判書に復帰する | |
| 1415 | 5月17日、吏曹判書に任命される |
| 11月7日、議政府參贊に任命される | |
| 12月28日、戶曹判書に任命される | |
| 1416 | 3月16日、吏曹判書に任命される |
| (世子讓寧大君の失行を擁護して罷職される) | |
| 11月2日、工曹判書(正二品)に復帰する | |
| 1417 | 2月22日、平安道都巡問使兼平壤尹(従二品)に降格される |
| 12月3日、刑曹判書に任命される | |
| 1418 | 1月11日、漢城府判事に左遷される |
| (5月11日、讓寧大君の世子廃位に反対して太宗の怒りを買って交河に流刑にされる) | |
| (5月28日、故郷に近い南原に移配される) | |
| (9月9日、太宗が譲位して、世宗が王位に就く) | |
| 1422 | (2月12日、黄喜が南原から呼び戻される。その後、職も戻される) |
| (5月10日、太宗が亡くなる) | |
| 1423 | 5月27日、礼曹判書に任命される |
| 7月16日、江原道都觀察使に任命される | |
| 12月11日、判右軍都摠制府事に任命される | |
| 1424 | 6月20日、贊成に任命される |
| 1425 | 3月1日、兼大司憲に任命される |
| 5月21日、議政府贊成事に任命される | |
| 1426 | 2月10日、吏曹判書に任命される |
| 5月13日、右議政に任命される。64歳 | |
| 1427 | 左議政に任命される |
| 1428 | (人を殴って殺した婿’徐達を放免して罷免される。1ヶ月後に復帰) |
| (朴苞(パク・ポ)の妻と姦通した疑いを受ける) | |
| 1430 | (済州監牧観太石鈞の減刑を求めたことで弾劾を受け罷職される) |
| 1431 | 復職して領議政府事になる |
| 1431 | 領議政に就任する |
| 1449 | (職を辞す) |
| 1450 | (2月17日、世宗が逝去する) |
| 1452 | 黄喜が亡くなる |
趙末生(1370年~1447年)
趙末生(チョ・マルセン)は太宗の側近として政治的な能力を磨き、出世街道を登っていきました。
しかし、朝鮮最大の賄賂事件が発覚、趙末生は官職を剥奪され、流刑となります。世宗の強い願望で復帰しますが、復帰後も臣下からの相次ぐ弾劾に苦しい政治生活を送りました。
| 年 | 出来事 |
| 1370 | 趙誼 (チョ・ウィ) の息子として、京畿道楊州に生まれる |
| 鄭夢周 の弟子・趙庸 (チョ・ヨン) の門下で修学する | |
| 1401 | 4月9日、増広文科殿試に首席で合格、料物庫副使に登用される |
| 監察(正六品)、正言(正六品)、献納(正五品)などの官職を歴任する | |
| 1403 | 明から帰国、その後 |
| 掌令(正四品)・芸文館直提学(正三品)、承政院同副承旨(正三品)を歴任 | |
| 1407 | 科拳重試を二番で合格、典農副正に採用される |
| 1408 | 掌令(正四品)を経て、芸文館直提学(正三品)を務める |
| 1411 | 判繕工監事(正三品)、承政院同副代言(正三品)に任命される |
| 1416 | 知申事(正三品)に任命される |
| 1418 | 8月10日、刑曹判書(正二品)に任命される |
| 8月27日、兵曹判書(正二品)に任命される | |
| 9月、太宗が譲位して、世宗が王になる | |
| 1422 | 太宗が逝去 |
| 1426 | 3月4日、賄賂事件で流刑になる |
| 1428 | 4月1日、趙末生が釈放される |
| 1432 | 12月8日、同知中枢院事に任命される |
| 1433 | 1月19日、咸吉道觀察使 兼 咸興府尹に任命される |
| 1434 | 9月19日、中枢院使に任命される |
| 1435 | 2月1日、判中枢院事に任命される |
| 12月3日、崇政知中枢院事に任命される | |
| 1437 | 12月1日、藝文館大提學に任命される |
| 1438 | 6月29日、再び、判中枢院事に任命される |
| 8月5日、趙末生を慶尚道・全羅・忠清三道都巡問使に任命される | |
| 1439 | 7月29日、70歳を過ぎたので、常參の参列を免除される |
| 1440 | 12月4日、芸文館大提学に任命される |
| 1444 | 5月9日、判中樞院事、知成均館事に任命される |
| 1446 | 1月24日、領中枢院事に任命される |
| 1447 | 4月27日、78歳で死去 |
李叔蕃(1373年~1440年)
李叔蕃は太宗の側近中の側近で、絶大なる信頼を得て、出世していきました。
李叔蕃が務めた官職を中心に生涯をご紹介します。
| 年 | 出来事及び官職 |
| 1373 | 李坰の息子として生まれる |
| 1393 | 文科に及第、左拾遺となる |
| 1398 | 第一次王子の乱で功績を上げる(定社功臣二等) |
| 右副承旨に大抜擢 | |
| 1399 | 左副承旨に昇格 |
| 1400 | 第二次王子の乱で功績を上げる(佐命功臣1等) |
| 中樞院副使、左軍摠制使 | |
| 1402 | 知承樞府事 |
| 1402 | 趙思義の乱を平定する |
| 4月4日、武科の監校官 | |
| 5月11日、巡軍萬戶(現代の警察に相当) | |
| 6月11日、三軍都摠制の內甲士の左番 | |
| 10月15日、知承樞府事 | |
| 11月27日、知議政府事 | |
| 1404 | 3月11日、病気のため知議政府事を辞職 |
| 10月23日、參贊議政府事 | |
| 1405 | 4月21日、知貢擧(科拳の試験官) |
| 1406 | 7月13日、中軍摠制を兼務 |
| 11月15日、判義勇巡禁司事を兼務 | |
| 1407 | 12月11日、義興侍衛司上護軍を兼ねる |
| 1408 | 11月10日、中軍都摠制 |
| 1410 | 7月6日、知義興府事を兼務 |
| 1412 | 12月4日、崇政大夫(正一品) |
| 1413 | 4月7日、兵曹判書 |
| 1414 | 1月13日、議政府贊成事 |
| 1415 | 1月26日、議政府左贊成 |
| 5月17日、安城府院君 | |
| 1416 | 無礼と不忠の罪で官職を罷免、遠方へ移住 |
| 1417 | 讓寧大君との関わりで咸陽へ流刑 |
| 1438 | 世宗が記録確認のため、流刑地より呼び寄せる |
| 1440 | 67歳で病死 |
韓明澮(1415年~1487年)
韓明澮(ハン・ミョンフェ)は世祖の名参謀として下級役人から朝廷の最高位まで上り詰めた人物です。
| 年月 | 出来事 |
| 1415 | 父・韓起と母・驪州李氏(李逖の娘)の間に生まれる |
| 1430年頃 | 成均館で学ぶ |
| 1452 | 景徳宮直を務める(下級官職) |
| 権擥を通じて首陽大君(世祖)と会う | |
| 1453 | 癸酉靖難で参謀として活躍。靖難功臣一等となる |
| 1454 | 承政院同副承旨となる |
| 1455 | 世祖が即位。右承旨となる |
| 1456 | 死六臣による端宗復位運動を阻止する |
| 左承旨、都承旨を歴任 | |
| 1457 | 吏曹判書、兵曹判書を歴任 |
| 1459 | 黄海・平安・咸吉・江原の四道を巡察する体察使を務める |
| 1461 | 上党府院君へ昇格 |
| 1462 | 右議政となる |
| 1463 | 左議政となる |
| 1466 | 領議政となるが、病を理由に辞職 |
| 1467 | 李施愛の乱で申叔舟とともに謀反が疑われ、一時逮捕される |
| 1468 | 世祖が死去。院相(政治の摂政格)として政務を決裁する |
| 1468 | 南怡の謀叛事件で政敵を排除。翊戴功臣1等となる |
| 1469 | 1月、領議政に復帰したが、秋に辞職 |
| 11月、睿宗が逝去。成宗が即位。兵曹判書を兼任 | |
| 1471 | 佐理功臣1等となる |
| 領春秋館事となる。「世祖実録」を完成させる | |
| 1476 | 成宗が親政を開始 |
| 1487 | 73歳で逝去 |
亀城君(1441年~1479年)
亀城君は朝鮮史上最年少で領議政となった人物です。
| 年 | 出来事 |
| 1441 | 漢城府で臨瀛大君の次男として生まれる |
| 1466 | 科拳の武科に合格 |
| 1467 | 兵曹判書に任命される |
| 1468 | 大将に任命され李施愛の乱を鎮圧する |
| 1468 | 28歳で領議政に任命される |
| 世祖が崩御。睿宗が即位。摂政を務める | |
| 1469 | 父・臨瀛大君が死去 |
| 1470 | 亀城君誣告事件 |
| 慶尚道寧海に流刑となる | |
| 1479 | 流刑地で逝去(享年39歳) |
| 1697 | 官職が回復される(粛宗の時代) |
師任堂(1504年~1551年)
師任堂(サイムダン)は 中宗の時代を生きた女流書画家で、大儒学者である李栗谷の母親でした。
| 年月 | 出来事 |
| 1504 | 師任堂が申命和の次女として生まれる |
| 1510 | 7歳のときに母方の祖父が絵を学ばせる |
| その後、儒教の経典、古典を学ぶ | |
| 1516 | 申命和が41歳で科拳(進士)に合格する |
| 1519 | 己卯士禍が起こる。申命和は難を逃れ、江陵に戻る |
| 1522 | 師任堂が19歳のときに李元秀(イ・ウォンス)と結婚する |
| 父親の申命和が亡くなる | |
| 1524 | 三年の喪に服した後に姑の家で婚礼を挙げる |
| 師任堂が長男・李璿(イソン)を出産する | |
| 以降、夫の赴任先を転々として暮らす | |
| 1529 | 師任堂が長女(梅窓)を出産する |
| 不詳 | 次男の李璠(イボン)を出産する |
| 不詳 | 次女を出産する |
| 1536 | 江陵の実家(烏竹軒)で三男・李珥(イイ)を出産する |
| 不詳 | 三女を出産する |
| 1541 | 師任堂が38歳の時に夫の実家(寿進坊)で姑と暮らす |
| 1542 | 四男の李瑀(イウ)を出産 |
| 1550 | 師任堂の夫が水運判官に任命される |
| 1551 | 春から三清洞で暮らし始める |
| 1551 | 5月17日、師任堂は48歳で病死 |
キムジャジョム(金自點)(1588年~1651年)
仁祖反正で功績を上げて朝廷に進出した。丙子の乱の敗戦責任で流刑となるが、復帰。一時は朝廷を牛耳るほどになりました。しかし、仁祖が亡くなると求心力を失い、政界から排除され、最後は清との内通、息子の謀反などで処刑され、一族は滅亡します。
| 年月日 | 年齢 | 出来事 |
| 1588 | 1 | 金琢の息子として生まれる |
| 不明 | ー | 士林派の儒学者成婚の門下生となる |
| 1618 | 31 | 兵曹佐郎に任命される |
| 不明 | ー | 仁穆大妃の廃妃に反対して追放される |
| 1623 | 36 | 仁祖反正に参加 |
| 36 | 功績として定社功臣一等となり、洛興君に封じられた | |
| 1624 | 37 | 李适の反乱が起こり、金自點は仁祖と逃亡 |
| 37 | 鎮圧後、都に戻り承旨に昇進 | |
| 1627 | 40 | 丁卯胡乱が勃発 |
| 40 | ジャジョムは仁祖の逃亡を助ける | |
| 40 | 後金が朝鮮と和平をむすぶ | |
| 1633 | 46 | 朝鮮軍都元帥(軍の最高司令官)になる |
| 1636 | 49 | 丙子の乱に仁祖の側近として参戦 |
| 49 | 朝鮮側が惨敗。責任を取らされて流刑 | |
| 1640 | 53 | 仁祖の特赦を受け、政界復帰 |
| 53 | 孫の金世龍が仁祖の娘の孝明翁主と婚姻 | |
| 1642 | 55 | 兵曹判書になる |
| 1643 | 56 | 右議政になり、清に派遣される |
| 1644 | 57 | 左議政に封じられる |
| 1645 | 58 | 昭顕世子、嬪宮姜氏が清から帰国 |
| 58 | 貴人趙氏と共に昭顕世子と愍懐嬪姜氏夫妻を死に追いやる | |
| 1646 | 59 | 領議政に封じられる |
| 1649 | 62 | 仁祖が崩御、孝宗が即位 |
| 1650 | 63 | 江原道 洪川に流刑しされる |
| 1651 | 64 | 流刑先で清と内通が知られ、全羅南道 光陽に流刑 |
| 64 | 息子の金鉽の謀反がばれて、処刑される | |
| 64 | 息子の金鍊は拷問の最中に死亡 |
白光炫(1625年~1697年)
白光炫(ペク・クァンヒョン)は煮沸消毒した鍼による治療で医術を飛躍的に向上させた医官でした。
顕宗から粛宗の時代に活躍しています。
| 年月日 | 出来事 |
| 1625 | 父・白哲明の次男として生まれる |
| 不詳 | 軍隊の羽林衛に入る |
| 落馬の大怪我がキッカケで医師を目指す | |
| 馬医として医術を学ぶ | |
| 人の腫れ物を治療して評判となる | |
| 1663 | 典医監の提調の推薦で治腫教授になる |
| 李相國に推薦されて内医院に入る | |
| 1670 | 顕宗の治療に携わる(8月16日実録) |
| 1672 | 仁宣王后(大妃)の腫れ物を切開して治療する |
| 1684 | 康翎県監その後、抱川県監に任命される |
| 1691 | 知中樞府事(正二品相当) |
| 1692 | 崇禄大夫(正一品相当) |
| 1695 | 領敦寧府事の尹趾完(ユン・ジワン)を治療(12月9日実録) |
| 1696 | 5月景宗の王妃・端懿王后の腹痛を治療する |
| 1697 | 突然、吐血して亡くなる |
興宣大院君(1821年~1898年)
興宣大院君は、朝鮮末期の激動の時代を生きた主導的な人物です。
| 年月 | 出来事 |
| 1821年 | 李昰応(興宣君)が生まれる |
| 1832年 | 閔致久の娘(驪興府大夫人)と結婚 |
| 1843年 | 興宣君に封爵(ほうしゃく)される |
| 1852年 | 次男の命福(後の高宗)が生まれる |
| 1863年 | 命福が高宗として即位、興宣大院君と称される |
| 1865年 | 景福宮の再建工事を開始 |
| 1866年3月 | 丙寅教獄(宣教師9名と多数の信者を処刑) |
| 1866年3月 | 明成皇后を高宗の王妃とする |
| 1866年10月 | 丙寅洋擾(フランス海軍と交戦) |
| 1871年6月 | 辛未洋擾(通商を迫った米国が江華島に侵攻) |
| 1873年11月 | 癸酉政変(大院君失脚、高宗の親政が始まる) |
| 閔氏一族の勢道政治が始まる | |
| 1874年3月 | 明成皇后が長男・李坧(後の純宗)を出産 |
| 1875年8月 | 李坧が清から世子として認められる |
| 1875年9月 | 江華島事件(日本軍と朝鮮軍の交戦) |
| 1882年7月 | 壬午事変(朝鮮人兵士の反乱) |
| 明成皇后は宮殿を脱出、閔応植に保護される | |
| 1882年8月 | 大院君が清に強制連行、幽閉される |
| 1884年12月 | 甲申政変(日本軍が王宮を占領) |
| 清軍が反撃、3日後には閔氏が政権を奪回 | |
| 1885年1月 | 日朝間で漢城条約が結ばれる |
| 1885年4月 | 日清間で天津条約が結ばれる |
| 1885年10月 | 大院君が清から帰国 |
| 1890年 | 東学党の全琫準を門客として保護 |
| 1893年2月 | 大院君が全琫準と東学党の支援を密約 |
| 1894年2月 | 甲午農民戦争が始まる |
| 1894年7月 | 甲午倭乱(日本軍による王宮占拠) |
| 開化派の政権成立、大院君が摂政に再任 | |
| 1ヶ月後に摂政を解任、雲峴宮に幽閉される | |
| 1894年8月 | 日清戦争が始まる |
| 1894年11月 | 甲午農民戦争の鎮圧(牛金峙で大敗) |
| 1895年4月 | 日清講和条約(下関条約) |
| 1895年10月 | 乙未事変(明成皇后暗殺される) |
| 1895年10月 | 大院君が明成皇后の廃位を提言 |
| 1896年2月 | 高宗はロシア公館に亡命 |
| 大院君は揚州に隠居(権力欲はなくなる) | |
| 1898年1月 | 大院君の夫人が死去 |
| 1898年2月 | 大院君79歳で死去 |
李垠と妻・李方子(1897年~1989年)
朝鮮王朝最後の皇太子であった李垠の妃は、日本の皇族の娘・梨本宮方子でした。
| 年月 | 出来事 |
| 1897 | 10月20日、李垠が高宗の七男として生まれる |
| 1901 | 11月4日、梨本宮守正王と伊都子夫妻の長女として李方子が生まれる |
| 1907 | 8月27日、義兄の李坧が純宗として即位 |
| 9月7日、李垠が皇太子に冊立され、英王と称される | |
| 12月、李垠が12歳で日本に留学 | |
| 1908 | 李垠は日本の学習院に入学する |
| 1910 | 日韓併合 |
| 朝鮮の王室は日本の皇族に準じる王公族となる | |
| 純宗は李王と称され、李垠は王世子となる | |
| 1911 | 李垠は陸軍中央幼年学校予科の第2学年に編入 |
| 1913 | 9月、陸軍中央幼年学校本科に入学 |
| 1915 | 士官候補生となり、近衛歩兵第2連隊に配属される |
| 1916 | 学習院女子中等科在学中の李方子と李垠が婚約 |
| 1917 | 李垠は陸軍士官学校を卒業、陸軍将校となる |
| 1918 | 皇室典範第39条が増補され、結婚が容認される |
| 1919 | 1月21日、李太王(高宗)が逝去、結婚は延期される |
| 1920 | 4月28日、李垠と李方子が結婚する |
| 1921 | 長男の晋が生まれる |
| 1922 | 夫妻は、晋を連れて日本統治下の朝鮮を訪問する |
| 帰国直前に晋は急逝する。性消化不良と診断される | |
| 韓国、日本の双方から毒殺説が流れる | |
| 1923 | 陸軍大学を卒業する |
| 1926 | 李王(純宗)が逝去、李垠が王位を継承、李王垠と呼ばれる |
| 朝鮮軍司令部附を兼務する | |
| 1927 | 5月から翌1928年4月まで夫妻は欧州を訪問する |
| 1923 | 李方子が流産する |
| 1928 | 陸軍少佐となる |
| 1930 | 李方子が2度目の流産する |
| 1931 | 次男の玖が生まれる |
| 1938 | 李垠は陸軍少将になり、中国に赴任する |
| 1940 | 李垠は陸軍中将になる。大阪に赴任する |
| 1941 | 12月、太平洋戦争の勃発 |
| 1943 | 李垠は第1航空軍司令官になる |
| 1945 | 4月、李垠は軍事参議官になる |
| 8月、日本が太平洋戦争に敗戦する | |
| 日本政府からの歳費が打ち切られ、生活は苦しくなる | |
| 1946 | 財政再建の財産税により、多額の納税負担を負う |
| 1947 | 王公族の身分を喪失、外国人扱いとなる |
| 但し、国籍はまだ日本のまま | |
| 1948 | 大韓民国が建国、李承晩が大統領となる |
| 1952 | 平和条約発効により、日本国籍を喪失。無国籍となる |
| 李承晩大統領が韓国籍を認めず、帰国できなかった | |
| 財産税の納入時の多額の借金返済に李王家邸を売却 | |
| 李王家邸は後に赤坂プリンスホテル(旧館)となる | |
| 1957 | 留学していた息子の李玖がマサチューセッツ工科大学を卒業 |
| 家族で米国生活を始める | |
| 1959 | 3月、李垠が脳血栓に倒れ、歩行困難になる |
| 5月に日本に戻る | |
| 1960 | 再度渡米を企図して、夫妻は日本国籍を取得する |
| 初代大統領・李承晩が失脚 | |
| 1962 | 大韓民国の国籍法の規定に基づき、夫妻が韓国籍を回復する |
| 1963 | 韓国政府からの生活費の送金が開始される |
| 5月、李垠の容体が悪化、赤坂の山王病院に入院する | |
| 11月22日に夫婦ともに韓国へ渡り、大歓迎を受ける | |
| 病身の李垠はソウルの聖母病院に入院する | |
| 1970 | 5月1日、李垠がソウルの聖母病院で逝去 |
| 韓国に帰化した李方子は障害児教育に取り組み始める | |
| 1989 | 4月30日、李方子が逝去。享年87歳 |