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朱豪のイェソヤは実在した?【モデルの礼氏を史実で解説】

ドラマ「朱豪」に登場するイェソヤは、史実に記録された朱豪の妻・礼氏がモデルです。

この記事では、三国史記の記述にもとづき、礼氏(イェソヤ)の実在性とその生涯を詳しく解説します。

イェソヤのモデルは実在した礼氏

三国史記「瑠璃王」に類利(ユリ)の母は礼氏(旧字:禮氏)と記述されています。

瑠璃明王立。諱類利,或云孺留。朱蒙元子,母禮氏。
<引用元:三国史記 卷十三 高句麗本紀 第一 瑠璃王>

<訳>瑠璃明王が即位した。諱は類利、または孺留。朱蒙の元子(長男)、母は禮氏である。

当時の史書では女性名が詳細に記録されることは少なく、礼氏の娘なので礼氏とだけ記録されています。

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本当に、朱豪は礼氏と類利を残して亡命したのか?

朱豪が礼氏を残して、扶余(旧字:扶餘)に亡命したことは三国史記に明記されています。

朱豪は王子たちに殺害されることを恐れたのです。しかし、このとき、礼氏(イェソヤ)は既に妊娠していました。

三国史記の記録によると

初,朱蒙在扶餘,娶禮氏女有娠。朱蒙歸後乃生,是為類利。
<引用元:三国史記 卷十三 高句麗本紀 第一 瑠璃王>

<訳>昔、朱蒙が扶餘(扶余)にいたときに、禮氏(礼氏)の娘を娶り妊娠させた。しかし、その子は朱豪が扶余を去ったあとに生まれ、名は類利とした。
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礼氏(イェソヤ)と類利が朱豪と再会した事実

ドラマでも描かれる「母子の再会」は、三国史記に記録されています。

十九年,夏四月,王子類利自扶餘與其母逃歸。王喜之,立為太子。
<引用元:三国史記 卷十三 高句麗本紀 第一 東明王>

<訳>紀元前19年4月、王子・類利が母とともに扶余から逃げてきた。王は喜び、類利を太子とした。

このとき、類利は断剣を携えて朱豪に会いに行ったことも記述されています。

遂持之與屋智、句鄒、都祖等三人,行至卒本,見父王,以斷劒奉之。王出己所有斷劒,合之,連為一劒。王悅之,立為太子,至是繼位。
<引用元:三国史記 卷十三 高句麗本紀 第一 瑠璃王>

<訳>類利は断剣を持って、屋智、句鄒、都祖の三人と共に、卒本に行き、王(父)に会い、断剣を差し出した。王は自分が持っていた断剣と合わせると、一つの剣となった。王は喜び、彼を太子として後に王位を継がせた。

朱豪の逝去と礼氏(イェソヤ)の晩年

遂に、朱豪と再会した礼氏(イェソヤ)でしたが、その年の9月に朱豪は亡くなっています。再会して5ヶ月後でした。

(十九年)秋九月,王升遐,時年四十歲。葬龍山,號東明聖王
<引用元:三国史記 卷十三 高句麗本紀 第一 瑠璃王>

<訳>(紀元前19年)9月、王(朱豪)が逝去した。享年40歳。龍山に埋葬され、諡号を東明聖王とした。

礼氏(イェソヤ)のその後の記録は残っていません。

しかし、息子の類利が第2代高句麗王として即位したことから、礼氏は王の母として平穏な晩年を過ごしたと推測されます。

礼氏(イェソヤ)と召西奴(ソソノ)の関係は?

史実には、二人が対立し争ったことを示す記録はありません。

三国史記によると、朱豪の死後、類利が王位を継ぐと、召西奴(ソソノ)とその息子・沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)は、10人の臣下と多数の従者を従えて高句麗を去っています。

召西奴(ソソノ)は、息子同士の争いを避けるため自ら高句麗を去ったと考えられます。その後の動向については史料に比較的詳しい記述があり、彼女は息子・温祚とともに河南へ向かい、そこで新たな国(後の百済)を建国しています。

まとめ

イェソヤのモデルとなった礼氏(禮氏)は、三国史記に記録された実在の人物でした。扶余に残されながらも、類利を出産。母子で朱豪に再会して、後に息子が王位に就くという大きな役割を果たしました。

礼氏の晩年については詳しい記録は残されていませんが、息子・類利の即位により平穏な生活を送ったと考えられます。

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