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	<title>善徳女王</title>
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	<description></description>
	<lastBuildDate>Sat, 10 Jan 2026 01:00:14 +0000</lastBuildDate>
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	<item>
		<title>美室（ミシル）の家系図【絶世の美貌で王の上に君臨した女傑】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 27 Jul 2024 00:08:30 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[善徳女王]]></category>
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					<description><![CDATA[美室（ミシル）は絶世の美貌で王の上に君臨した女傑でした。 国を操った美室とはどんな女性だったのか。 家系図から調べてみました。 美室（ミシル）の家系図 美室の父親は第2代風月主の未珍夫、母親は思道王后の姉の妙道夫人です。 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>美室（ミシル）は絶世の美貌で王の上に君臨した女傑でした。</p>
<p>国を操った美室とはどんな女性だったのか。</p>
<p>家系図から調べてみました。</p>
<h2>美室（ミシル）の家系図</h2>
<p>美室の父親は第2代風月主の未珍夫、母親は思道王后の姉の妙道夫人です。</p>
<p>美室には多くの情夫がいましたが、正式な夫・世宗との間には二人の息子が生まれています。</p>
<div id="attachment_10999" style="width: 670px" class="wp-caption aligncenter"><img fetchpriority="high" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-10999" class="wp-image-10999" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/4b6aaa583a373c6ee6167730788af7b4-800x519.jpg" alt="美室の家系図" width="660" height="428" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/4b6aaa583a373c6ee6167730788af7b4-800x519.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/4b6aaa583a373c6ee6167730788af7b4-500x324.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/4b6aaa583a373c6ee6167730788af7b4-300x195.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/4b6aaa583a373c6ee6167730788af7b4-768x498.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/4b6aaa583a373c6ee6167730788af7b4.jpg 902w" sizes="(max-width: 660px) 100vw, 660px" /><p id="caption-attachment-10999" class="wp-caption-text">本図は当サイトが独自に作成した家系図です</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜美室の家系図＞</strong></p>
<p>美室の父方の祖母・三葉宮主は第23代王・法興王と碧花夫人の娘でした。</p>
<p>また、母方の祖母・玉珍宮主は朴英失と結婚しましたが、すぐに法興王の寵愛を受けて側室となっています。</p>
<h2>美室（ミシル）はどんな女性だったのか？</h2>
<p>美室（ミシル）はどんな男も惑わす絶世の美女だったといいます。</p>
<p>また、容姿だけでなく、聡明で頭が良く、知略に長けた女性でした。</p>
<h3>美室（ミシル）のプロフィール</h3>
<p>美室は「花郎世紀」にのみ登場する女性で、プライベートな情報はほとんどありません。</p>
<p>生年が547年と推定すると、享年66歳、当時としては長寿だったと思われます。</p>
<div class="primary-box">＜プロフィール＞<br />
生年：547年<br />
没年：612年<br />
享年：66歳<br />
父：未珍夫（第2代風月主）<br />
母：妙道夫人<br />
夫：世宗（第６代風月主）<br />
弟：美生（第10代風月主）</div>
<h2>美室（ミシル）の家族</h2>
<p>美室（ミシル）は正式な夫の世宗との間に二人の息子をもうけています。</p>
<div class="secondary-box">＜美室の家族＞<br />
夫：世宗（弩里夫。第6代風月主）<br />
長男：夏宗（第11代風月主）<br />
次男：玉宗</div>
<p>美室の驚くべきことは、絶世の美女と言われた美貌で多くの男達を誘惑したことです。</p>
<p>その相手は第24代国王・真興王からその息子の銅輪太子と第25代王・真智王、そして、なんと孫の第26代国王・真平王に及びました。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、夫は第６代風月主でしたが、花郎の歴代風月主とも関係を持ちました。</p>
<p>第5代風月主・斯多含、第7代風月主・薛原と夫の前後の首領と関係をもつなど、美室の情事の相手は想像を絶するものがありました。</p>
<p>詳しくは＞＞<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/queen-seondeok-mishiru-jitsuzai2252/">善徳女王の実在したミシルは想像を絶する男性関係だった！</a>　をご覧ください。</p>
<h2>美室（ミシル）の生涯</h2>
<p>美室（ミシル）は「花郎世紀」にのみ登場する女性で、存在の真偽についていは未だ確かなことは分かっていません。</p>
<p>從って、ここでは「花郎世紀」の記述をもとに美室の生涯をご紹介します。</p>
<h3>美室と斯多含の切ない恋</h3>
<p>547年、美室は第2代風月主の父・未珍夫と母・妙道の間に生まれました。</p>
<p>美室は歴代王妃を排出した新羅の貴族出身でした。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>当初、美室は只召太后の息子の世宗（真興王とは同母弟）と結婚しましたが、姑の只召太后に追い出されています。</p>
<p>宮廷を追い出された美室は第5代風月主の斯多含（サダハム）と出会い恋に落ちました。</p>
<p>562年、斯多含に出兵の命が下され、斯多含は美室を残し、戦場へと向かいます。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>斯多含が戦場で戦っているときに、美室は宮廷に戻され、世宗の妃として仕えることを強制させられます。</p>
<p>戦場から戻った斯多含は現実を知り、あまりの残酷さに息絶えたと言われています。</p>
<h3>権力者との情事で権力基盤を拡大</h3>
<p>斯多含を失った美室は宮廷の権力者と次々と関係をもちました。</p>
<p>その関係は、第24代王の真興王からその息子の銅輪太子と第25代王の真智王、更に孫の第26代王の真平王にまで及びました。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、夫は第６代風月主でしたが、花郎の歴代風月主とも情事を繰り返しました。</p>
<p>更に、美室は権力者との間に子供をもうけ、その子供が王族になったり、花郎の首領になることで、美室の権力基盤は強固になっていきました。</p>
<h3>王の上に存在する女傑</h3>
<p>真興王の妾だった美室は、真興王が病床に伏すと思道王后とともに国を意のままに動かしました。</p>
<p>例えば、真興王が亡くなると、思道王后と美室は真興王の息子の真智王を王位に就けました。</p>
<p>美室は真智王との間で、即位後に王妃に迎えるとの約束を取り付けていたのです。</p>
<p>しかし、真智王はこれを無視します。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>約束を反古され美室は怒って、真智王を廃位にしてしまいました。</p>
<p>こうして、美室は王の上の王として君臨していたのです。</p>
<h3>美室の最後</h3>
<p>しかし、美室の天下も長くは続きませんでした。</p>
<p>自身の美貌で権力者を操り、意のままにしてきた美室にとって最大の敵は自身の老ではないでしょうか。</p>
<p>金庾信が花郎として頭角を表して始めた頃から、美室の勢力は衰えていきました。</p>
<p>そして、612年、美室は亡くなっています。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>善徳女王が即位した632年には、美室（ミシル）は既に亡くなっていました。</p>
<p>從って、ドラマ「善徳女王」のような善徳女王と美室が直接対決したことはありませんでした。</p>
<p>史実の美室はその美貌に物を言わせ驚くほど多くの権力者と情事を重ね、勢力基盤を拡大していきました。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>しかし、最大の武器であった美貌の衰えと同時に、美室の勢力も衰退したと思われます。</p>
<p>美室の行跡が史料に残らなかったのは、色仕掛けで国政を動かした美室の行いを良しとしない意が強かったのかもしえません。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>真智王の家系図【色仕掛けの悪女・美室に廃位された哀れな王】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 24 Jul 2024 00:27:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[善徳女王]]></category>
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					<description><![CDATA[美室に廃位されたと言われる真智王です。 真智王はどんな王だったのか？ 家系図から調べてみました。 真智王の家系図 真智王は第24代王・真興王の次男でしたが、兄の銅輪（太子）が既に亡くなっていたため、王位を継ぐことになりま [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>美室に廃位されたと言われる真智王です。</p>
<p>真智王はどんな王だったのか？</p>
<p>家系図から調べてみました。</p>
<h2>真智王の家系図</h2>
<p>真智王は第24代王・真興王の次男でしたが、兄の銅輪（太子）が既に亡くなっていたため、王位を継ぐことになりました。</p>
<p>真智王の母親は朴英失と玉珍宮主の娘である思道夫人で、孫は第30代王となる武烈王です。</p>
<p>王妃の知道夫人の祖母は第21代王・炤知麻立干の娘であり、王族でした。</p>
<div id="attachment_10989" style="width: 641px" class="wp-caption aligncenter"><img decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-10989" class="wp-image-10989" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/f14317909d26977fa6c8f8b4cb7c3142-800x633.jpg" alt="真智王の家系図" width="631" height="499" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/f14317909d26977fa6c8f8b4cb7c3142-800x633.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/f14317909d26977fa6c8f8b4cb7c3142-500x396.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/f14317909d26977fa6c8f8b4cb7c3142-300x237.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/f14317909d26977fa6c8f8b4cb7c3142-768x608.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/f14317909d26977fa6c8f8b4cb7c3142.jpg 987w" sizes="(max-width: 631px) 100vw, 631px" /><p id="caption-attachment-10989" class="wp-caption-text">本図は当サイトが独自に作成した家系図です</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜真智王の家系図＞</strong></p>
<h2>真智王はどんな王だったのか？</h2>
<p>真智王の在位期間は3年間と短く、真智王のプライベートなことはほとんど分かっていません。</p>
<p>「花郎世記」では、美室が真智王を誘惑して王妃の座を狙いましたが、真智王がこれを無視したため、真智王は美室により廃位されたとしています。</p>
<p>美室は父・真興王が寵愛した側室でしたが、その子の真智王や銅輪太子、孫の真平王などを誘惑して、裏で実権を握っていた美貌の悪女でした。</p>
<h3>真智王のプロフィール</h3>
<div class="primary-box"><strong>＜プロフィール＞</strong><br />
新羅第25代王<br />
生年：不詳<br />
没年：579年<br />
在位期間：576年-579年<br />
姓：金<br />
諱：舎輪/金輪<br />
父：真興王<br />
母：思道夫人（朴英失の娘）<br />
王妃：知道夫人</div>
<h3>真智王の家族</h3>
<p>真智王の王妃は起烏公の娘の知道夫人です。</p>
<p>祖母の善兮夫人は第21代王・炤知麻立干の娘で、知道夫人は王族の子孫になります。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>真智王と知道夫人には二人の息子・金龍樹（ヨンス）と金龍春（ヨンチュン）がいました。</p>
<p>二人は父親の真智王が亡くなると、真平王に育てられてたと言われています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>金龍樹は天明公主と結婚しますが、亡くなってしまい、亡くなる前に金龍樹は子供を弟の金龍春に託しました。</p>
<p>善徳女王が即位すると、金龍春は正式に天明公主と結婚しています。</p>
<p>金龍春は第13代風月主でした。</p>
<div class="secondary-box"><strong>＜真智王の家族＞</strong><br />
王：真智王<br />
王妃：知道夫人（起烏公の娘）<br />
長男：金龍樹（ヨンス）<br />
次男：金龍春（ヨンチュン）</div>
<h2>真智王の生涯</h2>
<p>真智王は在位期間の短い王であり、詳しい業績は残っていません。</p>
<h3>真智王の誕生</h3>
<p>真智王は真興王の次男として生ませています。</p>
<p>576年、真興王が逝去しときに、長男の銅輪太子が既に亡くなっていたため、次男が王位を継承しました。</p>
<p>新羅第25代王・真智王の誕生です。</p>
<h3>真智王の最後</h3>
<p>「三国史記」によると、真智王は579年7月17日、在位4年目で亡くなり、永敬寺に埋葬されたとしています。</p>
<p>しかし、「三国遺事」では、真智王が荒淫（過度に色事にふけること）で政治が混乱したため廃位したと記述されています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、「花郎世記」では、当時、権力者を誘惑して裏で権力を握っていた美室が真智王の廃位を主導したと記録されています。</p>
<p>今となっては真実は分かりませんが、真智王の在任中に政治が混乱していたことは間違いないようです。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>「花郎世紀」をベースに作られたドラマ「善徳女王」も「真智王が美室に廃位された説」で物語を作り上げました。</p>
<p>また、「大王の夢」でも真智王は廃位された王として扱われています。</p>
<p>真実は定かではありませんが、真智王は業績も少なく、短命に終わった王であることは間違いありません。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>金庾信（キム・ユシン）の家系図【三国統一を成し遂げた英雄】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/kimu-yushin-kakezu2438/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 19 Jul 2024 02:06:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[善徳女王]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=10951</guid>

					<description><![CDATA[金庾信は金春秋とともに三国統一の貢献者として評価されています。 英雄・金庾信はどんな人物だったのか。 家系図から調べてみました。 金庾信の家系図 金庾信（キム・ユシン）は金官伽耶国を開国した首露王を始祖とする金海金氏の出 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>金庾信は金春秋とともに三国統一の貢献者として評価されています。</p>
<p>英雄・金庾信はどんな人物だったのか。</p>
<p>家系図から調べてみました。</p>
<h2>金庾信の家系図</h2>
<p>金庾信（キム・ユシン）は金官伽耶国を開国した首露王を始祖とする金海金氏の出身です。</p>
<p>祖先は曽祖父の仇衡王が新羅に降伏するまで、代々、金官伽耶国の王位を受け継いできました。</p>
<div id="attachment_10952" style="width: 638px" class="wp-caption aligncenter"><img decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-10952" class="wp-image-10952" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/709d41812023480903e02031dfd75fcb-800x548.jpg" alt="金庾信の家系図" width="628" height="430" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/709d41812023480903e02031dfd75fcb-800x548.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/709d41812023480903e02031dfd75fcb-500x343.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/709d41812023480903e02031dfd75fcb-300x206.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/709d41812023480903e02031dfd75fcb-768x526.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/709d41812023480903e02031dfd75fcb.jpg 931w" sizes="(max-width: 628px) 100vw, 628px" /><p id="caption-attachment-10952" class="wp-caption-text">本図は当サイトが独自に作成した家系図です</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜金庾信の家系図＞</strong></p>
<p>曽祖父の第10代王・仇衡王は新羅の激しい攻撃に耐えかねて、遂に、新羅に投降しています。</p>
<p>そのときに、王妃及び３人の王子（奴宗、武徳、武力）を連れ、国の財物・宝物を持参しました。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>降伏してきた仇衡王に対して、新羅の法興王は貴族である「真骨の身分」と「金の姓」を与えて、新羅の王族に準ずる破格の待遇をしています。</p>
<p>新羅の貴族となった祖父の金武力は新羅で新州道行軍総管となり、百済との戦で聖王を戦死させるなど数々の功績をあげて新羅に貢献しています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、父・金舒玄（キム・ソヒョン）は新羅の地方官を務めて新羅に貢献していますが、万弩郡の太守だった時に息子の金庾信が生まれています。</p>
<p>金舒玄は最終的に蘇判大梁州都督安撫大梁州諸軍事の官職まで務めました。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>両親の結婚を許さなかった母方の祖父・金粛訖宗には、立宗と只召太后の間に生まれた真興王の実の弟という説と母親は金珍娘主という異母弟説があります。</p>
<h2>金庾信はどんな人物だったのか？</h2>
<p>金庾信（キム・ユシン）は「三国史記」の列傳巻41～43の3巻に記録されるなど、三国統一の功績を高く評価されている人物です。</p>
<p>登場するドラマでも、常に主役級の存在感を見せる武将として描かれたいます。</p>
<p>実際に史実でも、新羅の総司令官として百済、高句麗を滅ぼし、武烈王とともに三国統一の立役者でした。</p>
<h3>金庾信のプロフィール</h3>
<div class="primary-box">金庾信（キム・ユシン）<br />
生年：595年<br />
没年：673年<br />
享年：79歳<br />
父：金舒玄<br />
母：萬明夫人（金粛訖宗の娘）<br />
正室：英毛夫人（美室の孫娘）<br />
<em>　　　</em>瑜毛夫人<br />
<em>　　　</em>智炤夫人（武烈王の娘）</div>
<h2>金庾信の家族</h2>
<p>金庾信（キム・ユシン）の父親は金官伽耶国の王の子孫であり、母親もまた新羅の王の子孫でした。</p>
<p>三国史記によると、萬明夫人の父・粛訖宗に結婚を反対された二人は駆け落ちをして一緒になっています。</p>
<p>二人がその後、許された記録はありませんが、金庾信の父・金舒玄は新羅の将軍として百済との戦いで数々の戦功を上げて活躍しています。</p>
<h3>金庾信の親兄弟</h3>
<p>金庾信は2男3女の長男として生まれました。</p>
<p>次女は金春秋（武烈王）の正室に、長女は側室になっています。</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="15%">関係</td>
<td width="25%">名前</td>
<td width="25%">生年-没年</td>
<td width="35%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>父</td>
<td>金舒玄</td>
<td>564-不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>母</td>
<td>萬明夫人</td>
<td>不詳</td>
<td>金粛訖宗の娘</td>
</tr>
<tr>
<td>長男</td>
<td>金庾信</td>
<td>595-673</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>次男</td>
<td>金欽純</td>
<td>599－不詳</td>
<td>第19代風月主</td>
</tr>
<tr>
<td>長女</td>
<td>金宝姫</td>
<td>不詳</td>
<td>武烈王の側室</td>
</tr>
<tr>
<td>次女</td>
<td>文明王后</td>
<td>不詳</td>
<td>武烈王の王妃</td>
</tr>
<tr>
<td>三女</td>
<td>金政姬</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h3>金庾信の家族</h3>
<p>金庾信の最初の正室・英毛夫人は美室と世宗の間に生まれた長男・夏宗の娘でした。</p>
<p>つまり、美室の孫娘にあたります。</p>
<p>また、3番目の継室・智炤夫人は武烈王と文明王后（金庾信の妹）の娘であり、実の姪にあたります。</p>
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="10%">関係</td>
<td width="10%"></td>
<td width="25%">名前</td>
<td width="55%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>正室</td>
<td>ー</td>
<td>英毛夫人</td>
<td>最初の夫人、夏宗の娘</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>長男</td>
<td>金三光</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>長女</td>
<td>金晋光</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>次女</td>
<td>金信光</td>
<td>文武王の側室</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>三女</td>
<td>金酌光</td>
<td>宝路殿君夫人</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>四女</td>
<td>金令光</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>継室</td>
<td>ー</td>
<td>瑜毛夫人</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>継室</td>
<td>ー</td>
<td>智炤夫人</td>
<td>武烈王と文明王后の娘</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>次男</td>
<td>金元述</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>三男</td>
<td>金元貞</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>四男</td>
<td>金長耳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>五男</td>
<td>金元望</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>夫人</td>
<td>ー</td>
<td>天官女</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>六男</td>
<td>金郡承</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>夫人</td>
<td>ー</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>七男</td>
<td>金施得</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>養子</td>
<td>金官昌</td>
<td></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>金庾信の生涯</h2>
<p>金庾信（キム・ユシン）は幼少の頃から萬明夫人に厳しい教育を受けたと言います。</p>
<p>聡明で知略に富んだ金庾信は花郎に入ると、メキメキと頭角を表していきました。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>善徳女王が即位すると、金庾信は金春秋とともに百済軍を次々と破り、最後は百済を滅亡に追い込んでいます。</p>
<p>そして、遂に最大の敵、高句麗を倒して三国統一を成し遂げます。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>三国統一の英雄・金庾信の生涯をご紹介していきます。</p>
<h3>花郎の国仙になる</h3>
<p>595年、金庾信は伽耶で金舒玄と萬明夫人の間に長男として生まれました。</p>
<p>幼少の頃の記録はありません。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>1610年、金庾信は16歳で花郎になると、メキメキと頭角を表して行きました。</p>
<p>翌年の611年には花郎の幹部「国仙」となっています。</p>
<h3>その名を轟かせた娘臂城の戦い</h3>
<p>629年、副将となった初陣で金庾信は高句麗の娘臂城（ナンビソン）に攻め込みました。</p>
<p>娘臂城は陥落、この娘臂城の戦いは金庾信の名を一躍有名にしました。</p>
<h3>善徳女王の即位と新羅の危機</h3>
<p>632年、真平王が亡くなると、善徳女王が第27代王として即位しました。</p>
<p>金庾信は金春秋と共に、朝鮮半島初の女王・善徳女王を補佐していきます。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>641年、百済で義慈王が即位すると、打倒新羅に燃える義慈王は新羅への侵攻を開始しました。</p>
<p>新羅は百済に次々と城を陥落させられ、新羅は国家存亡の危機に立たされます。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>この窮地を打開するために、金春秋が高句麗に援軍を求めに行きました。</p>
<p>しかし、交渉は決裂、金春秋は高句麗の捕虜になってしまいました。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>金庾信は生涯の友・金春秋を救うために、1万の兵を率いて高句麗に向かいました。</p>
<p>すると、これを聞いた高句麗は慌てて、金春秋を釈放したといいます。</p>
<h3>将軍・金庾信の活躍</h3>
<p>643年、新羅は唐に使者を派遣して、援軍の要請をしましたが、交渉は決裂、新羅は単独で百済、高句麗と戦う道を選びました。</p>
<p>644年、上将軍となった金庾信は、百済の7つの城を陥落させる大活躍をみせます。</p>
<p>その後、644年から649年まで、新羅と百済は激しい戦闘を繰り返しました。</p>
<h3>毗曇の乱と真徳女王の擁立</h3>
<p>647年、上大等に就任した毗曇（ピダム）が女性の君主に不満を抱き、反乱を起こしました。</p>
<p>毗曇（ピダム）の乱です。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>毗曇の乱は金庾信により鎮圧されますが、反乱の最中に善徳女王が亡くなってしまいました。</p>
<p>そこで、金庾信は金春秋と共に真徳女王の擁立に動きました。</p>
<p>真徳女王が王位に就き、金庾信と金春秋は政治的実権を完全に掌握することに成功します。</p>
<h3>唐と新羅の同盟成立</h3>
<p>644年から続く、百済との戦闘は648年現在も収まる気配がありませんでした。</p>
<p>そこで、金春秋は新羅が高句麗と百済の麗済同盟に対抗するために唐に救援を求めに行きました。</p>
<p>今度は、金春秋の巧みな交渉術が成功します。</p>
<h3>武烈王を擁立</h3>
<p>649年、金庾信は金春秋の娘（智炤夫人）と結婚して、金春秋との絆をより深いものにしています。</p>
<p>先妻を亡くした金春秋は王妃として金庾信の妹（文明王后）を迎えていました。</p>
<p>この頃、金庾信は新羅最上級の官位である大角干（テガッカン）を贈られています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>654年、真徳女王が亡くなる、金庾信は金春秋を王に推戴しました。</p>
<p>この時、多くの臣下が閼川（アルチョン）を推薦しましたが、閼川は老いと実力不足を理由に断っています。</p>
<p>遂に、三国統一を目指す金庾信の盟友・金春秋が第29代武烈王として即位したのです。</p>
<h3>金春秋の娘と結婚</h3>
<p>655年10月、金庾信は金春秋（武烈王）の娘の智炤王女（チソ王女）を嫁にもらい、金春秋との絆をより深めています。</p>
<p>このとき、金庾信は既に61歳でした。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>還暦を迎える年寄りに自分の娘を嫁がせるなど、金春秋にとっては金庾信の信頼と忠信を得るための政略結婚の意味合いが大きかったと思われます。</p>
<p>しかし、金庾信は智炤王女を妻として寵愛し、二人の間には4人の息子が誕生しています。</p>
<h3>百済を滅ぼす</h3>
<p>660年、唐と新羅の連合軍が百済へ侵攻、黄山伐の戦いで勝利しました。</p>
<p>この戦いは百済の将軍階伯が戦死した戦いとして有名です。</p>
<p>そして、遂に、百済が滅亡、300年以上続いた百済の歴史が幕を閉じました。</p>
<h3>三国統一を成し遂げる</h3>
<p>百済を滅ぼした最大の功労者・金庾信は上大等に任ぜられて宰相の地位に就きました。</p>
<p>しかし、661年、長年共に戦った盟友の武烈王が亡くなります。</p>
<p>享年59歳でした。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>武烈王逝去の後は、息子が王位を継承して第30代王・文武王として即位しました。</p>
<p>そして、668年、金庾信と武烈王の長年の夢がかないます。</p>
<p>新羅と唐の連合軍が高句麗も滅ぼし、遂に三国統一を成し遂げたのです。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>この功績を称え、文武王が金庾信に太大角干の官位を贈っています。</p>
<p>太大角干は、それまでの新羅の最上位の官位・大角干を上回る官位として新設された官位でした。</p>
<p>それほど、金庾信の功績は大きかったのです。</p>
<h3>金庾信の最後</h3>
<p>673年7月1日、金庾信が亡くなりました。</p>
<p>享年79歳でした。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>金庾信は慶尚北道慶州市仙桃洞にある金庾信墓に埋葬されています。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-11111" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/a32a69001244678f9e463c9c39438f49.jpg" alt="" width="405" height="230" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/a32a69001244678f9e463c9c39438f49.jpg 636w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/a32a69001244678f9e463c9c39438f49-500x284.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/a32a69001244678f9e463c9c39438f49-300x170.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/a32a69001244678f9e463c9c39438f49-120x68.jpg 120w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/07/a32a69001244678f9e463c9c39438f49-160x90.jpg 160w" sizes="(max-width: 405px) 100vw, 405px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜金庾信の墓＞</strong></p>
<p>金庾信墓の周囲には石に刻まれた十二支神像が配置されています。</p>
<p>そして、何より王陸に相当する大きな墓は、金庾信が三国統一を成し遂げた英雄であることを物語っています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、亡くなってから162年経った835年、興徳王は金庾信を興武大王に追尊しています。</p>
<p>金庾信は王と同列に祭り上げられたのです。</p>
<h2>金庾信が登場するドラマ</h2>
<p>日本では善徳女王に登場するオム・テウン演じる金庾信がよく知られています。</p>
<div class="secondary-box"><strong>＜登場するドラマ＞</strong><br />
三国記<br />
（1992年、ソ・インソク）<br />
淵蓋蘇文<br />
（2007年、イ・ジョンス/ユン・スンウォン）<br />
善徳女王<br />
（2009年、イ・ヒョヌ/オム・テウン）<br />
階伯<br />
（2011年、パク・ソンウン）<br />
大王の夢<br />
（2012年、ノ・ヨンハク/キム・ユソク）</div>
<p>（　）内は演じた俳優です。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>三国統一を成し遂げた金庾信（キム・ユシン）は、まさに韓国一有名な武将でした。</p>
<p>日本ではドラマの影響で善徳女王の方が有名ですが、韓国では金庾信と金春秋の方がはるかに国民的な英雄です。</p>
<p>特に、金庾信は今でも三国統一の最大級の貢献者として評価されています。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>武烈王の家系図【善徳女王のキムチュンチュは実在した王】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/buretsuou-kakeizu2334/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 18 Jul 2023 09:04:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[善徳女王]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=6847</guid>

					<description><![CDATA[武烈王（テジョンムヨルワン）は名を金春秋（キム・チュンチュ）といい、新羅王権を強化した新羅第29代国王でした。 この記事では、武烈王の家系図から善徳女王・金庾信との関係、人物像、家族構成について史実に基づき詳しく解説しま [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>武烈王（テジョンムヨルワン）は名を金春秋（キム・チュンチュ）といい、新羅王権を強化した新羅第29代国王でした。</p>
<p>この記事では、武烈王の家系図から善徳女王・金庾信との関係、人物像、家族構成について史実に基づき詳しく解説します。</p>
<h2>武烈王の家系図</h2>
<p>金春秋（後の武烈王）は、父・金龍樹（真智王の子）と母・天明公主（真平王の娘）の間に生まれました。</p>
<p>真智王は新羅第25代国王、真平王は第26代国王であり、金春秋は両王に連なる王族の直系として、正統な王位継承資格を備えていました。</p>
<p>このように王統の直系として生まれた金春秋は、父・金龍樹（キム・ヨンス）の死後、叔父にあたる金龍春（キム・ヨンチュン）の養子となりました。なお、「三国史記」では金龍樹と金龍春を同一人物とする記述もありますが、真偽は不明です。</p>
<div id="attachment_6856" style="width: 685px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-6856" class="wp-image-6856" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/07/f9510da249ede31c3c750c6368600799.jpg" alt="武烈王の家系図" width="675" height="324" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/07/f9510da249ede31c3c750c6368600799.jpg 1051w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/07/f9510da249ede31c3c750c6368600799-300x144.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/07/f9510da249ede31c3c750c6368600799-1024x491.jpg 1024w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/07/f9510da249ede31c3c750c6368600799-768x368.jpg 768w" sizes="(max-width: 675px) 100vw, 675px" /><p id="caption-attachment-6856" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜武烈王の家系図＞</strong></p>
<h3>善徳女王との関係</h3>
<p>史実では、天明公主と善徳女王は姉妹とされています。そのため、善徳女王は武烈王の伯母（または叔母）にあたります。</p>
<p>女王の甥という近親関係により、武烈王は王権の中枢で国政や外交といった重要事項に関与し、後に王位に就くための実質的な基盤を築きました。</p>
<h3>金庾信との関係</h3>
<p>武烈王の正室・文明王后は、名将・金庾信の妹（文姫）です。さらに、三女の智炤公主は金庾信の妻となりました。</p>
<p>こうした二重の姻戚関係は、単なる婚姻にとどまらず、王権と軍事権力を結びつける強固な関係を形成し、新羅の国家運営を支える政治的同盟であったといえます。</p>
<h2>武烈王はどんな王だったのか？</h2>
<p>武烈王は即位前から外交手腕を発揮した王でした。新羅の存亡をかけ、自ら唐に出向いて交渉を行い、百済・高句麗に対抗するための同盟関係を築きました。</p>
<p>在位中に三国統一を成し遂げることはできませんでしたが、新羅を窮地から立て直し、次代・文武王による統一事業へとつながる道筋を示した王であったと評価されています。</p>
<h3>武烈王プロフィール</h3>
<div class="primary-box">新羅29代国王<br />
生年：603年<br />
没年：661年（享年59歳）<br />
在位期間：654年-661年<br />
姓・諱：金春秋（キムチュンチュ）</div>
<h2>武烈王の家族</h2>
<p>武烈王には複数の夫人がおり、史料上では11男3女が確認されています</p>
<p>宝羅宮主との間に生まれた最初の息子は幼くして亡くなり、二人目の妻・文明王后との間に生まれた息子の金法敏（ポプミン）が第30代国王（文武王）として王位を継承しました。</p>
<p>また、弟の金仁問（インムン）は、文武に秀でており、王族将軍として兄の文武王を支えました。</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="20%">関係</td>
<td width="20%">名前</td>
<td width="60%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>養父</td>
<td>金龍春</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>実父</td>
<td>金龍樹</td>
<td>金龍春の兄</td>
</tr>
<tr>
<td>母</td>
<td>天明公主</td>
<td>善徳女王の姉妹</td>
</tr>
<tr>
<td>夫人</td>
<td>宝羅宮主</td>
<td>最初の妻、長男を出産後亡くなる。ミシルの息子宝宗の娘</td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>長女</td>
<td>古陀炤公主</td>
<td>百済に殺害される</td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>長男</td>
<td>金文主</td>
<td>早世</td>
</tr>
<tr>
<td>王妃</td>
<td>文明王后</td>
<td>金庾信の次妹・文姫</td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>次男</td>
<td>金法敏</td>
<td>第30代国王・文武王</td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>三男</td>
<td>金仁問</td>
<td>将軍</td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>四男</td>
<td>金文王</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>六男</td>
<td>金老且</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>七男</td>
<td>金智鏡</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>八男</td>
<td>金愷元</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>三女</td>
<td>智炤公主</td>
<td>金庾信の妻、5男4女</td>
</tr>
<tr>
<td>後宮</td>
<td>金宝姫</td>
<td>文明王后の姉、金庾信の長妹</td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>五男</td>
<td>金皆知文</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>九男</td>
<td>金車得</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>次女</td>
<td>瑶石公主</td>
<td>僧侶の元暁の妻、子供は大儒学者、薛聡(ソルチョン)</td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>十男</td>
<td>金馬得</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>後宮</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>十一男</td>
<td>金仁泰</td>
<td></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h3>最初の妻・宝羅宮主</h3>
<p>「花郎世紀」によると、最初の妻は美室の孫娘にあたる宝羅（ポラ）でした。宝羅は武烈王が即位する前に結婚して、1男1女をもうけていますが、二人目の男の子の出産後に亡くなっています。</p>
<div id="attachment_10946" style="width: 437px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-10946" class="wp-image-10946" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/07/6288e4ed2a42471299a15e3c0b190951.jpg" alt="宝羅の家系図" width="427" height="315" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/07/6288e4ed2a42471299a15e3c0b190951.jpg 608w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/07/6288e4ed2a42471299a15e3c0b190951-500x369.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/07/6288e4ed2a42471299a15e3c0b190951-300x222.jpg 300w" sizes="(max-width: 427px) 100vw, 427px" /><p id="caption-attachment-10946" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜宝羅の家系図＞</strong></p>
<p>長女・古陀炤（コタソ）公主は大耶城主の品釈(プムソク)に嫁ぎましたが、百済侵攻の際に殺害されてしまいます。武烈王にとって、この出来事は後の対百済政策に大きな影響を与えました。</p>
<h2>武烈王の生涯（要点）</h2>
<p>武烈王の生涯は、新羅が国家存亡の危機を乗り越え、三国統一への基盤を築いた国王でした。</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="15%">年</td>
<td width="85%">出来事</td>
</tr>
<tr>
<td>603</td>
<td>金龍樹と天明公主に間に生まれる</td>
</tr>
<tr>
<td>641</td>
<td>百済の侵攻が始まる。娘・古陁炤が殺害される</td>
</tr>
<tr>
<td>642</td>
<td>高句麗に支援要請するが失敗</td>
</tr>
<tr>
<td>643</td>
<td>唐に支援要請するが失敗</td>
</tr>
<tr>
<td>647</td>
<td>毗曇の乱が勃発</td>
</tr>
<tr>
<td>648</td>
<td>唐との軍事同盟が成立</td>
</tr>
<tr>
<td>654</td>
<td>第29代国王に即位</td>
</tr>
<tr>
<td>660</td>
<td>百済滅亡</td>
</tr>
<tr>
<td>661</td>
<td>陣中で崩御</td>
</tr>
<tr>
<td>676</td>
<td>息子の文武王が三国統一を果たす</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>詳しい生涯と戦争の経過については、以下の記事で詳しく解説しています。＞＞<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/buretsuoh-syougai2496/">武烈王（金春秋）の生涯【三国統一への道を史実で解説】</a></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>武烈王（金春秋）は王族の直系血統に生まれ、善徳女王との血縁関係や金庾信一族との姻戚関係を背景に、新羅王権を安定させた国王でした。</p>
<p>家系図からは、武烈王が王族の直系として正統な資格をもって即位し、その王位が文武王へと継承されたことが確認できます。また、武烈王が即位前後に示した外交・政治路線は、後の三国統一事業に大きな役割を果たしました。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://justarandomnote.com/buretsuou-kakeizu2334/feed/</wfw:commentRss>
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			</item>
		<item>
		<title>史実で善徳女王とピダムは結婚したのか？【ピダムの謎に迫る】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/queen-seondeok-pidamu-kekkon2253/</link>
					<comments>https://justarandomnote.com/queen-seondeok-pidamu-kekkon2253/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 07 Oct 2022 06:02:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[善徳女王]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=4483</guid>

					<description><![CDATA[史実で、善徳女王とピダムは結婚したのでしょうか？ この疑問に答えるためにピダムについて詳しく調べてみました。 すると、 史実のピダムは実に謎の多い人物でした。 史実で善徳女王とピダムは結婚したのか 史実で、善徳女王とピダ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>史実で、善徳女王とピダムは結婚したのでしょうか？</p>
<p>この疑問に答えるためにピダムについて詳しく調べてみました。</p>
<p>すると、</p>
<p>史実のピダムは実に謎の多い人物でした。</p>
<h2>史実で善徳女王とピダムは結婚したのか</h2>
<p>史実で、善徳女王とピダムが結婚した記録はありません。</p>
<p>二人の婚姻と恋愛関係はドラマ「善徳女王」でのフィクションです。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>では、善徳女王は独身だったのか？</p>
<p>「花郎世紀」によれば、善徳女王は三婿制により3人の男性と結婚していました。</p>
<p>もちろん、ピダムは含まれていません。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>では、誰と？</p>
<p>詳しくは＞＞<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/queen-seondeok-husband2249/">善徳女王の夫はピダムではない！【夫が３人？謎多き女王の真実】</a></p>
<h2>史実のピダム</h2>
<p>ピダム（毗曇）は、権威ある歴史書の「三国史記」に登場する実在した人物です。</p>
<p>ピダムが実在したことは間違いありません。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>しかし、ピダムの両親、生年月日、業績に関することなど、ピダム自身に関する記録は全く残っていません。</p>
<p>ピダムは実に謎多き人物です。</p>
<h3>ピダムはミシルの子ではない</h3>
<p>ドラマ「善徳女王」ではピダムはミシルの子でしたが、これはドラマのフィクションです。</p>
<p>実際にはミシルの子ではありません。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>ピダムの出生の記録はありませんが、ミシルが生んだ子供の記録にピダムの名は記載されていません。</p>
<p>ミシルが生んだ子供についてはこちら<br />
＞＞<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/queen-seondeok-mishiru-jitsuzai2252/">善徳女王の実在したミシルは想像を絶する男性関係だった！</a></p>
<h3>歴史書に登場するピダム</h3>
<p>ピダムは「三国史記」に新羅の政治を決める和白会議の上大等として登場します。</p>
<p>上大等とは議長の地位でとっても偉かったのですね。</p>
<p>しかし、上大等でありながら反乱を起こした逆臣として記載されています。</p>
<p>ピダムの乱です。</p>
<p>ピダムに関する記述は、この程度でピダムの出生についても両親や家族についても全く記述がありません。</p>
<h2>ピダムの最後</h2>
<p>ピダムはドラマでは善徳女王への愛を告白したあと金庾信の刀で刺されて死にますが、これはもちろんドラマのフィクションです。</p>
<h3>ピダムの乱</h3>
<p>647年の正月にピダムは「女主不能善理（女性君主は国を治めることができない）」を唱えて反旗を翻しました。</p>
<p>この反乱はピダムの乱と呼ばれています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>ピダムの乱はわずか10日で金庾信（キム・ユシン）に鎮圧されてしまいます。</p>
<p>そして、</p>
<p>ピダムは処刑されてしまいます。</p>
<p>善徳女王を目の前にしてピダムが息絶えるのはドラマのフィクションです。</p>
<p>ピダムの乱が起こった翌日に、善徳女王は亡くなっているからです。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>実は、ピダムの乱が起こった要因には別の説もあります。</p>
<p>それは、善徳女王の病気が悪化して危篤になったため、金庾信（キム・ユシン）が次の王として、真徳女王を擁立しようとした。</p>
<p>これに対して、和白会議の議長であるピダムは「女主不能善理」を唱えて反対し、反乱を起こした。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>「女主不能善理」つまり、「女性君主は国を治めることができない」</p>
<p>ピダムは「女主不能善理」を次の女王に対して言ったのです。</p>
<p>つまり、ピダムの乱は、次の女王擁立に反対して起こったという説です。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>なお、善徳女王の病については、</p>
<p>636年3月の三国史記に善徳女王の病が医術も祈祷も効果がなかったと記録されています。</p>
<p>善徳女王は長いこと病に苦しんでいたのは事実のようです。</p>
<h2>ピダムを演じた俳優</h2>
<p>ピダムを演じた俳優はキム・ナムギルで、善徳女王のピダム役で大ブレイクしました。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜キム・ナムギルのプロフィール＞</strong><br />
生年月日：1980年3月13日<br />
（2026年05月08日現在、46歳）<br />
出生地：韓国ソウル特別市<br />
身長：184cm<br />
血液型：AB型<br />
学歴：明知大学校演劇映画科<br />
趣味：水上スキー、ゴルフ<br />
特技：フルート、テコンドー、タップダンス</div>
<p>1999年にKBSで放送された学園ドラマ「学校」で俳優デビューしています。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>ドラマでは善徳女王と婚姻したピダムですが、史実では善徳女王とピダムは結婚していません。</p>
<p>恋愛関係にあったこともドラマのフィクションでした。</p>
<p>むしろ、ピダムと善徳女王は敵対する関係にあったようです。</p>
<p>歴史的な記録に乏しいピダムなので、ドラマの中では大いに想像を発揮されたキャラクターだったのでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>善徳女王のミシルは実在した？その驚きの男性関係を解説</title>
		<link>https://justarandomnote.com/queen-seondeok-mishiru-jitsuzai2252/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 05 Oct 2022 01:09:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[善徳女王]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=4456</guid>

					<description><![CDATA[善徳女王でコ・ヒョンジョンが演じて一躍脚光を浴びたミシルです。 彼女は実在したのか？その男性関係は？ ミシルの実態に迫ります。 善徳女王のミシルは実在したのか？ ミシルは実在した可能性が高い人物と考えます。 彼女は「花郎 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>善徳女王でコ・ヒョンジョンが演じて一躍脚光を浴びたミシルです。</p>
<p>彼女は実在したのか？その男性関係は？</p>
<p>ミシルの実態に迫ります。</p>
<h2>善徳女王のミシルは実在したのか？</h2>
<p>ミシルは実在した可能性が高い人物と考えます。</p>
<p>彼女は「花郎世紀」にのみ登場する女性で、「三国史記」や「三国遺事」には登場していません。</p>
<p>また、発見された経緯から「花郎世紀」は偽書であるとする学者も多く、真偽については、決定的な証拠はなく、現在に於いても未だ決着がついていません。</p>
<h3>花郎世紀の信憑性とミシルの実在性</h3>
<p>「花郎世紀」は、筆写本しか現存しておらず創作の疑惑がありますが、新羅王族の複雑な血縁関係を矛盾なく記述している点で、信憑性が高いと考えられます。</p>
<p>この点については、吉田愛氏の論文「花郎世紀の基礎的研究」にも言及されています。</p>
<p>西江大総長のイ・ジョンウクはインタビューの中で、「花郎世紀」は後代のためでなく、貴族らが身分を証明するために血統を明らかにした本であり、したがって事実に忠実な可能性が大きい説明しています。</p>
<p>さらに、「善徳女王の真実」の著者キム・ヨンヒも、考古学や民俗学、中国や韓国の正史との比較から「花郎世紀」の内容を支持しています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、「花郎世紀」が存在していたことは、「三国史記」に引用されている記述からも明らかです。以下はその一例です。</p>
<blockquote><p>故金大問「花郞世記」曰：「賢佐忠臣，從此而秀，良將勇卒，由是而生。」＜引用元：三国史記新羅本紀　真輿王三十七年条＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞それゆえ、金大問の「花郞世記」には「ー（途中略）ー」と記述されている</div>
<div class="information-box common-icon-box"><strong>＜豆知識＞三国史記</strong><br />
三国史記は現存する韓国最古の歴史書で国宝に指定されています。高麗時代に金富軾が中心となり、まとめた正式な歴史書です。公式の歴史記録は基本的にこの「三国史記」の記述を主としています。</div>
<p>このように、「花郎世紀」の信憑性や存在を裏付ける根拠が複数あるため、同書に登場するミシルが実在した可能性も高いと結論付けられます。</p>
<h2>ミシルの驚きの男性関係</h2>
<p>「花郎世紀」に登場するミシル（美室）の男性関係は驚くべきものがありました。</p>
<p>ミシルの正式な夫は世宗で、世宗の父親は新羅の将軍の異斯夫（イサブ）、母親は法興王の娘の只召太后です。</p>
<p>しかし、夫以外に関係した男性は、何と！国王を含めて７人にも及びました。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-12265 size-large" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/10/6e9a3394cc8040744f183a7a57ce199b-800x443.jpg" alt="ミシルの関係した男たち" width="800" height="443" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/10/6e9a3394cc8040744f183a7a57ce199b-800x443.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/10/6e9a3394cc8040744f183a7a57ce199b-500x277.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/10/6e9a3394cc8040744f183a7a57ce199b-300x166.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/10/6e9a3394cc8040744f183a7a57ce199b-768x425.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/10/6e9a3394cc8040744f183a7a57ce199b-160x90.jpg 160w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/10/6e9a3394cc8040744f183a7a57ce199b.jpg 1011w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜ミシルが関係した男たちの相関図＞</strong></p>
<p>彼女の男性関係は夫の同母兄弟である真興王を初めとして、その息子の真智王と銅輪太子さらにその孫の真平王に及んでいます。</p>
<p>真平王は善徳女王の父親にあたります。</p>
<p>また、斯多含はミシルが初めて愛した男性で、ミシルが宮殿を追放されたときに知り合い、結婚を誓いあった二人でした。</p>
<p><strong>＜関係した男たちとその子供の一覧＞</strong></p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="20%">関係</td>
<td width="30%">名前</td>
<td width="50%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>夫</td>
<td>世宗</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>長男</td>
<td>夏宗</td>
<td>第11代風月主</td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>次男</td>
<td>玉宗</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>情夫</td>
<td>斯多含</td>
<td>子女なし</td>
</tr>
<tr>
<td>情夫</td>
<td>薛原</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>長男</td>
<td>宝宗</td>
<td>第16代風月主、娘の宝羅宮主は金春秋の最初の妻</td>
</tr>
<tr>
<td>情夫</td>
<td>真興王</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>長男</td>
<td>壽宗殿君</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>長女</td>
<td>般若公主</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>次女</td>
<td>蘭若公主</td>
<td>真平王の側室</td>
</tr>
<tr>
<td>情夫</td>
<td>銅輪太子</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>長女</td>
<td>艾松公主</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>情夫</td>
<td>真智王</td>
<td>子女なし</td>
</tr>
<tr>
<td>情夫</td>
<td>真平王</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td><em>　</em>長女</td>
<td>宝華公主</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>情夫</td>
<td>美生</td>
<td>子女なし</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>風月主とは、花郎のトップである首領のことです。</p>
<h3>新羅社会とミシルの男性関係</h3>
<p>古代朝鮮史の第一人者である末松保和教授は「新羅中古王代考」で、新羅の歴史を理解するには女性の血統を理解することは必須であると指摘しています。</p>
<p>このことから、他の王朝とは明らかに違い、新羅の女性の社会的地位は非常に高かったと推測されます。</p>
<p>ミシルの男性関係の多さの背景には、新羅の独特な社会構造があったのです。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、当時の新羅では、王族同士または貴族同士の近親婚により、少数の一族が特異な存在として存続し権力を維持していました。</p>
<p>婚姻は権力を強化するための政治的手段であり、女性自身が婚姻を活用することも例外ではありませんでした。</p>
<p>ミシルは自身の美貌を武器に、婚姻を利用して権力を王族や花郎の中に浸透させていったと考えられます。</p>
<h2>謎の多いミシルの最後</h2>
<p>ミシルが亡くなった年月は不明です。</p>
<p>金庾信（キム・ユシン）が第15代風月主だった612年から息子の宝宗（ポジョン）が第16代風月主を辞める621年の間に亡くなったと言われています。</p>
<p>ドラマでは自ら毒を飲んで命を絶っていますが、あれはドラマのフィクションです。</p>
<h3>ミシルの死因</h3>
<p>ミシルの死に関する記録は全く無いため死因は不明です。</p>
<p>しかし、当時、ミシルの年齢は70歳を過ぎていたと思われるので、病死または老衰だったと推定されます。</p>
<h3>ミシルのお墓</h3>
<p>ミシルの存在は、今だに真偽が議論されている花郎世紀で確認されるのみです。</p>
<p>従って、ミシルの墓の存在も確認されていません。</p>
<p>更に、ミシルについて詳しく知りたい方は＞＞<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/mishiru-kakeizu2442/">美室（ミシル）の家系図【絶世の美貌で王の上に君臨した女傑】</a>をご覧ください。</p>
<h2>史実ではミシルと徳曼との対決はなかった</h2>
<p>ミシルは545年から549年間に生まれたと推定されています。</p>
<p>徳曼が女王に即位した632年には、ミシルは既に亡くなっているか、生きていても80歳を超えていたことになります。</p>
<p>従って、史実ではドラマのような徳曼とミシルの対決はありませんでした。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、ドラマのミシルは王になることを夢見ていましたが、史実のミシルには王になる野望はなく、多くの権力者と関係を持ったのは一族の繁栄のためでした。</p>
<p>ドラマではピダムはミシルの息子でしたが、これもドラマの創作です。</p>
<h2>ミシルを現代に蘇らせらコ・ヒョンジョンの演技</h2>
<p>美しい外観に圧倒的なカリスマ性でもう一人の主役と言われたミシルを演じたのはコ・ヒョンジョンでした。</p>
<p>彼女の表情と狂気じみた演技は、視聴者にミシル＝コ・ヒョンジョンのイメージを植え付けました。</p>
<p>特に、顔の左と右、口、目、眉がすべて別々に動いて複雑な心理を見せる繊細な演技は、ミシルの伝説が現代に蘇ったと思わせるほど魅力的でした。</p>
<h3>コ・ヒョンジョンのプロフィール</h3>
<p>コ・ヒョンジョンは1989年に準ミスコリアに選ばれて、ニュースキャスターとして芸能界デビューをしました。</p>
<p>彼女は新世界デパートの御曹司チョン・ヨンジンと結婚して芸能界を引退し、2人の子供を生んでいます。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>しかし、2003年に突然、離婚、芸能界に復帰して周囲を驚かせました。</p>
<p>芸能界復帰はしましたが、これといったオファーもなく、暫く苦しい日々が続きましたが、善徳女王で完全復活しました。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜コ・ヒョンジョンのプロフィール＞</strong><br />
生年月日：1971年3月2日<br />
（2026年05月08日現在、55歳）<br />
出生地：韓国全羅南道和順郡<br />
身長：172cm<br />
血液型：A型<br />
最終学歴：東国大学校 演劇映画科卒<br />
元夫チョン・ヨンジンとの間に1男1女</div>
<h2>まとめ</h2>
<p>善徳女王で脚光を浴びたミシルは、「花郎世紀」のみ登場する女性で、その実在は未だに議論されています。</p>
<p>しかし、「花郎世紀」の新羅王族の複雑な血縁関係を矛盾なく、後から追加することは非常に難しく、ミシルの実在性は高いと考えます。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、彼女の男性関係は驚くべき内容で、国王を含む多くの人物と深い関わりを持っていました。</p>
<p>ミシルの魅力と影響力は、善徳女王の物語を一層引き立てる要素となっています。</p>
<p>コ・ヒョンジョンの名演技も加わり、ミシルは現代に蘇った「伝説の女性」として、多くの人々の記憶に刻まれたことでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>善徳女王の家系図を徹底解説【女王の特異性と歴史的役割】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/queen-seondeok-kakeizu2251/</link>
					<comments>https://justarandomnote.com/queen-seondeok-kakeizu2251/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 19 Sep 2022 04:38:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[善徳女王]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=4282</guid>

					<description><![CDATA[善徳女王は朝鮮半島で初めての女性の王として知られています。 家系図を紐解くと、その背後に驚きの事実が見えてきます。 本記事では、善徳女王の家系図を中心に、彼女の特異性と歴史的役割を詳しく解説します。 家系図に関連する驚き [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>善徳女王は朝鮮半島で初めての女性の王として知られています。</p>
<p>家系図を紐解くと、その背後に驚きの事実が見えてきます。</p>
<p>本記事では、善徳女王の家系図を中心に、彼女の特異性と歴史的役割を詳しく解説します。</p>
<h2>家系図に関連する驚きの事実</h2>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-12240 size-large" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/d20c6a67c87dfa17d9e569b294916f33-800x559.jpg" alt="善徳女王の複雑な家系図" width="800" height="559" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/d20c6a67c87dfa17d9e569b294916f33-800x559.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/d20c6a67c87dfa17d9e569b294916f33-500x349.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/d20c6a67c87dfa17d9e569b294916f33-300x209.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/d20c6a67c87dfa17d9e569b294916f33-768x536.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/d20c6a67c87dfa17d9e569b294916f33.jpg 1100w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜善徳女王の家系図＞</strong></p>
<p>632年に真平王が亡くなって、王位を継承したのが善徳女王です。</p>
<p>善徳女王の生年は不明ですが、このとき、45歳前後ではなかったかと推定されます。</p>
<h3>聖骨制度による複雑な家系図</h3>
<p>新羅の王位継承には新羅独自の制度である聖骨（ソンゴル）制度がありました。</p>
<p>父母ともに国王の血を引く王族を「聖骨」、それ以外の王族を「真骨（チンゴル）」と称していました。</p>
<p>純血の「聖骨」であることが、新羅王を継承する絶対的な条件でした。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>王族は特別に選ばれた存在として徹底した近親婚によって自分たちの血統を守っていたのです。</p>
<p>その結果、善徳女王の家系図は網の目のように驚くほど複雑な系図になっています。</p>
<h3>聖骨制度が生み出した初の女性王</h3>
<p>三国史記では王に男の子供がなかったこと、三国遺事では聖骨の男が盡（つ）きたことを女王擁立の理由としています。</p>
<p>家系図を見ると、確かに真平王には男子はいませんが、王位継承可能な聖骨の男子としては王の弟の国飯と伯飯、真智王の息子の金龍春と金龍樹、そして、孫の金春秋がいました。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>しかし、真平王の在位が53年であったことから国飯と伯飯はすでに他界または、高齢であった可能性が高く、金龍春と金龍樹は廃位された王の息子で、新羅王の血を引く正統な王位継承者は女性である善徳女王しかいなかったと思われます。</p>
<p>どの国の王族の家系を見ても、女性が王を継承した例はありませんが、新羅独特の聖骨制度が女性君主という他国に例を見ない異例の地位を作り上げたのです。</p>
<h3>今では信じられない3人の夫</h3>
<p>新羅の王制を維持するためには、「聖骨」の王位継承者を維持することが火急の課題でした。</p>
<p>そのため、善徳女王に息子を生んでもらうことが避けて通れぬ国家の要望でしたが、最初の夫であった龍春との間には子供は生まれませんでした。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>そこで、大臣たちは新たな方法を模索し、驚くべき案を打ち出しました。</p>
<p>「三婿制」です。</p>
<p>この制度のもとで、欽飯と乙祭が徳曼の夫として迎えられることとなり、善徳女王は三人の夫を持つ女王となったのです。</p>
<h3>家系図から見える善徳女王の仏教政策</h3>
<p>善徳女王の先祖にあたる法興王は正式に仏教を認めた王でした。</p>
<p>父方も母方も法興王の祖先にあたる善徳女王の家系は仏教に深い信仰を持っていたと考えられます。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>特に、善徳女王の母の摩耶夫人の名前の「馬耶」はお釈迦まさの母親の名前から頂いた名前でした。</p>
<p>彼女が国を治める政策として、仏教信仰を強く推進した理由は、幼い頃から植え付けられた仏教信仰にあったのです。</p>
<h2>女王を誕生させた女性としての特異性</h2>
<p>善徳女王が誕生した背景には聖骨制度がありましたが、王として認められるには、民や国人を納得させるだけの「王としての資質」が必要でした。</p>
<p>彼女が女性である故に人々を納得させた理由は類まれな予知能力でした。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>記録に残るエピソードとしては、唐からの贈答品である牡丹の絵や蛙の鳴き声、自らの死去する年月を予知した話が有名で、「三国史記」や「三国遺事」に記述されています。</p>
<p>こうした予知能力を持った女性というミステリアスな特異性が、人々に「普通の人とは違う特別な存在」と認めさせ、初の女性王を誕生させたのです。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、「三国史記」では、新羅の初代王・赫居世とその妃・閼英夫人を二聖と称するなど、この時代の女性は男性に引けを取らない存在でした。</p>
<p>このように新羅の女性の社会的地位が十分に高かったことが、善徳女王の特異性を神聖な能力と認めたのです。</p>
<h2>善徳女王の歴史的意義</h2>
<p>善徳女王は16年に渡り国王を務め、女性でも王が務まるという前例を作りました。</p>
<p>特に、彼女が領土拡大よりも内政に注力して国力を高めたことは、後の三国統一の大きな基盤となっています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>毗曇の乱はありましたが、こうした業績により後継者選びの争いもなく、聖骨である真徳女王へ王位がスムーズに継承されました。</p>
<p>そして、真徳女王の在位中には、金春秋が外交での功績を積み、次期王としての実績を着実に上げています。</p>
<p>金春秋（武烈王）とその息子（文武王）で成し遂げた三国統一ですが、その偉業のスタートは善徳女王の時代だったといえます。</p>
<h2>善徳女王と家族の関係</h2>
<p>善徳女王には3人の夫がいましたが、子供を授かることはありませんでした。</p>
<h3>善徳女王の家族</h3>
<p>善徳女王に3人の夫がいたことは、「花郎世紀」に記録されています。</p>
<p>最初の夫は真智王の息子の龍春でしたが、徳曼が王になるときに、跡継ができないことを理由に女王の夫になることを辞退したといいます。</p>
<p>そこで、選ばれたのが真興王の孫にあたる欽飯（フムパン）と上大等の乙祭（ウルジェ）でした。</p>
<p><strong>＜善徳女王の家族構成＞</strong></p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="15%">関係</td>
<td width="19%">名前</td>
<td width="33%">読み方</td>
<td width="33%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>女王</td>
<td>善徳女王</td>
<td>ソンドクニョワン</td>
<td>第27代国王</td>
</tr>
<tr>
<td>正公爵</td>
<td>龍春</td>
<td>ヨンチュン</td>
<td>天明王女の夫の弟</td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="2">副公爵</td>
<td>欽飯</td>
<td>フムパン</td>
<td>真興王の孫</td>
</tr>
<tr>
<td>乙祭</td>
<td>ウルジェ</td>
<td>上大等（大臣）</td>
</tr>
<tr>
<td>子女</td>
<td>なし</td>
<td>ー</td>
<td></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h3>双子の姉妹はドラマの創作</h3>
<p>ドラマ「善徳女王」では、善徳女王と天明公主は双子の姉妹ですが、これはドラマの創作です。</p>
<p>善徳女王は三国史記では長女と記録されていますが、三国遺事と花郎世記では次女と記録されています。</p>
<p>いずれが正しいかは分かりませんが、善徳女王が双子の姉妹でなかったことは間違いありません。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、三国遺事には三女として善花公主（ソンファコンジュ）が登場しますが、真実は明らかではありません。</p>
<p>証明する史料がないのが現状です。</p>
<h3>善徳女王はどんな女王だったのか</h3>
<p>温和で消極的な性格の姉妹・天明王女と比較して、徳曼王女は寛容で仁徳があり、頭脳明晰で俊敏であったといいます。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜プロフィール＞</strong><br />
新羅第27代王<br />
生年：586年（推定）<br />
没年：647年<br />
享年：62歳（推定）<br />
在位：632年-647年<br />
姓：金<br />
諱：徳曼<br />
父：真平王（第26代王）<br />
母：摩耶夫人</div>
<p>大邱市にある善徳女王を祀った符仁寺では女王を敬い慕い、その功績を称えて、毎年「崇慕祭」が行われています。</p>
<p>1000年以上続く祭祀は、善徳女王が民衆のために死力を尽くした国王であったことの証であるといえます。</p>
<h2>善徳女王が新羅に残した遺産｜仏教振興と政治的業績</h2>
<p>善徳女王は従来の領土拡大ではなく、女性ならではの方法で王室基盤の強化と新羅の安定と統一を推進しました。</p>
<h3>仏教の振興と普及を図る</h3>
<p>善徳女王は権力で国を治めるのではなく、仏教の力をかりて国の復興と民の忠誠心を求めました。</p>
<p>これは父・真平王が推し進めてきた仏教振興政策を引き継ぐものでもありました。</p>
<p>彼女は部族の集合体であった神話の国から、仏教により国民の王家崇拝を図り、王を中心とした中央集権国家を築いていくことを推進しました。</p>
<h4>仏教による経済の活性化</h4>
<p>善徳女王は仏教で王室の権威を高め、民の拠り所を作って国を平和にすることを最優先に取り組みました。</p>
<p>しかし、仏教振興政策により次々と寺院を建設した背景には、寺院の周辺に市場を形成して経済を発展させる目論見があったと考えられます。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>その効果は、日本の有名な神社仏閣の周囲の街に多くの人々が集まり、賑わっている風景を見れば明らかです。</p>
<p>善徳女王は薫り高き女王の寺と言われる芬皇寺や蛙の鳴き声のエピソードで有名な霊廟寺、新羅最大の建築物となる皇龍寺九層木塔などを建て、新羅の仏教建築の全盛期を築きました。</p>
<h4>仏教による軍事力の強化</h4>
<p>善徳女王が多くの寺院を建設したもう一つの理由は寺院を守る僧軍を拡大するためでした。</p>
<p>僧軍は寺院を暴徒から守るだけでなく、国の非常時には正規軍に編入され、国防軍として役割を果たしました。</p>
<p>善徳女王は国の軍備を効率よく拡充にするために、仏教を利用したとも言われています。</p>
<h3>善徳女王の政治的業績</h3>
<p>善徳女王が仏教の振興以外にも多くの業績を残しています。</p>
<h4>天文台「瞻星台」の建設</h4>
<p>瞻星台（チョムソンデ）は、現存する世界最古の天文台の一つです。</p>
<p>星を観測し農業や季節の変化を管理するために使われ、国家の農業政策や気象管理に大きく貢献しました。</p>
<h4>隋や唐との外交強化</h4>
<p>善徳女王は隋・唐との外交関係を重視、朝貢を通じて中国文化の導入を推進し、新羅の社会基盤を強化しました。</p>
<p>隣国との商業的、文化的交流は侵攻の脅威に対する防御の意味もありました。</p>
<h4>民心の安定を図る</h4>
<p>善徳女王は常に、民衆の安定と平和に気を配っていました。</p>
<p>民衆が干ばつで苦しんだときには、自ら雨乞いの儀式を指揮したことや、彼女が「月の形を彫刻した石」を設置し、水不足の問題を緩和した逸話も有名です。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>善徳女王は、朝鮮半島初の女王としてその名を歴史に残しました。</p>
<p>彼女の家系図からは、王権を巡る新羅独特の聖骨制度や複雑な政治背景が浮かび上がりますが、その背景には、王位継承者としての資質と女性特有の類まれな知性と予知能力がありました。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>即位後の善徳女王は女性ならではの感性を政治に発揮、仏教振興による経済の活性化や軍事力の強化を計り、国を安定させています。</p>
<p>善徳女王が築いた遺産は、新羅の繁栄を支え、その後の三国統一に大きな影響を与えています。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>善徳女王の死因とは？【謎の多い女王の死を徹底調査】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 18 Sep 2022 01:35:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[善徳女王]]></category>
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					<description><![CDATA[善徳女王の謎多い死について徹底解説します。 この記事で分かること ・善徳女王の死因 ・ピダムの乱との関係 ・善徳女王のお墓 善徳女王の死因 現存する記録から、「善徳女王は647年1月8日に病死した」と考えられます。 その [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>善徳女王の謎多い死について徹底解説します。</p>
<div class="secondary-box">この記事で分かること<br />
・善徳女王の死因<br />
・ピダムの乱との関係<br />
・善徳女王のお墓</div>
<h2>善徳女王の死因</h2>
<p>現存する記録から、「<strong>善徳女王は647年1月8日に病死した</strong>」と考えられます。</p>
<p>その理由は、善徳女王の死因を特定するような記録は存在しませんが、普段から病気を患っていたと思われる記録が存在するからです。</p>
<p>例えば、三国史記には重病の記録があります。</p>
<blockquote><p>王疾，醫禱無效<br />
＜三国史記善徳王5年（636年）3月＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞王が病にかかり、医術や祈祷も効果がなかった</div>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>また、三国遺事では病の重さを秘めてか、自身の死を予知しています。</p>
<blockquote><p>王無恙時、謂群臣曰、朕死於某年某月日、葬我於忉利天中<br />
＜三国遺事 紀異・善徳王知幾三事＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞王が健在の時、群臣に向かって、「私はある年のある月日に死ぬであろう。その時は私を忉利天の中に葬りなさい」と言った。</div>
<p>忉利天（とうりてん）とは、須弥山の頂上にある帝釈天をはじめ、33の天部や神々が住むとされる仏教の最も神聖な場所のことです。</p>
<p>このように病死を裏付ける記録がいくつか存在します。</p>
<h2>善徳女王の死を早めた重圧</h2>
<p>善徳女王が即位した当時は、唐や百済との緊張関係が高まり、政治的な重圧も強かったと思われます。</p>
<p>特に、女性であるが故にその重圧は計り知れなかったでしょう。</p>
<p>死の直前にピダムが女主不能善理（女性君主は国を治めることができない）と唱えて反乱を起こすなど、以前から内部の圧力も大きかったと考えられます。</p>
<p>こうしたストレスが健康に大きく影響を与え、40代という若さで亡くなった可能性が高いと推測されます。</p>
<h2>ピダムの乱と女王の死、次の王への流れ</h2>
<p>善徳女王はピダムの乱の翌日に亡くなったため、反乱によるショックや殺害説が存在します。</p>
<p>しかし、キム・ヨンヒ氏は著書「善徳女王の真実」で善徳女王の死から次の王の擁立に至る過程について、明確な仮説を立てています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>彼女によると、善徳女王は以前から重病を患い、病状悪化をきっかけに次の王の選定をめぐる政治的対立が激化しました。</p>
<p>キム・ユシンが推す真徳女王と女性の王に反対するピダムが対立し、結論が出ないまま善徳女王が危篤に陥り、ピダムは反乱を決行します。</p>
<p>しかし、キム・ユシンにより反乱が鎮圧され、真徳女王が即位しました。</p>
<p>善徳女王の生涯については＞＞<br />
<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/queen-seondeok-kakeizu2251/">善徳女王の家系図</a>で詳しくご紹介しています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>以上がつキム・ヨンヒ氏の説ですが、善徳女王はピダムの乱が原因で亡くなったのではなく、病状の悪化を知ったピダムが乱を起こしたと考えています。</p>
<p>また、この説によれば、真徳女王の即位も事前に計画されていたことになります。</p>
<div class="information-box common-icon-box">キム・ヨンヒ氏は壇国大学で女性学を教える学者です。正史とされる「三国史記」および「三国遺事」と、筆写本「花郎世紀」を中心に据え、約10年の歳月をかけて古都・慶州を調査、善徳女王の生涯を調べ上げました。</div>
<h2>善徳女王のお墓</h2>
<p>善徳女王は慶州市の狼山（ナンサン）と呼ばれる小高い丘の上に埋葬されています。</p>
<p>三国史記にも狼山に埋葬されたことが記録されています。</p>
<blockquote><p>八日，王薨。諡曰善德，葬于狼山<br />
＜三国史記善徳王十六年春正月より＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞八日、王が逝去した。諡を善德といい、狼山に埋葬した。</div>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>善徳女王は自分が亡くなる日を予知しただけでなく、亡くなったら埋葬する場所を仏の国（慶州市の狼山）に指定したと伝えられています。</p>
<p>狼山は現在の位置で慶州市東南側にあたり、仏教国家・新羅の象徴ともいえる場所です。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-12449" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/12557a0682c5bd0392d8c7cef5548b3e.jpg" alt="善徳女王のお墓の場所" width="324" height="303" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/12557a0682c5bd0392d8c7cef5548b3e.jpg 607w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/12557a0682c5bd0392d8c7cef5548b3e-500x468.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/12557a0682c5bd0392d8c7cef5548b3e-300x281.jpg 300w" sizes="(max-width: 324px) 100vw, 324px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜善徳女王のお墓の場所＞</strong><br />
場所：慶尚北道 慶州市 普門洞 山 79-2</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>お墓は特に石像がなく、同時代の武将・キム・ユシンと比べるとかなり寂しい感じですが、後に墓の入口付近に仏を守る意味の四天王寺が建設され、仏の国であることが明確になりました。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-4264" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/157831f3d7abc3e043993516e50e02ba.jpg" alt="善徳女王のお墓" width="427" height="285" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/157831f3d7abc3e043993516e50e02ba.jpg 685w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/157831f3d7abc3e043993516e50e02ba-300x200.jpg 300w" sizes="(max-width: 427px) 100vw, 427px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜善徳女王のお墓＞</strong></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>善徳女王の死因は病死が最も有力な説と考えますが、その背景にはピダムの乱や次の王の選定をめぐる複雑な政治的駆け引きがありました。</p>
<p>ピダムの乱が鎮圧され、真徳女王が即位、新羅の政治は再び女王に委ねられました。</p>
<p>女性王は否定されなかったのです。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>病に苦しみながらも初代女王の役目を果たした善徳女王は彼女自身が生前に選んだ場所である狼山に埋葬されています。</p>
<p>善徳女王の生涯と死因の謎を追うことで、新羅における女性王の存在意義を改めて考えるきっかけとなるでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>善徳女王の夫は誰？【史実の３人の夫とピダムの真相】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 17 Sep 2022 00:58:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[善徳女王]]></category>
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					<description><![CDATA[ドラマ「善徳女王」では善徳女王はピダムと婚姻宣言しますが、史実にその記録はありません。では、善徳女王の夫は誰だったのか？ この記事では、善徳女王の夫について史料をもとに詳しく解説します。 史料に見る善徳女王の夫 善徳女王 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>ドラマ「善徳女王」では善徳女王はピダムと婚姻宣言しますが、史実にその記録はありません。では、善徳女王の夫は誰だったのか？</p>
<p>この記事では、善徳女王の夫について史料をもとに詳しく解説します。</p>
<h2>史料に見る善徳女王の夫</h2>
<p>善徳女王の夫に関しては、史料によって記録が異なります。</p>
<div class="primary-box">「三国史記」：夫についての記録はなし<br />
「三国遺事」：飲葛文王と記録<br />
「花郎世記」：龍春、欽飯、乙祭の3人の夫がいたと記録</div>
<p>「花郎世記」の記録によると「三婿制（さんせいせい）」が採用され、善徳女王には3人の夫がいたとされています。</p>
<p>以下にその記録を紹介します。</p>
<blockquote><p>善德公主卽位.以公為夫.而公以無嗣請自退.群臣乃議三婿之制.欽飯公・乙祭公副之.＜引用元：花郎世記·龙春·戊戌生·丙辰郞主より抜粋＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜概訳＞公主（徳曼）が善徳女王に即位しました。公爵を夫にしようとしました。しかし、公爵は跡継ができないことで辞退しました。そこで、大臣たちは三婿制を審議、欽飯と乙祭を夫にしました。</div>
<p>善徳女王は即位前に龍春（ヨンチュン）と結婚していましたが、即位後は王位継承の安定を図るため複数の夫を迎えたと考えられます。しかし、子を授かることはありませんでした。</p>
<h2>善徳女王の夫はどんな人</h2>
<p>善徳女王の3人の夫はどのような人物だったのか。3人の夫との関係を次に示します。</p>
<p>点線の”&#8212;-”が夫婦関係です。</p>
<div id="attachment_4259" style="width: 666px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-4259" class="wp-image-4259" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/683cab9e70cf78409c90bfc84bdae4fd.jpg" alt="善徳女王の婚姻関係図" width="656" height="347" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/683cab9e70cf78409c90bfc84bdae4fd.jpg 1154w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/683cab9e70cf78409c90bfc84bdae4fd-300x159.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/683cab9e70cf78409c90bfc84bdae4fd-1024x542.jpg 1024w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/683cab9e70cf78409c90bfc84bdae4fd-768x407.jpg 768w" sizes="(max-width: 656px) 100vw, 656px" /><p id="caption-attachment-4259" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜善徳女王の婚姻関係図＞</strong></p>
<h3>龍春（ヨンチュン）</h3>
<p>龍春（ヨンチュン）は真智王の息子で、姉の天明公主の夫となった龍樹の弟です。善徳女王が徳曼王女のときに結婚しており、兄弟ともに王女姉妹と婚姻しドラマ「善徳女王」にも登場します。</p>
<h3>欽飯（フムパン）</h3>
<p>欽飯（フムパン）は真興王の孫とされ、花郎世記のみに登場します。三国遺事の飲葛文王と同一人物の可能性があり、謎多き存在でドラマには登場しません。</p>
<h3>乙祭（ウルジェ）</h3>
<p>乙祭（ウルジェ）は史実では和白会議（ファベクフェイ）の長である上大等（サンデドゥン）を務めました。ドラマ「善徳女王」に大臣として登場しています。</p>
<h2>善徳女王と毗曇（ピダム）との関係</h2>
<p>ドラマでは恋愛関係として描かれた毗曇（ピダム）ですが、史実では単なる臣下であり、後に「毗曇の乱」を起こした反逆者として記録されています。結婚した事実はありません。</p>
<p>詳しくはこちら＞＞<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/queen-seondeok-pidamu-kekkon2253/">史実で善徳女王とピダムは結婚したのか？【ピダムの謎に迫る】</a></p>
<p>ドラマ「善徳女王」におけるピダムの話は、ほとんどがドラマの創作です。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>善徳女王には、史料によって「夫はいない」「飲葛文王が夫」「三人の夫がいた」と複数の説があります。</p>
<p>もっとも詳細な記録を残す「花郎世記」によると、徳曼王女の時代に龍春と結婚 。即位後、三婿制により欽飯と乙祭を夫に迎える という経緯が示されています。</p>
<p>いずれも王族の安定した継承を目的とした婚姻であり、愛情よりも政治的な意味合いが強かったと考えられます。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>善徳女王の宝良役パク・ウンビン【ユ・スンホと驚きの関係】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/queen-seondeok-paku-unbin2248/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 15 Sep 2022 01:13:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[善徳女王]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=4244</guid>

					<description><![CDATA[ドラマ「善徳女王」でパク・ウンビンは宝良（ポリャン）という重要な役を演じました。 ミシルを祖母にもつ宝良はドラマ後半から登場、ユ・スンホ演じる金春秋（キム・チュンチュ）と結婚します。しかし、この展開には驚くべき事実があり [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>ドラマ「善徳女王」でパク・ウンビンは宝良（ポリャン）という重要な役を演じました。</p>
<p>ミシルを祖母にもつ宝良はドラマ後半から登場、ユ・スンホ演じる金春秋（キム・チュンチュ）と結婚します。しかし、この展開には驚くべき事実がありました。</p>
<h2>ドラマと史実の違い｜本当に結婚したのは宝良ではなかった？</h2>
<p>パク・ウンビンが「善徳女王」で演じた宝良（ポリャン）は実在の人物ですが、史実では金春秋（キム・チュンチュ）と結婚していません。</p>
<p>実際に結婚したのは妹の宝羅（ポラ）で、二人の間には長女・古陀炤（コタソ）らが誕生しています。</p>
<div id="attachment_4247" style="width: 669px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-4247" class="wp-image-4247" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/7c1c3d1787ccaacec7de11cab46e89d4.jpg" alt="史実における宝羅と宝良の関係" width="659" height="280" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/7c1c3d1787ccaacec7de11cab46e89d4.jpg 1113w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/7c1c3d1787ccaacec7de11cab46e89d4-300x127.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/7c1c3d1787ccaacec7de11cab46e89d4-1024x435.jpg 1024w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/7c1c3d1787ccaacec7de11cab46e89d4-768x326.jpg 768w" sizes="(max-width: 659px) 100vw, 659px" /><p id="caption-attachment-4247" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜史実における宝羅と宝良の関係＞</strong></p>
<p>ドラマの誤りは「花郎世紀」という史料に由来しています。そこには、確かに宝良が妻と記されていましたが、別の記録では宝良は武将・金良図の妻と記され、内容に矛盾がありました。</p>
<p>後の研究で、「宝良が妻」は誤記で筆写時のミスが原因であるとされました。ドラマが史実と異なる人物設定を採用したと考えられます。</p>
<h2>ユ・スンホとの驚きの関係｜共演の歴史と子供時代の出会い</h2>
<p>パク・ウンビンとユ・スンホは、実は長い共演歴があります。「善徳女王」より2年前の2007年、ペ・ヨンジュン主演の「太王四神記」で二人は共演していました。</p>
<p>そのドラマでは、パク・ウンビンは神女キハの少女時代を、ユ・スンホはタムドク（高句麗の王）の少年時代を演じています。</p>
<p>それだけではありません。二人は幼少期に子供服のモデルとしても共演しており、芸能界入り前からの縁があったのです。</p>
<p style="text-align: center;"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-4248" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/a48561bb4039d8514cce12ae3a4d5685.jpg" alt="パク・ウンビンとユ・スンホの幼少期のモデル時代の写真" width="359" height="295" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/a48561bb4039d8514cce12ae3a4d5685.jpg 505w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2022/09/a48561bb4039d8514cce12ae3a4d5685-300x247.jpg 300w" sizes="(max-width: 359px) 100vw, 359px" /><strong>＜パク・ウンビンとユ・スンホ＞</strong></p>
<p>さらに、2012年のドラマ「プロポーズ大作戦～Mission to Love」では、二人は初のキスシーンにも挑戦しました。このドラマでは、少年少女時代から共に成長してきた二人の演技の成熟ぶりが話題となりました。</p>
<h2>パク・ウンビンの時代劇キャリア</h2>
<p>1998年に子役としてデビューしたパク・ウンビンは、当時から多数の時代劇に子役として出演してきました。</p>
<p>「善徳女王」に出演したときには、すでに芸歴11年を超えるベテランで、その安定した演技は高く評価されました。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜善徳女王以前に出演した時代劇ドラマ＞</strong><br />
商道（2001年、イプン役）<br />
王の女（2003年、ソ・ソンイ役）<br />
武人時代（2003年、李義方の娘役）<br />
太王四神記（2007年、ソ・ギハ役）</div>
<p>子役時代のドラマついては<br />
＞＞<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/park-eun-bin-koyaku2185/">パク・ウンビンは子役から時代劇で活躍するベテラン女優</a>で詳しくご紹介しています。</p>
<p>善徳女王での演技が認められたパク・ウンビンは、その後積極的に時代劇に出演しています。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜善徳女王以降に出演した時代劇ドラマ＞</strong><br />
善徳女王（2009年、宝良役）<br />
千秋太后（2009年、ファンボ・ソル役）<br />
階伯（2011年、モク・ウンゴ役）<br />
ホジュン（2013年、イ・ダヒ役）<br />
秘密の扉（2014年、恵慶宮役）</div>
<p>2014年以降、しばらく、時代劇への出演がありませんでしたが、久しぶりに、日本でも大ヒットした恋慕で王様役を演じ、国際的に注目されました。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜近年出演した時代劇ドラマ＞</strong><br />
恋慕（2021年、イ・フィ役）</div>
<h2>まとめ</h2>
<p>「善徳女王」でのパク・ウンビンの演技は、史実とは異なる設定ながらも、宝良役としての存在感は視聴者に強い印象を残しました。</p>
<p>彼女の長い時代劇キャリアを見ても、実力派俳優として確固たる地位を築いてきたことが分かります。</p>
<p>また、パク・ウンビンとユ・スンホは、多くの作品で共演していますが、実は幼少期に子供服のモデルとしても共演しており、当時から縁があったとは思いがけない発見でした。</p>
<p>近年では、「恋慕」や「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」が日本でも大ヒット、日本でも人気が急上昇中です。今後もパク・ウンビンの活躍から目が離せません。</p>
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