綏嬪朴氏(スビンパクシ)は、正祖(イ・サン)の跡を継いだ第23代国王・純祖の生母です。表舞台にあまり登場しない存在ですが、実は名門家系の出身でした。
この記事では、綏嬪朴氏の家系図とともに、彼女の生涯や人物像を詳しく解説します。
綏嬪朴氏の家系図
綏嬪朴氏(スビンパクシ)は朴應珠を始祖とする名門氏族・潘南朴氏の出身です。朴應珠は高麗末期に現在の全羅南道羅州市潘南面を中心に活躍した豪族でした。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<綏嬪朴氏の家系図>
この潘南朴氏からは、以下の2人の王妃を輩出しています。
懿仁王后(第14代王・宣祖の正室)
綏嬪朴氏自身もまた、王妃にはならなかったものの、王の母として王の系統に深く関わった女性でした。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<王妃を輩出した家系・潘南朴氏>
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1770年、綏嬪朴氏は父・朴準源の三女として生まれました。
1786年、正室・孝懿王后には子がなく、側室・宜嬪成氏も早世していたため、翌年、貞純大妃の命で揀択が行われ、綏嬪朴氏が側室として選ばれました。綏嬪朴氏は18歳、正祖は36歳でした。
4年後の1790年、22歳なった綏嬪朴氏と正祖の間に、後に第23代国王・純祖となる李玜(イ・ゴン)が誕生します。
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正祖(イ・サン)は、純祖を生んだ若く穏やかな綏嬪朴氏をたいへん愛したようです。その証として、彼女を自身の執務空間である迎春軒(ヨンチュノン)の隣、集福軒(チッポッコン)に住まわせました。
昌慶宮内にあるこの集福軒は、父・思悼世子と息子・純祖が生まれた由緒ある場所で、後に純祖の時代に迎春軒と一体の建物として再建されています。
<現在の集福軒と迎春軒>
綏嬪朴氏の人物像と子ども
綏嬪朴氏は温厚でおとなしい性格で質素な生活を好んだといいます。義理の祖母の貞純王后、姑の恵慶宮、正室の孝懿王后とは良好な関係でした。
生年:1770年5月8日
没年:1822年12月26日(享年53歳)
氏族:潘南朴氏
父親:朴準源
母親:原州元氏
お墓:京畿道坡州市徽慶園
綏嬪朴氏は2人の子をもうけています。
名前 | 称号 | 生年-没年 | 備考 |
李玜(イ・ゴン) | 純祖 | 1790-1834 | 第23代国王 |
不明 | 淑善翁主 | 1793-1836 | 洪顕周の正室 |
綏嬪朴氏の家族構成
彼女は6男3女の末娘で、兄姉たちの詳細も記録に残っています。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 朴準源 | 1739-1807 | |
母 | 原州元氏 | 1740-1783 | |
長男 | 朴宗輔 | 1760-1807 | |
次男 | 朴宗慶 | 1765-1817 | |
三男 | 朴宗翊 | 不明 | |
四男 | 朴宗喜 | 不明 | |
長女 | 不明 | 不明 | 申光晦の正室 |
次女 | 不明 | 不明 | 李堯憲の正室 |
三女 | 綏嬪朴氏 | 1770-1822 | 正祖の側室 |
継母 | 不明 | 不明 | |
五男 | 朴宗琰 | 不明 | |
六男 | 朴宗永 | 不明 |
父・朴準源は娘の貢献により、数々の官職に就き、1805年には正2品の工曹判書にまで昇進しました。
<父・朴準源の昇進履歴>
年 | 出来事と官職 |
1787 | 娘が側室。司僕寺主簿 |
1790 | 純祖が誕生。戸曹参議(正三品) |
1800 | 純祖が即位。重要な官職を歴任 |
1805 | 工曹判書(正2品) |
年表で見る綏嬪朴氏の生涯
綏嬪朴氏の生涯は、夫の寵愛を受けて二人の子どもをもうけ、更に、息子(純祖)の即位を見ることができるなど、穏やかで恵まれた生涯でした。
年 | 年齢 | 出来事 |
1770 | 1 | 朴準源と原州元氏の三女として生まれる |
1787 | 18 | 綏嬪朴氏が側室に選ばれる |
1790 | 21 | 純祖を出産する |
1793 | 24 | 淑善翁主を出産する |
1800 | 31 | 純祖が第23代国王に即位する |
1822 | 53 | 昌徳宮徽慶堂にて死去 |
まとめ
綏嬪朴氏は王妃にはならなかったものの、名門潘南朴氏の血筋と、穏やかで誠実な人柄により、正祖の寵愛を受けるとともに、王宮内で信頼と尊敬を集めました。
さらに、歴史に名を刻む華やかな側室とは異なりますが、次代の王・純祖を生んだという事実は、彼女が朝鮮王朝の正統な継承に果たした役割の大きさを物語っています。