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帝王の娘スベクヒャンの実話とは【武寧王の娘は実在したのか?】

「帝王の娘スベクヒャン」は、百済を再興させた第25代王・武寧王の娘の物語です。

実際に、武寧王の娘は実在したのか?

ドラマと史実の違いは?

この記事では、
「帝王の娘スベクヒャン」の実話を詳しくご紹介しています。

 

帝王の娘スベクヒャンは実在したのか?

帝王・武寧王に娘がいた記録はありません。

従って、帝王の娘スベクヒャンは架空の人物です。

 

今だに、テレビの番組サイトに

「6世紀の百済を舞台に、第25代武寧王の娘として実在した人物をモチーフに描いた大型歴史ドラマ」

との文面が見られますが、韓国の公式サイトではすでに削除されています。

 

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帝王の娘スベクヒャンの実話

帝王の娘は架空の人物ですが、物語は武寧王の時代の史実をベースに作られています。

従って、史実を知ることでドラマがより深く理解できると思います。

 

時代背景

東城王が暗殺され、武寧王が即位した時代は502年です。

この時代は朝鮮半島の支配権をめぐり、新羅、高句麗、百済、伽耶が激しく争っていた時代でした。

 

高句麗による漢城の陥落

475年、南下してきた高句麗の軍隊により、百済の都の漢城(ソウル)は陥落、第21代蓋鹵王は捕まり殺害されてしまいました。

高句麗の侵略成功には、間者である道琳(トリム)が関わっていたと三国史記には記録されています。

ドラマで「都・漢城の奪回は百済の悲願」と言われるのは、こうした過去があったのです。

 

東城王の即位

殺害された蓋鹵王の後を継いだ息子の文周王は、477年9月、即位からわずか3年で暗殺されました。

その後、13歳の三斤王が王位を継ぎましたが、幼さゆえに実権は臣下に握られ、目立った実績を残すことができませんでした。

三斤王は479年11月に在位3年で崩御し、子供がいなかったため、蓋鹵王の孫にあたる東城王が第24代王として即位しました。

 

暴君化した東城王の暗殺

東城王は弱まった国力と王権の回復を目指し、積極的に国外へ軍を派遣して成果を挙げましたが、晩年には贅沢な生活に溺れ、暴君と化して国政を疎かにしました。

501年8月、王から加林城の守衛を命じられた大臣の苩加(ペクカ)は、この処遇に不満を抱き、反発しましたが、強制的に赴任させられます。

同年11月、苩加はこの屈辱を深く恨み、刺客を放って狩り中の東城王を暗殺しました。

 

武寧王の即位

501年12月に東城王が亡くなると、武寧王が第25代王として即位しました。

即位すると直ぐに、加林城で挙兵した苩加の討伐を実行します。

苩加は抵抗しましたが、武寧王の軍隊に鎮圧され、最後は処刑されてしまいます。

この苩加(ペクカ)の反乱は、ドラマの前半に描かれています。

 

高句麗を撃破と百済の再興

武寧王は高句麗から攻められて危機的状況にあった百済を再興させた国王でした。

それまでの百済は455年以後、繰り返し高句麗に侵攻を受けてきました。

東城王の後を継いだ武寧王はしばしば漢江流域に攻撃を仕掛ける高句麗を撃退、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えています。

そして、武寧王の後を継いだ聖王が551年、一時的ですが、念願の漢城奪回に成功しました。

 

悲劇的な聖王の最後

ドラマでは漢城奪回に成功し、聖王がスベクヒャンと結ばれて物語は終わりますが、史実の聖王は悲劇的な最期を迎えます。

聖王は新羅の真興王と協力して漢城を高句麗から奪還したものの、新羅に裏切られ、漢城を失ってしまいます。

新羅に激怒した聖王は554年、新羅の管山城に総攻撃を仕掛けましたが大敗し、自身も伏兵に襲われ、あっけなく戦死してしまいました。

この後、百済は高句麗と結び、裏切った新羅と対立する道を選ぶことになります。

 

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実在した武寧王とはどんな王様

武寧王は高句麗から攻められて危機的状況にあった百済を再興させた国王でした。

近年、武寧王の墓が発見され「世紀の大発見」と称されています。

墓からは多くの新しい情報が発見され、誰の息子かも分からなかった武寧王について、少しずつ謎が解明されています。

 

武寧王は日本で生まれた?

これは、日本書紀に記録されていますが、実は近年になって、日本書紀の記述が正しいという論文が発表されました。

その根拠は、武寧王のお墓から発見された墓誌石に記述された没年日と享年が日本書紀の記録と一致したからです。

 

こうして、一つ一つ謎が解明されていますが、まだまだ謎のベールに包まれた王であることは変わりません。

詳しくは>>武寧王の家系図【日本生まれ?謎のベールに包まれた百済の王】を御覧ください。

 

チンム公は実在したのか?

スベクヒャンに登場するチンム公は架空の人物です。

ドラマでは、チンム公は武寧王の息子でしたが、史実では武寧王の実の息子はミョンノン(聖王)です。

また、東城王にもチンム公のモデルになるような息子はいませんでした。

 

実は、チンム公を演じた チョン・テスはハ・ジウォンさんの弟さんでした。

詳しくは>>スベクヒャンのチンム公は実在?【チンム公役はハ・ジウォンの弟】をご覧ください。

 

史実とドラマの違い

「帝王の娘スベクヒャン」は武寧王時代の史実をベースに、架空の人物のエピソードを織り交ぜたフィクションです。

 

ソルランとソルヒの話は創作

ドラマは武寧王にもし、娘がいたらという仮定のもとに作られています。

従って、武寧王の娘「ソルラン」とのその妹「ソルヒ」の関連する部分は全てフィクションです。

 

息子の入れ替えは創作

ドラマの序盤で武寧王が自分の子供を入れ替えていますが、このような事実はありません。

実は、武寧王と東城王の関係は諸説あり、「三国史記」によると武寧王は東城王の息子(第2子)と記録されています。

この関係では、息子の入れ替えは不自然になります。

 

しかし、「日本書紀」での記述を見ると武寧王と東城王は異母兄弟になります。

ドラマでは、子どもの入れ替えを現実的に見せるために、都合の良い異母兄弟説を採用したと思われます。

 

聖明王は武寧王の息子

史実では、聖明王(本名:ミョンノン)は武寧王の息子です。

ミョンノン(太子)が東城王の息子という設定もドラマの都合で変えられたものです。

どうしても、武寧王の娘スベクヒャンと次期王のミョンノンを一緒にさせたかったのでしょう。

 

実在した登場人物

「帝王の娘スベクヒャン」に登場する人物の実在したモデルをご紹介します。

役名 実在のモデル 備考
武寧王 武寧王(ムリョンワン) 百済第25代王
ミョンノン 聖王(ソンワン) 百済第26代王
トリム 道琳(トリム) 僧侶、高句麗の元密偵
ペク・カ 苩加(ペク・カ) 加林(カリム)城城主
安蔵王 安蔵王(アンジャンワン) 高句麗第22代王
東城王 東城王(トンソンワン) 百済第24代王
蓋鹵王 蓋鹵王(ケロワン) 百済第21代王

高句麗の密偵・道琳(トリム)は実在した人物ですが、史実の道琳は男性でした。

 

スベクヒャンに関する豆知識

「帝王の娘スベクヒャン」に関連するいくつかの史実を豆知識としてご紹介します。

 

道琳(トリム)は実在した

「三国史記」巻25「百済本記」蓋鹵王21年条には、高句麗の長寿王の命で僧の道琳(トリム)が間者として百済に入り、囲碁の相手をして蓋鹵王の側近になり、高句麗の漢城侵略を手助けしたことが記録されています。

但し、三国史記の道琳は男性です。

 

苩加(ペクカ)は実在した

ドラマで東城王の暗殺を企てた苩加は実在した人物でした。

苩加は地方の豪族で、486年2月に百済の最高の官職である衛士佐平に任命されています。

但し、娘のチェファは架空の人物です。

 

日本書紀とは

奈良時代に完成した日本の歴史書で現存する最も古い国が認める正史です。日本の歴代天皇の系譜・事績が記録されています。

百済は当時、日本と交流があり、人材が行き来していました。

 

まとめ

「帝王の娘スベクヒャン」は、百済の武寧王をベースにしたフィクションであり、主人公スベクヒャンやチンム公は架空の人物です。

物語は武寧王が高句麗との激戦を制し、百済を再興した史実を背景にしており、物語にリアル感を持たせています。

 

このドラマも、韓国での放送当初はドラマ「奇皇后」同様に歴史歪曲論争が起こったようです。

しかし、正史と呼ばれる歴史書にも多くの矛盾が見られるため、あまり堅苦しく考えず、楽しみながら古き百済の時代に思いを馳せるのもよいものです。

また、チンム公役を演じた俳優チョン・テスさんの最後の作品としても、心に残る作品となりました。

 

注意)三国史記と日本書紀で系図が違うだけでなく、日本書紀の中でも矛盾した記述が見られます。そのため、多くの学者の間で異論や論争が絶えないようです。従って、ここで掲載して内容も、あくまで一つの参考として御覧ください。

 

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