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ペク・クァンヒョンの家系図【馬医から名医へ史実の足跡】

ドラマ「馬医」のモデルとなったペク・クァンヒョン(白光炫)は、朝鮮を代表する鍼医であり、馬医から宮廷医にまで登りつめた人物として知られています。

この記事では、ペク・クァンヒョンの家系図から人物像、家族関係、そして馬医から名医となった経緯を詳しく解説します。

ペク・クァンヒョンの家系図

ペク・クァンヒョンは、白宇経を始祖とする名門・林川白氏一族の出身です。

代々、林川白氏は武官を多く輩出した家系で、父・白哲明は五衛将(正三品堂上)、祖父・白仁豪は龍驤衛の護軍(正四品)の武官でした。

ペク・クァンヒョンの家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<ペク・クァンヒョンの家系図>

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ペク・クァンヒョンはどんな人物

ペク・クァンヒョンは、体格が大きく容貌も優れた人物で、腫れ物治療に馬の鍼治療を応用するなど独創性に優れ、挑戦的な意欲に満ちた努力家だったとされます。

また、王族から庶民まで分け隔てなく治療にあたり、その技術力のみならず人格的にも優れた人物であったことがうかがえます。

<プロフィール>
名前:白光炫(ペク・クァンヒョン)
生年:1625年4月6日
没年:1697年2月9日(享年73歳)
本貫:林川白氏
父:白哲明(ペク・チョルミョン)
母:昌寧趙氏
妻:淸州韓氏
子供:白興齡、白興聲、白興隣
<豆知識>ペク・クァンヒョンの漢字
ペク・クァンヒョンを調べていると多くの漢字表記があることが分かります。多くは、白光炫または白光玹と表記されていますが、白光鉉,白光賢,白光顯の漢字表記も見かけます。
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ペク・クァンヒョンの家族

ペク・クァンヒョンは9男3女の兄弟姉妹の次男として生まれました。彼は武を家業とする家庭に育ち、兄弟も複数が武官として朝廷に仕えています。

<ペク・クァンヒョンの家族>

関係 名前 生年-没年 備考
白哲明 1604-1665 武官
昌寧趙氏 1607-1660
長男 白光燦 1623-1697 武官、原從功臣を授かる
次男 白光炫 1625-1697 羽林衛の武官、医師
三男 白光珣 1627-1680 龍驤衛の武官(副司果)
四男 白光瓛 早世
五男 白光瑗 1632-1711 武官、折衝将軍の称号
六男 白光璡 早世
七男 白光瑄 早世
八男 白光璘 1647-1721 内医院の医師
九男 白光瑾 早世
3女 不明

兄の白光燦は沈器遠の反乱の鎮圧に参加して武功をたて、寧國原從功臣の称号を得ています。

また、弟の白光璘は、兄のクァンヒョン(白光炫)の影響を受けて、内医院の鍼医になっていますが、兄ほどの名声を得ることはありませんでした。

武官を目指したペク・クァンヒョン

ペク・クァンヒョンも、家庭の影響から宮廷を護衛する軍隊の羽林衛(ウリミ)に入隊しました。羽林衛は、内禁衛(ネグミ)、兼司僕(キョムサボク)と並び、王の護衛や宮廷の警護をする部隊です。

ドラマとは異なり、ペク・クァンヒョンの出発点は武官でした。

転機となった落馬事故

ペク・クァンヒョンが医術を志すきっかけとなったのが、若い頃に起きた落馬事故でした。

ある日、ペク・クァンヒョンは馬から落ちて大怪我を負います。将来、歩けなくなるかもしれないほどの大怪我でしたが、有名な名医に診てもらい見事に回復しました。

治療を通じて、医師の技術に深い感銘を受けたペク・クァンヒョンは医師になることを決意します。

馬医として医術を学ぶ

当初、ペク・クァンヒョンが学び始めたのは、人間ではなく馬を治療する医術でした。軍隊に所属していたため身近にいたのは馬であり、まずは馬の治療から学び始めたと考えられます。

彼は時を惜しむほど熱心に鍼術の鍛錬を重ね、猛烈な練習を続けたと伝えられています。

腫れ物治療の技術で医師に

ペク・クァンヒョンは馬の治療で得た知識を人間に応用し、鍼による腫れ物治療で大きな成果を上げます。

そして、治療例を重ねることにより、腫れ物治療の技術を次第に高めていきました。彼の技術の中で特筆すべきは、沸騰消毒した鍼(刃物)を用いて患部を切開し、腫れ物の原因を根本から取り除く外科的治療法を確立したことです。

こうした卓越した技術が評判を呼び、ペク・クァンヒョンは次第に馬医から本格的に医師としての道へ進んでいきました。

詳しくは>>馬医の実話【実在したペク・クァンヒョンの史実とは?】

宮廷医に抜擢される

その優れた腕前が認められ、最終的には王室の医療を担当する宮廷医へと登用されました。武官家系の出身ながら、医師として名声を確立した点が、彼の人生をより劇的なものにしています。

ペク・クァンヒョンの最後

ペク・クァンヒョンは、1696年6月に突然吐血しました。さまざまな薬を用いたものの効果はなく、おそらく胃がんや食道がんではなかったと推測されます。

このころ、粛宗も病を得て容態は芳しくありませんでした。ペク・クァンヒョンは病を押して診察に出向いたといいます。王の病状は快方に向かいましたが、自身の病状は悪化。1697年2月9日に73歳で生涯を閉じました。

まとめ

ペク・クァンヒョンは武門の家に生まれましたが、落馬事故をキッカケに医学の道に進み、卓越した技術で宮廷医にまで登りつめた人物でした。

家系図をもとに彼の人生を紐解くと、ドラマとは異なる史実の姿を知ることができます。そして、ドラマと史実を対比することで、実在したペク・クァンヒョンの生涯をより深く理解することができます。

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