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廃妃慎氏の家系図【燕山君を支えた王妃の生涯と血縁関係】

廃妃慎氏は、朝鮮王朝史上最も残虐な暴君・燕山君の正室でした。その出自を家系図からたどると、王室と深く結びついた名門の血筋であったことが分かります。

この記事では、廃妃慎氏の家系図をもとに、王室との血縁関係、史実に基づく生涯、そして後世にどのように評価されてきたのかを詳しく解説します。

廃妃慎氏の家系図

廃妃慎氏は、名門・居昌慎氏の出身です。その始祖とされる慎修は宋(中国)から高麗に渡来し、第11代高麗王・文宗に重用された人物でした。居昌慎氏はその後、中央政界で勢力を伸ばし、王室とも婚姻関係を結びながら有力氏族へと成長していきました。

廃妃慎氏の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<廃妃慎氏の家系図>

廃妃慎氏の母・中牟県主は、第4代王・世宗の四男である臨瀛大君(李璆)の娘です。このため、廃妃慎氏は世宗のひ孫にあたります。

また、後に中宗の正室となる端敬王后は、廃妃慎氏の姪(兄・慎守勤の娘)であり、慎氏一族は二代にわたって王妃を輩出したことになりました。

端敬王后との関係

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<端敬王后との関係>

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廃妃慎氏はどんな王妃だったのか?

朝鮮王朝実録には、廃妃慎氏の具体的な言動や人物像を直接伝える記述は多くありませんが、彼女に「斉仁元徳王妃」という尊号を贈ったとき、実録に次のように記されています。

且惟王妃愼氏,賢淑柔嘉,備有婦德
<燕山君日記:燕山11年8月26日(1505年) >

<訳>王妃慎氏は、賢くしとやかで温和な人柄であり、婦人としての徳を十分に備えていた。

このよう、史料では「温和で謙虚、人徳があった」と評価されています。

廃妃慎氏のプロフィール

廃妃慎氏(ペビシンシ)
在位:1494年12月29日-1506年9月2日
廃位後の称号:居昌郡夫人
生年:1476年11月29日
没年:1537年4月8日(享年62歳)
夫:燕山君
氏族:居昌慎氏
父親:慎承善(シン・スンソン)
母親:中牟県主
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燕山君と廃妃慎氏の関係

歯向かうものは誰でも容赦のなかった燕山君ですが、王妃の前では比較的おとなしく、張緑水(チャン・ノクス)にさえ、王妃に手を出すことを禁じていたとの逸話が残されています。

それほど、燕山君は廃妃慎氏を大切にしていたのでしょう。事実、史料には流刑になった燕山君の最後の望みが「王妃に会いたい」であっとと記されています。

初六日燕山君, 因疫疾而死。臨死無他語, 但欲見愼氏。
<中宗実録:中宗1年11月8日(1506年)>

<訳>六日、燕山君は疫病により死亡した。臨終にあたり他の言葉はなく、ただ慎氏に会いたいと望んだ。

廃妃慎氏の家族

慎承善、慎守勤の親子は成宗、燕山君の時代に朝廷の実力者として朝廷の中心に位置していました。しかし、中宗反正に反対した慎守勤が処刑されると、慎一族は急速に没落していきます。

廃妃慎氏の親兄弟

廃妃慎氏の兄は七日の王妃で有名な端敬王后の父親です。

母親は第4代王・世宗の四男・臨瀛大君の娘で、端敬王后の祖母にあたります。

関係 名前 生年-没年 備考
慎承善 1436-1502 領議政
中牟県主 1435~不詳 臨瀛大君の娘
慎守勤 1450-1506 端敬王后の父
慎守謙 不詳
慎守英 不詳

廃妃慎氏の家族

廃妃慎氏には、下記2男1女を含めて7~9人の子供がいたと言われていますが、いずれも幼い時に亡くなっています。

関係 名前 生年-没年 備考
燕山君 1476-1506 第10代王
長女 徽慎公主/李寿億 1491-不詳 中宗反正後、廃位
長男 廃世子/李◯ 1497-1506 中宗反正後、賜死
次男 昌寧大君/李誠 1500-1506 中宗反正後、賜死

燕山君は子どもたちを可愛がりましたが、とりわけ長女・徽慎公主への寵愛は格別で、婚姻の際には広大な邸宅を与えました。

しかし中宗反正により離縁の上、家産没収、平民降格の憂き目に遭い、幼い二人の王子も報復を恐れられて賜死となりました。

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廃妃慎氏の生涯

1476年、慎承善の娘として生まれた廃妃慎氏は、1488年、即位前の燕山君と婚姻し世子嬪となりました。当時13歳でした。

世子嬪から王妃へ

1494年に成宗が亡くなると、燕山君が第10代王として即位、廃妃慎氏は19歳で王妃に冊封されました。その後、王子を出産しますが、幼くして亡くなる子もいたとされます。

甲子士禍|残虐な粛清

1502年、父の慎承善が亡くなり、1504年、朝鮮史上、最も残虐な甲子士禍が勃発します。燕山君が亡き母・尹氏の毒殺にかかわった人物を皆殺しにしたのです。

この時期における廃妃慎氏の具体的な言動を伝える記録は、実録では確認できません。

中宗反正と廃位

燕山君の独裁は長くは続きませんでした。

1506年9月、中宗反正により燕山君は廃位され、廃妃慎氏も王妃を廃されました。二人の王子は同年に賜死となったことが「中宗実録」に記録されています。

燕山君の死

1506年11月、燕山君が流刑先の江華島で病死しました。臨終の際に、遺言はなく、ただ廃妃慎氏に会うことを望んだと記録されています。

晩年と最後

廃妃慎氏はその後、漢陽で生活し、1537年4月8日に62歳で死去しました。

燕山君の墓は1513年に現在の場所へ移葬されており、廃妃慎氏はその隣に埋葬されています。

まとめ

廃妃慎氏は残虐な暴君として知られる燕山君の王妃でした。しかし、流刑地で最期を迎えた燕山君は「ただ王妃に会いたい」とだけ言い残したと「中宗実録」は記しています。すべてを失った末にその名を呼んだことは、廃妃慎氏が燕山君にとって特別な存在であったことを示しています。

中宗反正によって夫は廃位され、二人の息子も命を落としました。それでも彼女は連座を免れ、生存を許されます。その後、王妃から廃妃へと立場を変えながらも生き延び、62歳までその生涯を全うしました。

廃妃慎氏は王権の栄光と転落、そして一族の滅亡という現実の中を生き抜いた王妃でした。

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