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朴訔の家系図【史実のパク・ウンは実在した太宗と世宗の忠臣】

悪役のイメージが強い朴訔(パク・ウン)ですが、史実の朴訔はどんな人物だったのか。

朴訔の家系図から詳しく調べてみました。

朴訔(パク・ウン)の家系図

朴訔(パク・ウン)は朴応珠を始祖とする潘南朴氏一族の出身です。

始祖の朴応珠は、全羅南道羅州市潘南面を中心にした高麗末期の豪族であり、新羅の初代国王・朴赫居世(赫居世居西干)の子孫でした。

<朴訔の家系図>

朴訔の家系は以降、文科及第者215人、相臣7人、大提学2人、王妃2人、側室1人を輩出するなど、多くの政治家や学者を輩出する名門一族になります。

仁聖王后は第12代王・仁宗の王妃、懿仁王后は第14代王・宣祖の王妃です。

また、綏嬪朴氏は正祖の側室で第23代王・純祖の生母です。

<二人の王妃を排出した家系>

 

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朴訔(パク・ウン)はどんな人物だったのか?

朴訔(パク・ウン)は6歳で両親を亡くし、孤独に育ちましたが、幼い頃から頭脳明晰だったといいます。

読書好きで、大変勤勉だったと伝えられています。

 

第一次、第二次王子の乱では、太宗を助け戦功をあげました。

そのため、若い頃から太宗が実力を認め、重要なことを討議する時には、必ず朴訔を参加させたといいます。

 

朴訔(パク・ウン)のプロフィール

朴訔(パク・ウン)
字:仰止
号:釣隱
諡号:平度
生年:1370年
没年:1422年
享年:53歳
氏族:潘南朴氏
父:朴尙衷(判典校寺事)
母:韓山李氏(李穀の娘)

 

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朴訔(パク・ウン)の家族

妻の周氏は典法判書・周彦邦の娘で3男4女をもうけました。

関係 名前 備考
周氏 典法判書・周彦邦の娘
長男 朴葵 慶尚道観察使
次男 朴薑 左翼功臣、錦川君
三男 朴萱 慶州府尹
長女 朴氏 府使・尹救の妻
次女 朴氏 上護軍・金潤の妻
三女 朴氏 観察使・李重の妻
四女 朴氏 中枢部判事・魚孝瞻の妻

 

朴訔(パク・ウン)の生涯

1370年、朴訔(パク・ウン)は父・朴尙衷と母・韓山李氏(李穀の娘)の間に生まれました。

 

科拳に合格して官僚の道へ

1378年に、門蔭で崇福都監判官に任命されています。

1385年、進士試に合格、1388年には科拳の大科に丙科で合格して官僚の道を進みます。

1392年に朝鮮が建国されるとの朴訔(パク・ウン)は知錦州事として出仕、その後、左補闕(正六品)に就任しています。

 

王子の乱で功績を上げ、太宗の側近に

第一次王子の乱及び第二次王子の乱では、朴訔は李芳遠を助け戦功を上げます。

その戦功により佐命功臣第三等を与えられました。

 

太宗が即位すると、1401年1月15日、刑曹典書に任命されました。

その後、參知議政府事、兵曹判書、戶曹判書、司憲府大司憲などの要職を歴任していきます。

 

そして、1416年5月25日には、議政府右議政、11月2日には、左議政に任命されています。

朴訔は数々の功績をあげて、太宗の絶対的な信頼を得た側近中の側近となっていました。

 

沈温の獄死

1418年、太宗の外戚排除の企てにより、沈温が濡れ衣を着せられて粛清される事件がおきました。

忠寧大君が世子に冊封される頃から沈温と対立していた朴訔(パク・ウン)はこの事件に深く関与しています。

一説には、沈温が死ぬときに朴訔の親族とは婚姻を結ばぬように遺言を残したと伝えられています。

この事件について詳しく知りたい方は>>沈温の家系図【姜尚仁の獄事で処刑された世宗の義父】をご覧ください。

 

また、世宗が朴訔を「媚びる臣下」と評価したと言われています。

これが真実ならば、朴訔を重用した世宗ですが、心の底では朴訔に対して良い気持ちは持っていなかったのでしょう。

 

集賢殿の領殿事に就任する

心の底で朴訔(パク・ウン)をどう思っていたかは分かりませんが、世宗は朴訔を重用していきます。

1420年3月16日、朴訔は集賢殿の領殿事(正一品)に任命されました。

 

領殿事は集賢殿に新しく新設された官職で、集賢殿のトップの職でした。

世宗が朴訔の能力を高く評価していたことが分かります。

<豆知識>集賢殿とは
集賢殿は高麗から存在した研究機関でしたが、特に決まった職務もありませんでした。世宗は集賢殿に優秀な若手の人材を集めて、王の諮問機関として改変しました。世宗は集賢殿の役目を大幅に拡大して、様々な分野の研究から、王に対する政策の立案まで行う機関としています。集賢殿は世宗の政治の中枢となり、多くの研究成果や優秀な人材がこの集賢殿から生まれました。

 

朴訔(パク・ウン)の晩年

集賢殿の領殿事になった朴訔(パク・ウン)でしたが、病が朴訔を襲いました。

1421年7月10日、医員・楊弘達を朴訔の家に送り、病状を診させた記録が残っています。

 

そして、その年の12月3日、病気が重くなった朴訔は左議政を辞職、自宅で療養することになります。

朴訔の病が重いことを知った世宗は痛く悲しんだといいます。

 

翌年の1422年5月9日、遂に、朴訔は帰らぬ人となります。

享年53歳でした。

 

朴訔の職歴一覧

朴訔(パク・ウン)は1388年に科拳に合格すると多くの官職を歴任しています。

職歴(及び出来事)
1378 門蔭で崇福都監判官になる
1385 (進士試に合格する)
1388 (科拳の大科に丙科で合格する)
權知典敎寺校勘を経て厚德府丞になる
1391 通礼門副使になる
1392 開城府少尹になる
朝鮮の開国時に知錦州事として出仕、その後、左補闕(正六品)になる
1397 司憲侍史になる
1398 (第1次王子の乱、知春州事として李芳遠を助ける)
1399 司憲中丞、判司水監事となり、すぐに知刑曹事となる
1400 (第2次王子の乱、李芳遠を助け、佐命功臣第三等になる)
(李芳遠が王世子に冊封される)
仁寧府左司尹と世子左輔德になった後、通政大夫に昇進し、左散騎常侍になる
8月4日、忠州牧使に出向する
11月13日、李芳遠が第3代王(太宗)になる
1401 1月15日、刑曹典書に任命される
1402 1月20日、江原道觀察使となる
1403 12月11日、承樞府提學になる
1404 (潘城君に冊封さる)
1406 1月25日、全羅道観察使になる
1407 (進香使として燕京に行く)
1408 10月1日、參知議政府事に任命され、司憲府大司憲を兼任する
12月15日、刑曹判書に任命される
1409 2月17日、些細なことで刑曹判書をる罷免される
(2月25日、潘城君になる)
4月19日、提調になる
9月23日、巡禁司の府官になる
12月19日、西北面都巡問使になる
1410 (10月15日、平壤城が完成したことを報告する)
11月1日、知議政府事になる
12月10日、兵曹判書になる
1411 7月20日、再び司憲府大司憲になる
8月23日、戶曹判書になる
12月19日、戶曹判書を辞職する
1413 6月5日、兼判義勇巡禁司事になる
10月22日、参贊議政府事になる
1414 1月28日、参贊議政府事に再任される
2月10日、判義勇巡禁司事を兼務する
8月28日、義禁府提調になる
1415 6月19日、吏曹判書になる
1416 3月16日、判中軍都摠制府事になる
5月25日、議政府右議政になる
11月2日、左議政になる
1417 12月3日、春秋館領事になる
1418 6月7日、世子師になる
8月11日、左議政領經筵事になる
9月9日、太宗が譲位して、世宗が第4代王になる
(12月23日、沈温が濡れ衣を着せられて賜死する)
1420 3月16日、集賢殿の領殿事(正一品)になる
1421 (7月10日、医員・楊弘達が朴訔の病状を診る)
(12月3日、病気が重くなり、左議政を辞職。自宅で療養する)
1422 5月9日、享年53歳で亡くなる

朴訔は太宗の1日前に亡くなっています。

 

まとめ

ドラマでは沈温に濡れ衣を着せた悪者のイメージが強い朴訔ですが、史実の朴訔は太宗の絶大な信頼を得ていた側近でした。

世宗も人間としては分かりませんが、政治家としての能力は高く評価していました。

また、朴訔の家系は王妃の二人を含む、多くの有能な人材を生み出す名門一族になっています。

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