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緑豆の花の実在した日本人【全琫準を撮した日本人写真家は実在した】

緑豆将軍が移送される写真を撮った日本人写真家は実在していました。

日本人写真家の名前は村上天真。

朝鮮在住の写真家でした。

緑豆の花に登場する実在した日本人についてご紹介します。

<紹介する日本人>
・村上天真(むらかみ てんしん)
・大鳥圭介(おおとり けいすけ)
・井上馨(いのうえ かおる)

 

実在した日本人写真家

全琫準が移送される一枚の写真を撮った写真家の村上天真は実在した日本人です。

この写真は1895年2月27日に、ソウルの日本領事館で取り調べを受け全琫準が移送されるときに撮されたものです。

 

どんな経緯で撮影されたのかは定かではありません。

もちろん、客主ジャインが全琫準に写真を薦めたことはフィクションです。

<全琫準の有名な写真>

村上天真は1867年生まれで、本名を村上幸次郎といいます。

1894年に陸軍の写真家として朝鮮に渡り、甲午農民戦争を経験しています。

緑豆将軍の写真もこのときに撮したものと思われます。

 

村上天真は帰国すると新聞記者となり、3年ほど特派写真師として活動しました。

その後、1897年に再び、朝鮮に渡り、写真館の天真堂を開業しています。

皇族の写真も撮影しており、第26代王・高宗の妃である明成皇后も撮影したとも言われています。

 

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実在した日本の外交官

ドラマ「緑豆の花」に登場する実在した外交官は次の二人です。

大鳥圭介(おおとりけいすけ)
井上馨(いのうえかおる)

 

大鳥圭介は学習院長など教育に携わっていましたが、外交官に転じ、1894年6月に朝鮮に赴任しました。

しかし、中々、進まない朝鮮の内政改革に不満を持った日本政府は大鳥圭介を更迭しました。

 

1894年、大鳥圭介の後任として、日本政府は井上馨を朝鮮公使として送りました。

井上馨は日清戦争の終戦1895年8月まで朝鮮公使を努めます。

 

その後、ドラマ「緑豆の花」には登場しませんが、三浦梧楼(みうら ごろう)が後任として、朝鮮公使に赴任しています。

三浦梧楼は閔妃暗殺に関与した人物として事件の責任を取って公使を解任されます。

次に任命された公使は小村壽太郎ですが、このとき、井上馨は小村壽太郎のサポート役として特派大使に任命され、再び、朝鮮に赴任しています。

 

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大鳥圭介はどんな人物

大鳥圭介は兵庫県で村医者の息子として生まれました。

大鳥圭介のプロフィール

父親の影響で医学を学びますが、次第に工学に関心を持ちました。

後に、欧米各国を視察して技術を学び、国のインフラ普及に貢献しました。

また、教育者として学校教育に関わり、外交官としても手腕を発揮するなど多彩な才能を発揮した人でした。

<大鳥圭介のプロフィール>
生年:1833年4月14日
没年:1911年6月15日
享年:78歳
出身地:兵庫県
出身校:閑谷学校、適塾、江川塾
職業:政治家

 

大鳥圭介の生涯

岡山藩の閑谷学校で漢学、適塾で医学、江川塾で西洋砲術などを学びました。

20代のときに勝海舟に工学の能力を認められ、ジョン万次郎に英語を習っています。

 

大鳥圭介は技術・教育関係の役職を歴任した後に、1889年、66歳のときに外交官に転じました。

最初は、駐清国特命全権公使を務め、その後、朝鮮公使として朝鮮に赴任しました。

 

大鳥圭介の経歴一覧

出来事
1833年 村医者の息子として生まれる
閑谷学校で漢学、儒学、漢方医学を学ぶ
1852年 適塾で蘭学と西洋医学を学ぶ
1854年 江戸で、軍学、工学を学ぶ
この頃、勝海舟の知遇を得る
1857年 中浜万次郎(ジョン万次郎)に英語を学ぶ
1867年 歩兵隊長として士官教育を受ける
1868年 陸軍の歩兵奉行(最高幹部)に昇進
1869年 戊辰戦争で軍務局糺問所へ投獄される
1872年 赦免後、明治政府に入る
1874年 欧米を視察
帰国後、技術官僚として殖産興業政策に貢献
1877年 工部大学校(東京大学工学部の前身)の校長
その後、技術・教育関係の役職を歴任する
1889年 外交官に転じる
駐清国特命全権公使に任命される
1893年 朝鮮公使に転じて朝鮮に赴任する
1894年 朝鮮公使を解任される
帰国後、枢密顧問官に転じる
1911年 食道癌のため死去。享年78

 

井上馨はどんな人物

井上馨は長州藩士・井上光亨の次男として生まれました。

井上馨のプロフィール

井上馨は非常に弁が立ち、信念を曲げない気性の人物で、時として癇癪を爆発させる性格だったようです。

度量が広く、小事にこだわらない豪快な人物だったようです。

 

また、大蔵省時代の後輩・渋沢栄一によると

「井上馨は感情的な人で、失敗に対して容赦がなく、人や物事の良いところではなく、悪いところを見る面がある」と評価しています。

<井上馨のプロフィール>
生年:1836年1月16日
没年:1915年9月1日
享年:79歳
出身地:山口県
出身校:明倫館
職業:政治家

 

井上馨の生涯

井上馨は渋沢栄一の先輩として、大蔵省時代に一大プロジェクト「貨幣制度改革」を実施しました。

しかし、井上馨は財政政策で大蔵省から内閣に入った大隈重信と対立します。

大隈重信が強引に大蔵省の予算編成権を内閣に移すと、井上馨と渋沢栄一は抗議する形で辞任しました。

 

井上馨は大蔵省を辞職後、一旦、実業界に身を置きますが、1885年の第1次伊藤内閣で政界に復帰しています。

その後、1894年に大鳥圭介の後任として朝鮮公使として朝鮮に赴任しました。

 

当時、政権を担っていた興宣大院君とは寄りが会わず、高宗を政権に戻しました。

しかし、井上馨が思うように朝鮮政府は動かず、日本に反抗、ロシア寄りに舵を切っていきます。

 

井上馨の経歴一覧

出来事
1836年 井上光亨の次男として生まれる
1851年 藩校明倫館に入学
1855年 長州藩士志道氏(大組250石)の養嗣子となる
1855年 江戸参勤で伊藤博文と出会う
1863年 伊藤博文ら長州人5人でイギリス留学
帰国後、大蔵大輔、参議兼工部卿、外務卿などを歴任
1871年 明治政府では大蔵大輔(現在の財務省事務次官)を務める
1873年 大蔵省を辞職
政界から一時引退した、実業界に転身
1885年 第1次伊藤内閣で外務大臣に就任
1888年 黒田内閣で農商務大臣
1892年 第2次伊藤内閣で内務大臣
1894年 日清戦争が始まると朝鮮特命全権公使となる
1895年 朝鮮特命全権公使を解任
1898年 第3次伊藤内閣で大蔵大臣
1915年 逝去。享年79歳

井上馨は27歳のときに、一大決心をしてイギリスに留学しますが、当時、留学費用は1年間で一人1000両もの金額が必要でした。

莫大な借金をして留学したイギリスですが、留学中に国力の違いを目の当たりにし、開国論に転じるほど衝撃を受けました。

 

まとめ

ドラマ「緑豆の花」に登場する日本人写真家の村上天真は実在する日本人でした。

有名な全琫準の一枚の写真を撮った人物が日本人だったとは驚きです。

 

また、外交官の大鳥圭介と井上馨も実在する人物でした。

二人共、明治維新後の日本で重要な役割を果たした人物ですが、朝鮮では内政改革を日本が思うように進めることができませんでした。

 

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