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緑豆の花の実話とは?隊長ペク・イガンは実在した人物か?

緑豆の花は朝鮮王朝末期の甲午農民戦争をベースに兄弟の絆を描いたドラマです。

甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)の史実とは?

ペク・イガンは実在したのか?

緑豆の花の実話を詳しく調べてみました。

緑豆の花の実話

ペク・イガンについて先に知りたい方は
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甲午農民戦争とは、全羅道古阜郡で全琫準(チョン・ボンジュン)が起こした民乱が全国的に広まった農民の反乱です。

指導者や参加した農民に東学の信者が多いことから東学党の乱とも呼ばれています。

 

全琫準が起こした最初の民乱

全羅道古阜郡(コブグン)の郡主の不正による虐政により、農民がひどく苦しめられていました。

1894年2月15日に我慢の限界を超えた農民は全琫準(チョン・ボンジュン)を指導者として郡庁におしかけます。

 

民乱に集まった数は1000名以上。

1894年(甲午年)陰暦1月10日 古阜反乱

 

農民は郡吏を殺害、横領米を奪還、無実の人を解放、武器を押収して武器庫を破壊するなどの暴動を起こします。

これが、甲午農民戦争のキッカケとなった古阜民乱です。

 

民乱の直前に書かれた連判状の沙鉢通文(サバルトンムン)は現存しており、東学農民革命記念館に保存・展示されています。

詳しくは>>現存する決起の文章「沙鉢通文」

 

古阜民乱から農民戦争へ

全政府が介入して郡主を解任したため、農民軍は一旦解散しました。

しかし、事件調査の名目で派遣された役人が農民の財産を横領するなどの蛮行をはたらきました。

 

そこで、全琫準は孫化中、金開南と蜂起を決意、各地の東学接主に決起訴えました。

1894年4月26日、全琫準は白山に陣をはり、再び、農民は決起します。

 

1894年 陰暦3月21日 第一次蜂起
(白山蜂起)

全琫準が事前に東学の組織を使って手紙を送っていた各地の東学接主も同調しました。

こうして、古阜郡以外でも朝鮮半島南西部を中心に民乱が広がっていきます。

 

農民軍の破竹の勢いと全州の占領

1894年5月14日に遂に、政府軍と農民軍が黄土峴峠で本格的な戦闘を行いました。

黄土峴での戦闘は農民軍の圧勝に終わります。

1894年 陰暦4月10日 黄土峴峠の戦闘

 

農民軍は南下し、茂長、高敞、霊光、咸平、羅州を次々と制圧していきました。

5月27日、これに驚いた政府は最新鋭の部隊を送り、長城郡の黄龍村で農民軍と激突します。

しかし、農民軍はこの戦闘にも圧勝しました。

1894年 陰暦4月23日 長城の戦闘

 

全琫準の呼びかけに応じて形成された農民の軍勢は数万にも及びました。

勢いに乗った農民軍は地方軍や政府軍を撃破して5月31日には全州城に無血入城、道都全州を占領してしまいました。

 

全州和約による農民の勝利

民乱の大きさに驚いた朝廷は直ぐに清に出兵を要請します。

すると、これを聞いた日本は直ぐに朝鮮への派兵を決定します。

朝鮮での内乱を口実に朝鮮侵略を狙っていた日本が朝鮮へ軍隊を派遣したのです。

 

清の軍隊が牙山湾に上陸、日本の軍隊も仁川に上陸して真っ向から対立しました。

1894年6月10日、清と日本の朝鮮侵略と戦場化を恐れた農民軍は政府と弊政改革案を条件に和約を結び兵を引き上げることを提案します。

この和約は全州和約と呼ばれています。

 

1894年 陰暦5月7日 全州和約締結

全州和約締結により、悪質な官吏の処罰や身分の平等などを要求した農民軍の弊政改革案が受け入れられました。

目的を達成した農民軍は全州城から撤退します。

 

執綱所による農民の自治

1894年8月6日に、全琫準と全羅道観察使の金鶴鎮(キム・ハクジン)が全州会談を開催しました。

その会談で二人は弊政改革案を進めるために、全羅道の郡ごとに執綱所を設けることを決定します。

 

1894年 陰暦7月6日 執綱所の設置

「農民のことは農民が決める」農民による行政が始まりました。

 

<豆知識>
執綱所(チプカンソ)とは
全州和約の条件となった弊政改革案を推進するための農民自身による自治機関です。弊政改革案には悪政の官史の処罰、横暴な富豪の厳罰、不良な両班の懲戒、奴婢文章の焼却、農耕地の均等配分などが明記された画期的な内容でした。全州には執綱所の総本部である大都所が設置され、全琫準が各地の執綱所を指揮しました。

こうして、農民軍は借金の取り消し、奴婢文書の焼却、土地の均分などを実現していきました。

 

王宮の占領(甲午倭乱)

一旦、収まった内乱でしたが、清軍と日本軍はとも朝鮮に在留し続けました。

まずは、清を朝鮮から排除したい日本は朝鮮政府へ自主独立を目的とした内政改革の実行を求めました。

 

しかし、清国との関係を重視する朝鮮政府は内政改革の必要性は認めるが、まずは、日本軍が撤退することを要求しました。

思い通りにならない朝鮮政府に対して、遂に日本軍は駐屯地龍山から漢城に侵攻、宮殿を占領してしまいます。

7月23日の午前4時に始まった甲午倭乱(カボウェラン)です。

1894年 陰暦6月21日 甲午倭乱

 

日本軍は景福宮の堅固な城門・迎秋門(ヨンチュムン)を爆破して破壊、宮殿に一気に突入しました。

宮殿を占拠、なんと国王の高宗を実質拘束してしまいます。

 

日清戦争の勃発

日本軍の宮殿占拠の目的は、何としても朝鮮政府から清国を朝鮮から排除して欲しいと言わせることでした。

清軍掃討の大義名分が欲しかったのです。

そこで、日本軍は思い通りにならない高宗を拘束、父親の大院君を担ぎだして新政権を樹立させました。

 

新政権から清軍掃討の大義名分を得た日本軍は7月25日、豊島付近の海域を航行中の清軍艦隊に先制攻撃を仕掛けます。

7月29日には、成歓で清軍と日本軍が初めて陸地での戦闘を交えました。

 

そして、遂に8月1日、日本政府は清に宣戦布告をします。

日清戦争です。

1894年 陰暦6月23日 日清戦争勃発

 

2回目の決起(第二次蜂起)

日本による朝鮮単独占領の危機を感じた全琫準は、今度は日本軍を相手に決起します。

しかし、農民の収穫期や上層部の説得に時間がかかり、全琫準が参禮(サムレ)で蜂起を宣言したのは10月6日でした。

1894年 陰暦9月8日 第二次蜂起を宣言

 

このときには既に、日清戦争は日本軍が有利な状況になっていました。

勢いに乗る日本軍は邪魔な農民軍の討伐に乗り出します。

王室も農民軍を反乱分子、東匪(トンビ)と呼び、攻撃に参加します。

 

1894年11月9日、やっと農民軍の南接と北接の連合軍がノルメ(現在の論山)に集結しました。

南接軍を率いたのは全琫準、北接軍を率いたのが東学の第3代教主・孫秉熙(ソン・ビョンヒ)でした。

1894年 陰暦10月12日 農民軍が論山に集結

 

牛禁峙の大敗北

1894年11月19日に始まった公州の防衛前線である牛禁峙(ウグムチ)での戦いは熾烈を極めました。

牛禁峙の戦いでは2万人に近い農民軍に対して、分断された日本軍はたった100人程度で戦いましたが、12月5日に農民軍は圧倒的な敗北を喫します。

2週間に2度の激戦で 50 回の戦闘を挑みますが、遂に丘を越えることはできませんでした。

農民軍は500人ほどしか生き残らなかったと言われています。

1894年 陰暦11月9日 牛禁峙の大敗

 

近代的な兵器(連射銃)を装備する日本軍に対して、竹やりと火縄銃の農民軍は全く歯が立たなかったのです。

200名に1名で対抗できるほどの戦力差でした。

 

牛禁峙での敗北を機に農民軍は次々と撃破されていきます。

政府軍は掃討作戦を開始、数え切れないほどの人が殺され、民家が焼失しました。

 

緑豆将軍の最後と民乱の鎮圧

牛禁峙の戦いで惨敗した全琫準は再起のために逃走します。

しかし、12月28日、全羅北道淳昌郡に隠れていたところを部下だった金敬天(キム・ギョンチョン)の密告で捕まります。

懸賞金に目がくらんだのです。

 

1895年4月24日、漢城(ソウル)に送られた全琫準は孫華仲(ソン・ファジュン)、崔景善(チェ・ギョンソン)、成斗漢(ソン・ドゥファン)、金徳明(キム・ドクミョン)とともに処刑されてしまいます。

1895年 陰暦3月30日 全琫準処刑

 

圧倒的な勝利に終わった牛禁峠の戦いの後に、日本軍と政府軍は東匪狩りを行い、農民軍の残党は一掃されてしまいます。

こうして、1年以上に渡った甲午農民戦争は鎮圧されました。

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隊長ペク・イガンは実在した人物か

緑豆の花に登場する隊長ペク・イガンは架空の人物です。

もちろん、ペク・イガンの兄のペク・イヒョン、全州旅閣の娘のソン・ジャインも架空の人物です。

実際にあった甲午農民戦争に架空の兄弟を絡ませて物語は作られています。

 

ペク・イガンは両班に憧れるペク家の奴婢に生ませた子供でした。

名前さえ呼ばれず、当時は人間とし扱われない境遇でした。

 

そのペク・イガンが東学の精神である「人は平等」の世界を体験することで、革命の意義を知り農民戦争へとのめり込んでいきます。

まさに、当時の農民の多くの気持ちを代表しているのがペク・イガンなんです。

 

実在した登場人物

緑豆の花は史実をベースとしているので多くの実在した人物が登場しています。

<実在した登場人物>

名前 読み方 備考
全琫準 チョン・ボンジュン 東学党の指導者、通称は緑豆将軍
崔景善 チェ・ギョンソン 全琫準の同志
孫華仲(孫和中) ソン・ファジュン 全琫準の同志
金德明 キム・ドクミョン 全琫準の同志
成斗漢 ソン・ドゥファン 全琫準の同志
金開南 キム・ゲナム 全琫準の同志
宋憙玉 ソン・ヒオク 全琫準の同志
金敬天 キム・ギョンチョン 全琫準の部下(全琫準を密告)
興宣大院君 フンソンテウォングン 高宗の父親
高宗 コジョン 第26代国王
明成皇后 ミョンソンファンフ 高宗の王妃
井上馨 いのうえ かおる 朝鮮公使
大鳥圭介 おおとり けいすけ 朝鮮公使
村上天真 むらかみ てんしん 日本の写真家
金弘集 キム・ホンジプ 朝鮮の内閣総理大臣
洪啓薫 ホン・ゲフン 両湖招討使、訓練隊連隊長
金鶴鎮 キム・ハクジン 全羅道観察使
袁世凱 えん せいがい 朝鮮公使 後の中華民国大総統
丁汝昌 てい じょしょう 清国の提督
崔時亨 チェ・シヒョン 東学2代目教主
孫秉熙 ソン・ビョンヒ 東学3代目教主
金九 キム・グ(キム・チャンス) 後の大韓民国臨時政府の最高指導者

詳しくは>>緑豆の花に登場する実在の人物を紹介 を御覧ください。

 

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緑豆の花の時代背景

ドラマ「緑豆の花」の時代は朝鮮が大きな変革を迎える時代だったといえます。

通常は小さな民乱で終わる農民の反乱が全国規模に拡大していった時代背景には

・東学の思想と全琫準の出現
・朝鮮を狙う清と日本の争い

がありました。

くすぶっていた火種(農民)に、全琫準が火(東学思想)を付け、風(清と日本の争い)が火を全国規模に拡大したのです。

詳しくは>>緑豆の花の時代背景【農民の乱(甲午農民戦争)が起こった時代とは】を御覧ください。

 

全琫準はなぜ緑豆将軍と呼ばれたのか?

ドラマのタイトルが「緑豆の花」で全琫準(チョン・ボンジュン)は緑豆将軍と呼ばれていました。

これは、全琫準が身長152cm程度と小柄だったため緑豆将軍と呼ばれ敬愛されていたと言われています。

また、全琫準の幼名が緑豆だったという説もあります。

 

緑豆将軍の写真

ドラマで全琫準を演じたチェ・ムソンは身長182 cmと大柄でしたが、実在した全琫準は152cmと小柄でした。

それが分かる写真があります。

ドラマの最終話にも登場した全琫準が輿に乗せられて護送されるときの写真です。

<全琫準が護送される写真>

 

ドラマではソン・ジャインが写真を取ることを薦めますが、これはもちろんフィクションです。

史実では、この写真は日本人の写真家・村上天真が撮った写真です。

 

逮捕後の全琫準が1895年2月27日に漢城(ソウル)の日本領事館から護送されるときに撮れれました。

全琫準が輿に乗っているのは、戦闘または逮捕時に右脚に深い傷を負って歩けなかったからです。

 

現存する決起の文章「沙鉢通文」

古阜民乱のときに、作成された沙鉢通文(サバルトンムン)が現存しています。

沙鉢通文は主謀者が分からないよう、どんぶりを伏せて描いた円を中心に参加者の名前を放射状に書かれています。

沙鉢(サバル)とは「どんぶり」のことです。

<現存する沙鉢通文>

沙鉢通文は古阜民乱が起きる直前の1893年11月に、全琫準ら幹部22人が集まって作成されました。

沙鉢通文には
・古阜城を壊して郡守・趙秉甲(チョ・ビョンガプ)を殺害すること
・軍器廠と火薬庫を占領すること
・郡守にへつらい民には貪欲で暴虐な役人どもを懲らしめること
・全州城の全羅監営を陥落させ、ソウルに直ちに向かうこと

という内容が書かれています。

 

緑豆の花のポスターのバックは沙鉢通文に書かれた放射状の名前をイメージしています。

<緑豆の花のポスター>

 

緑豆の花を史実とドラマで比較

緑豆の花がどの程度、実話の甲午農民戦争に基づいて描かれたのか比較検証してみました。

話数は全48話として記載しています。日付は新暦です。

年月日 出来事 話数
<1894年>
2月15日 古阜の民乱 第2話
4月25日 第一次蜂起(白山蜂起) 第10話
5月14日 黄土峴峠での農民軍の勝利 第12話
5月27日 長城郡黄龍村での農民軍の勝利 第15話
6月10日 弊政改革の受け入れた全州講和
執綱所の設置
第23話
7月23日 甲午倭乱(日本軍の景福宮の占領) 第29話
7月25日 日本軍が清に攻撃を開始 第30話
8月1日 日清戦争の勃発 第30話
7月27日 甲午改革(軍国機務処の設置) 第33話
10月6日 第二次蜂起を宣言 第38話
11月17日 南接・北接連合軍が論山に集結 第40話
11月19日 牛禁峙の戦い 第41話
12月28日 逃走していた全琫準が捕まる 第44話
<1895年>
4月24日 全琫準が処刑される 第47話

1894年2月から約1年に渡り起こった農民の乱が、史実にかなり忠実に描かれていることが分かります。
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まとめ

緑豆の花は実話である甲午農民戦争をベースに創作された物語です。

甲午農民戦争に関しては、実在する登場人物も多く、史実に基づいて作られていました。

緑豆の花を見ることで、ほとんど日本人には知られていない韓国侵略への歴史を知ることができます。

 

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