1894年に朝鮮で何故、大規模な農民の乱が起こったのか?
緑豆の花のベースとなった甲午農民戦争が起きた時代背景を調べました。
甲午農民戦争が起きた時代
甲午農民戦争が起きた1894年は朝鮮が動乱の時代を経て大きな変革を迎える時代でした。
安東金氏とそれに続く驪興閔氏による勢道政治(外戚による政治)は王族を力のない飾り物としました。
外戚の一族繁栄のための無駄遣いは、農民にそのツケが回っていきます。
官史の汚職や横暴な農民からの搾取で農民の生活は益々、苦しくなっていきました。
1800年の初頭から始まった勢道政治は90年以上に渡っており、農民の我慢も限界に来ていまいた。
実際に農民の反乱は1810年頃から各地で毎年のように起こっていました。
しかし、1894年の民乱が朝鮮を変革させるほどの大民乱になったのは大きく二つの要因がありました。
その要因とは、
・朝鮮を狙う清と日本の争い
でした。
くすぶっていた火薬(農民)に、全琫準が火(東学思想)を付け、風(清と日本の争い)が火を全国規模に拡大しました。
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民乱の背景~東学の思想と全琫準
東学は1860年に崔済愚が創始した朝鮮で生まれた宗教です。
農民に浸透した東学の思想
キリスト教の西学に対抗して東学と呼ばれ、農民の中に深く浸透しました。
東学の思想は
「人すなわち天、天心すなわち民心」(人乃天、天心即民心)
です。
東学の思想の万民平等の理念は、呪文を唱えるだけで苦しい修行をすることなく、天と人が一体になること。
来世に救いを求めるのではなく、現世の救いであることから農民に広く受け入れられました。
しかし、この万民平等の思想は支配階級を柱とする王族を否定すると考えられました。
その結果、1864年3月に崔済愚は捕らえられ処刑されてしまいます。
民乱のリーダー全琫準
崔済愚を引き継いだのが、ドラマ「緑豆の花」にも登場した第二代教主の崔時亨でした。
そして、崔済愚の教えを受けたのが、同じくドラマに登場する全琫準(チョン・ポンジュン)、孫和中(ソン・ファジュン)、金開男(キムケナム)です。
全琫準、孫和中、金開男は朝鮮政府の武力に対抗した農民の武装化を主張していました。
そして遂に、1894年2月15日、全琫準は農民を統率して古阜郡庁を襲撃します。
古阜の民乱を成功させた全琫準は東学の思想を具現化した民乱のリーダーとなっていきます。
こうして、東学の思想が農民に浸透し、従うべきリーダーが現れたことで局地的な民乱は全国的な民乱へと発展していきました。
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民乱の背景~朝鮮を狙う清と日本
民乱が全国規模に拡大していった背景には朝鮮を狙う清と日本の争いがありました。
朝鮮を大陸進出の足場にしたい日本にとって、朝鮮を従属国とみなす清は邪魔な存在でした。
清と日本の両国が朝鮮を舞台に対抗戦を繰り広げていたのです。
清軍と日本軍による朝鮮侵略と戦場化を恐れた全琫準は朝鮮政府と全州和約を結び、民乱は沈静化しました。
しかし、両軍とも朝鮮に駐留し続け、日本軍が宮殿を占拠する暴挙にでました。
全琫準はこんどは朝鮮国を救うために日本軍を相手に決起しました。
農民を守る農民軍が、国を守る農民軍へと変わっていきました。
緑豆の花の時代の日本
当時、日本政府は大陸への進出の足がかりとして、朝鮮侵略を考えていました。
しかし、中国・清は朝鮮の宗主国として強い影響力を持っていたため、日本と清は互いに牽制し合う状況でした。
1885年に、日本と清は天津条約を結び、朝鮮から日本と清は軍隊を撤退すること、今後出兵するときには相互に通知することが約束されました。
1890年、日本では帝国議会が開かれましたが、清との戦争に備えて軍事費を拡大したい明治の官僚政府に議会が大反対、政治運営が立ち行かない危機的状況になります。
このとき、朝鮮で甲午農民戦争が起こり、朝鮮政府の要請で清の軍隊が朝鮮に出兵する事件が発生しました。
日本政府はこれを国内の政治的な危機打開と朝鮮進出の絶好の機会と考えました。
そこで、これを口実に日本政府は清との開戦に持ち込み、議会の協力を得よう画策します。
そして、1894年、日本政府の思惑通り、議会の協力を得ることに成功、朝鮮を巻き込んだ日清戦争が始まりました。
まとめ
ドラマ「緑豆の花」の時代は朝鮮が大きな変革を迎える時代でした。
その変革の起爆剤となったのが甲午農民戦争でした。
全羅道古阜で起こった小さな民乱が全国規模の民乱に拡大していった時代背景には
「東学の思想と全琫準の出現」と「朝鮮を狙う清と日本の争い」がありました。