幼くして王妃となり、夫・端宗とともに廃位された定順王后。彼女はその後、64年もの間、夫の冥福を祈り続けたと言われます。
この記事では、定順王后の家系図をもとに、人物像、家族関係、そして悲劇の生涯を詳しく解説します。
定順王后の家系図
定順王后(チョンスンワンフ)は、高麗の文臣・宋惟翊を始祖とする名門・礪山宋氏(ヨサンソンシ)の出身です。父方の礪山宋氏、母方の驪興閔氏(ヨフンミンシ)ともに朝鮮を代表する名家に連なりますが、当時の父は下級官職に就く身で、名門の出ながら家柄はすでに振るわなくなっていました。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<定順王后の家系図>
叔母(父の妹)は世宗の八男・永膺大君の正室であり、母・驪興府大夫人は韓明澮の夫人・黄驪府夫人と従姉妹の関係にありました。このように、定順王后の家系は王室・有力臣下双方に深く結びついていました。
父・宋玹寿は豊儲倉副使(従六品)の官職でしたが、結婚後、判敦寧府事(従一品)と昇格します。しかし、後に謀反(端宗復位)に関わったとして処刑。家族は奴婢にされ一族は滅亡しています。
【PR】スポンサーリンク定順王后はどんな王妃だったのか?
定順王后は一途で心優しい王妃として知られています。その誠実な思いは、処刑された夫・端宗を偲び続けた「東望峰の逸話」が物語っています。
諡号:定順王后(チョンスンワンフ)
生年:1440年
没年:1521年6月4日(享年82歳)
在位:1454年1月22日-1455年6月11日
埋葬:思陵
東望峰の逸話の真相
「定順王后が東望峰に登り、流刑された端宗を偲んだ」という逸話には、実際に史料的根拠があります。
英祖実録(英祖47年9月6日条)によれば、王后は「東門外で寧越を望める場所に住みたい」と願い、その地に浄業院が建てられました。英祖はこの話に心を動かされ、自ら「東望峰」と書して岩に刻ませています。
ただし、順天大学タク・ヒョジョン研究教授(2017年)の研究では、この地は本来の浄業院ではなく、廃寺後に尼僧たちが避難していた臨時の分院跡だったと指摘されています。
その後、この史実に伝承や脚色が加わり、「浄業院で尼となった定順王后が毎日、東望峰に登り端宗の冥福を祈った」という物語として語り継がれました。
詳しくはこちら>>定順王后の逸話を史料で検証【東望峰伝説は本当か?】
定順王后の家族
端宗と定順王后の間には子どもはいませんでした。定順王后は3人きょうだいの長女で、弟と妹がいました。また、1457年には父・宋玹寿が「端宗復位を企てた」として処刑されています。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 父 | 宋玹寿 | 1417-1457 | 礪良府院君 |
| 母 | 驪興府大夫人 | 1418-1498 | 驪興閔氏 |
| 弟 | 宋琚 | 不詳 | |
| 妹 | 貞敬夫人 | 不詳 | |
| 夫 | 端宗 | 1441-1457 | 第6代国王 |
| 子女 | なし |
定順王后の生涯
定順王后は幼くして王妃となり、短い結婚生活ののちに宮廷を追われるという波乱の生涯を歩みました。
王妃に冊封される
1440年、定順王后は宋玹寿の娘として生まれました。

<定順王后の生誕地>
1454年1月22日に、15歳で端宗の王妃に冊封されています。しかし、1455年6月、端宗が譲位して上王になると、定順王后は懿徳大妃に封ぜられます。
その後、1457年の「死六臣の変」で端宗復位計画が失敗。端宗は魯山君に降等のうえ流刑となり、定順王后も王妃の地位を失い宮廷を追放されました。
端宗との永遠の別れ
定順王后は寧越の流刑地に向かう端宗を清渓川の永渡橋(ヨンドギョ)で見送ったと伝えられています。

永渡橋という名は、「永遠の別れとなった橋」を意味しています。この時、定順王后は18歳、端宗は17歳でした。
宮廷からの追放と東望峰での祈り
端宗が賜死で亡くなると、定順王后は東大門の外崇仁洞に草ぶきの小さな家を建て、侍女三人と慎ましく暮らしました。
そして、実録にもあるように、哀れに思った王(おそらく成宗)が定順王后の希望通りに、寧越が望める場所に邸宅(浄業院のもと)を造りました。定順王后はこの地に移り住むと、端宗の冥福を祈り続け、1521年7月7日、82歳で亡くなっています。
定順王后の墓「思陵」
1698年、粛宗が端宗の名誉を回復し、定順王后も正式に王妃として復位しました。
定順王后は端宗の姉・敬惠公主の夫・鄭氏の墓域に葬られていましたが、復位後、京畿道南楊州の思陵に改葬されました。

<定順王后が埋葬されている思陵>
思陵という名には「端宗を思う陵」という意味が込められており、定順王后の人柄を表すような質素でたいへん慎ましいお墓です。
まとめ
定順王后と端宗の結婚生活はわずか3年半ほどでした。しかし、18歳で夫と別れた彼女は、その後64年もの間、夫を思い続けました。241年後にようやく二人の名誉が回復され、今も定順王后は「朝鮮王朝最大の悲劇の王妃」として語り継がれています。