この記事でわかること
・興宣君の家系図と王族としての立場
・傍系出身が、なぜ王の父になれたのか
・政治の表舞台に出るまでの努力と裏工作
・興宣大院君としての功績と独裁への道
興宣君(フンソングン)の家系図
興宣君(後の興宣大院君)は第16代王・仁祖の三男の系統で、王位継承からは遠い傍系出身でした。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<興宣君の家系図>
王の系統から外れた家に生まれた父・南延君は貧しい生活を送っていました。
しかし、英祖の孫である恩信君に後継がなく、1816年に父が養子として迎えられたことで家格が回復します。これにより、興宣君にも王位継承の可能性が生まれたのです。
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興宣君は正室・驪興府大夫人との間に2男2女、側室との間に1男1女をもうけました。
興宣君 | ||||
正室 | 驪興府大夫人 | 2男2女 | 長男:李載冕 | 完興君 |
次男 :李㷩 | 第26代王・高宗 | |||
長女 | 趙慶鎬の妻 | |||
次女 | 趙鼎九の妻 | |||
側室 | 李氏 | 1男1女 | 庶子:李載先 | 興宣君の最初の子 |
庶子:女子 | 李允用の妻 |
正室の驪興府大夫人は閔致久の長女、側室の李氏は李麟九の娘です。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<興宣君の家族の相関図>
【PR】スポンサーリンク興宣君が「王の父」になるまで
当時の朝廷は安東金氏一族が政権を握る「勢道政治」の時代。王族は金氏一族の厳しい監視下に置かれていました。
興宣君は一時、次の王の候補に上がったものの、安東金氏に排除され、その後は堕落したふりをして野心を隠していたと言われています。
彼は、神貞王后に接近したり、安東金氏内部に協力者を得るなどの裏工作によって、「哲宗が亡くなったら次男・命福(高宗)を王にする」という密約を成立させました。
1863年、哲宗が逝去すると、神貞王后は命福を王に即位させ、興宣君は「興宣大院君」として政権の実権を握ることになります。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<高宗の王位継承>
当時、世継ぎが決まってなく、王が亡くなった場合には王族の最年長(神貞王后)に王位継承の決定権があったのです。
興宣君の本名と称号
興宣君の本名は李昰応(イ・ハウン)です。1843年に「興宣君(フンソングン)」の称号を受け、後に息子(高宗)の即位により「大院君(テウォングン)」の尊号が贈られました。
興宣大院君の功績と評価
大院君となった興宣君には、領議政を超える地位と神貞王后の垂簾聴政を補佐する摂政の官職が与えられました。
摂政として強大な権力を手に入れた興宣大院君は、次のような政策を断行しました。
安東金氏一族の粛清
50年以上続いた安東金氏の勢道政治を終わらせ、王権を回復させました。これは国民の支持も得た大改革でした。
書院の整理
権力を振るい私利私欲に走っていた全国800以上の儒学書院を47にまで減らし、朝廷財政を立て直しました。民衆に歓迎される一方、儒者から猛反発を受けます。
カトリックへの大規模な弾圧
1866年、カトリック布教を侵略の一歩と見なしてフランス人宣教師9名と信者約8000人を処刑(丙寅教獄)。これがフランスとの戦争(丙寅洋擾)を招くことになります。
諸外国との交戦と鎖国
フランス軍やアメリカ軍との戦争(辛未洋擾)に勝利し、これを機に鎖国政策とカトリック弾圧を一層強化していきました。
その後の興宣大院君
当初は民と王権のための改革者でしたが、次第に独断的な姿勢が目立ち始め、独裁的な政治へと傾いていきます。
さらに、後に高宗の妃・明成皇后との確執が激化し、王妃派との政争や報復合戦を繰り返すようになりました。
最終的に、明成皇后との政争に敗れた興宣大院君は、ついに政治の実権を失い、その晩年を静かに過ごすことになります。
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まとめ
王位とは無縁だった興宣君は、時代の力関係を読み、家族や政治的絆を巧みに操って「王の父」へと上り詰めました。
その改革は一時的に王権と国家を立て直しましたが、独裁と報復による暴政が後に朝鮮王朝の終焉を早めたとも言われています。
王権復活の立役者であり、独裁の象徴でもある興宣大院君はまさに功罪相半ばする人物といえるでしょう。