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貞熹王后の家系図【朝鮮で初の垂簾聴政を行った大妃】

貞熹王后が癸酉靖難の決行時に躊躇する夫に鎧を着せて決意させた話は有名です。朝鮮で初の垂簾聴政を行った貞熹王后とはどんな女性だったのか。

この記事では、貞熹王后の家系図から彼女の人物像、家族関係、そして波乱の生涯を詳しく解説します。

貞熹王后の家系図

貞熹王后(チョンヒワンフ)は、朝鮮王朝第7代王・世祖の王妃であり、第8代王・睿宗の母として知られています。彼女は高麗開国の功臣だった尹莘達を始祖とする朝鮮を代表する名門・坡平尹氏の出自です。

貞熹王后の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<貞熹王后の家系図>

多くの王妃を輩出した家系

坡平尹氏は4人の王妃と1人の側室を輩出した名門の家系です。成宗の王妃で廃位された廃妃尹氏も坡平尹氏から分派した咸安尹氏一族の出身でした。

名前 正室/側室 国王 父親
貞熹王后 正室 第7代世祖 尹璠
貞顯王后 正室(3番目) 第9代成宗 尹壕
章敬王后 正室(2番目) 第11代中宗 尹汝弼
文定王后 正室(3番目) 第11代中宗 尹之任
淑嬪尹氏 側室 第12代仁宗 尹元亮
多くの王妃を輩出した坡平尹氏の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<多くの王妃を輩出した坡平尹氏>

特に15世紀後半から16世紀にかけて、尹氏一族は後宮や朝廷を実質的に主導し、「外戚政治」と呼ばれる時代を築きました。

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貞熹王后はどんな王妃だったのか?

貞熹王后は「聡明で気丈」と評される一方で、政治的な手腕にも優れた女性でした。

夫・世祖の治世では、王を支え王権の安定に大きく貢献し、孫の成宗が即位した際には、幼い王に代わって垂簾聴政を行い、国政を安定へと導きました。

国家を安定させた賢母

「成宗実録」は、貞熹王后を「宋の宣仁后のように、幼い王を補佐し、国家を安定させた賢母后である(成宗14年4月1日条)」と最大級の言葉で称えています。

宋の宣仁后とは、北宋の英宗の正妃で、夫の死後に幼い神宗と孫の哲宗を後見し、国を安定に導いた女性です。貞熹王后はまさにその宣仁后に比すべき存在として、朝鮮王朝史上まれに見る賢后として高く評価されています。

貞熹王后プロフィール

生年:1418年11月11日
没年:1483年3月30日(享年66歳)
本貫:坡平尹氏
埋葬:光陵(京機道南楊州市)
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貞熹王后は本当に文字が読めなかったのか?

ドラマでは貞熹王后が文字を読めない姿が描かれますが、史実でも彼女は自ら「文字が読めない」と述べています。これは、睿宗の死後に成宗を擁立する際、臣下から政務への参加を求められたときの発言として「成宗実録」に記録されています。

且予不解文字, 難於聽斷。嗣君母粹嬪解文, 又識事理, 可以當之。
<成宗実録:成宗即位年11月28日(1469年)>

<訳>私は文字が読めず、政務の判断を下すのは難しい。嗣君(成宗)の母である粹嬪(後のインス大妃)は文字を理解し、また物事の道理にも通じているので、彼女が適任です。

しかし、彼女は決して無学ではなく政務を行う知識と実力はあり、臣下は貞熹王后が文字を読み書きできないこは承知の上でした。実際にこの後、貞熹王后は垂簾聴政を行い、文字を介さずとも報告・進言・諮問を受け、的確に国政上の判断を下していきました。

初めて垂簾聴政を行った大王大妃

貞熹王后が政治の主導権を握り、朝廷を掌握していく様子は、成宗即位当時の「成宗実録」に明確に記されています。

「命予纉緖、固辭不捕、遂卽大位」
(成宗実録:即位年11月28日条)

<訳>私は王室の系譜が途絶えぬよう補佐する役目を命じられた。辞退しようとしたが許されず、ついに大王大妃の位に就くこととなった。

このあと、貞熹王后は罪人を赦す「赦免令」を出し、官僚の昇進や復職を命じるなど、即位直後から垂簾聴政によって政治を主導しました。

後に史官は、このとき貞熹王后が 後継者争いで揺れる国を救い、成宗を王位に就けて国家の混乱を防いだ と高く評価しています(『成宗実録』14年4月1日条)。

<豆知識>垂簾聴政とは
幼い王に代わって、政治を仕切ることです。儒教により朝廷に女が入ることは好ましくないため、王の後ろに簾を掛けて大王大妃が座りました。垂簾聴政」と呼ばれる所以です。実際には、朝廷の議論には参加せず、議論の結果を最終的に決定することが役割でした。

貞熹王后の家族

貞熹王后は尹璠と興寧府大夫人との間に3男7女の末娘として生まれました。

当初、世祖の花嫁候補は姉でしたが、貞熹王后の方が訪れた宮廷の使者の目に留まったと言われています。世祖との間には、2男1女の子供をもうけました。

貞熹王后の両親と兄弟姉妹

関係 名前 生年-没年 備考
尹璠 1384-1448 判中樞府事
興寧府大夫人 1383-1456 仁川李氏
尹士昐 1401-1471 坡城君
尹士昀 1409-1461 工曹判書 鈴平君
尹士昕 1422-1485 領敦寧
6人の姉 (省略)

貞熹王后の夫と子どもたち

夫の世祖が亡くなると、長男の息子・月山大君はまだ幼いとして次男・海陽大君を王として即位させています。

関係 名前 生年-没年 備考
世祖 1417-1468 第7代国王
本人 貞熹王后 1418-1483 慈聖大王大妃
長男 桃源君(李暲) 1438-1457 懿敬世子(追尊: 徳宗)
長女 懿淑公主 1442-1477 鄭顕祖の正室
次男 海陽大君 1450-1469 第8代王睿宗

貞熹王后の生涯

貞熹王后の生涯を一覧に整理しました。

年齢 出来事
1418 1 尹璠の娘として江原道で生まれる
1428 11 世宗の次男・首陽大君(世祖)と結婚
1452 35 癸酉靖難が起こる
1455 38 首陽大君が即位。王妃となる
1457 40 長男の桃源君(懿敬世子)が病死
1468 51 世祖が逝去。睿宗が即位。大王大妃となる
1469 52 睿宗が病死。成宗が即位。垂簾聴政を行う
1470 53 長男の桃源君の次男・乽山君を国王に即位(成宗)させる
1476 59 成宗の親政開始。摂政を退く
1483 66 逝去(享年66歳)

貞熹王后が登場するドラマ

ドラマ「インス大妃」では、政治の実権を握った貞熹王后が、息子の嫁であるインス大妃と対立する姿が描かれています。しかし、史実ではそのような「嫁姑の対立」は確認されず、ドラマ的な脚色と考えられます。

<登場する主なドラマ>
王と私(2007年、ヤン・ミギョン)
王女の男(2011年、キム・ソラ)
インス大妃(2011年、キム・ミスク)

( )の名前は演じた女優

まとめ

貞熹王后は、名門・坡平尹氏の出身で世祖を支えた後、孫・成宗の即位を主導し、朝鮮王朝初の垂簾聴政を行った王妃です。幼い王を補佐しながらも、国政を的確に判断し、混乱しかけた王位継承を安定へと導きました。

その聡明さと慈しみ深い人柄は後世まで語り継がれ、「宋の宣仁后に比する賢后」として実録に記されています。

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