朝鮮王朝実録に記録されたチャングムの実話とドラマの違いは?
この記事では、中宗実録に記録されたチャングムの史実を丁寧に紹介。史実とドラマの違いを詳しく解説します。
中宗実録で知るチャングムの実話
年代順にチャングムが記録されている箇所を紹介します。ドラマでは描かれなかった功績や王の信頼の様子が見えてきます。
中宗実録でのチャングムの記録一覧
まず、チャングムが登場する10箇所の記録を一覧表でご紹介します。
| 年代 | 記録内容 | ドラマでの描写 |
| 中宗10年3月21日 | 王妃の出産に関与 | ドラマ未描写 |
| 中宗10年3月22日 | 産後の対応が問題視 | ドラマ未描写 |
| 中宗17年9月5日 | 大妃の看病で褒美 | シンビと共に看病 |
| 中宗19年12月15日 | 大長今の称号を得る | 主治医任命の設定 |
| 中宗28年12月2日 | 褒美を受ける | 功績が描かれる |
| 中宗39年1月29日 | 薬事議論に参加 | ドラマ未描写 |
| 中宗39年2月9日 | 米・豆の褒美 | オープニング曲に登場 |
| 中宗39年10月25日 | 王の病状報告 | 王の看病を描く |
| 中宗39年10月26日 | 余の病状は女医のみ知る | 王の信頼として描く |
| 中宗39年10月29日 | 王の回復を報告 | 王の病床に付き添う |
チャングムの名が初めて登場~中宗実録10年3月21日~
チャングムは章敬王后のお産に立ち会った際に初めて実録に登場します。
少し長くなりますが、原文をご紹介します。
<原文>
且醫女長今, 護産有功, 當受大賞, 厥終有大故, 故未蒙顯賞。今縱不能行賞, 亦不可決杖, 故命贖杖, 此, 酌其兩端, 而定罪之意也。餘皆不允。”
<引用元:中宗実録10年3月21日>
医女・長今(チャングム)は王妃の出産を助けた功績があったが、王妃の死により褒美は与えられなかった。ただ罪にも問えないとして、中宗は情状を酌み、杖刑を免じて罰金で済ませた。
<解説>
医女チャングム(長今)は、章敬王后の出産を手伝った功績で称えられました。しかし、王后は3月10日に王子を出産したものの、わずか6日後の16日深夜に亡くなってしまいます。
このとき生まれた王子が、のちに中宗の後を継ぐ第12代王・仁宗です。世継ぎ誕生は国を挙げての慶事であり、王后を看取ったチャングムには褒美を与えることも、重罪に問うこともできなかったと記録にあります。
なお、この出来事はドラマには描かれていません。
【PR】スポンサーリンクチャングムの特別な信頼を示す記録~中宗実録10年3月22日~
翌日にも、同様の問題について記録されています。
(以下、実際の原文は省略します)
官僚たちは「医女・長今(チャングム)の罪は河宗海(ハ・ジョン)ヘより重く、王妃の死を招いた」と非難し、罰金処分を不当と訴えたが、中宗はその主張をすべて退けた。<中宗実録10年3月21日>
<解説>
チャングムは王后の出産後に御前へ仕えたことを問題視されました。出産は「血」に関わるため不浄とされ、一定期間、王に近づくことは禁じられていたのです。
その行為が王后の死につながる大事の一因とされましたが、中宗は「過ちはあれど大罪ではない」として彼女を弁護。杖刑を減刑して罰金刑としました。
この史実は「中宗に信頼された女医」としての証を示す一件といえます。
大妃の看病で褒美を受けるチャングム~中宗実録17年9月5日~
大妃(中宗の母親・貞顕王后)をチャングムが看病して褒美をもらっています。
大妃殿の病状が快方に向かったので、王は薬房(医療部署)の関係者たちに褒美を与えた。・・・医女・信非(シンビ)と長今(チャングム)にはそれぞれ米十石を与えた。<中宗実録17年9月5日>
<解説>
王にとって母親はとっても大事な存在です。そんな大事な人の病気を治療したことで、中宗のチャングムに対する信頼は益々厚くなりました。
また、ここにドラマに登場するチャングムの同期・シンビの名前が出てきています。
「大長今」の称号が登場~中宗実録19年12月15日~
チャングムに王の病を見る全権が与えられたことを知ることができます。
医女の大長今(テ・チャングム)は医術がほかの医女よりも優れていたため、特に大内(王や王妃の寝殿)への出入りを許され、王や王族の診察にあたっていた。薬の処方はすべて大長今に任された。<中宗19年12月15日>
<解説>
この記録で初めて、長今(チャングム)の名に「大」が付けられ、大長今(テ・チャングム)と称されます。この称号は、医術の卓越さと王からの高い信頼を示すものです。脚本家はこの記述をもとに、チャングムが王の主治医になったと解釈しました。
ドラマでは中宗がミン・ジョンホの願いを聞き入れ、チャングムに「大長今」の称号を授けて主治医に任命します。韓国のタイトル「大長今」はこの史実に由来しています。
次々と功績を上げるチャングム~中宗実録28~39年
実録には、次々と功績を上げるチャングムついての記録が「大長今」の名で記されています。この時代の医女が尊敬の念を持って、語られるのはやはり、中宗が全幅の信頼を寄せていた証拠です。
医女の大長今(テ・チャングム)と戒今(ケグム)には、それぞれ米十五石、官木綿および正布(官給の絹布)十匹ずつを与えた。<中宗28年12年2月11日>
王の指示で、医員のパク・セギョ、ホン・シム、および内医女の大長今(テ・チャングム)、銀非(ウンビ)らが薬のことについて協議した。<中宗39年1月29日>
医女の大長今には米五石、銀非には米三石が与えられた。<中宗39年2月9日>
<解説>
チャングムに米や豆が褒美として与えられたことなどが記録されています。また、ドラマに出てくる先輩医女の銀非(ウンビ)の名前も見られます。
ドラマのオープニングで使われた実録
中宗実録39年2月9日の次の記録は、ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」のオープニングに流れる曲の背景に表れる朝鮮王朝実録に使われています。

病床の王に付き添うチャングム~中宗実録39年10月25日~
中宗は11月15日に亡くなりますが、チャングムは最後まで王のそばに付き添っていました。
医女の長今(チャングム)が申し上げた。「昨夜、陛下は三更(午前0時頃)にお休みになり、五更(午前2時頃)にも再びお休みになられました。小便は通じましたが、大便はすでに三日間通じておりません。<中宗39年10月25日>
<解説>
チャングムは中宗の病状を医官に伝える重要な役目を担っており、そのため常に王の病床に付き添っていたと考えられます。その姿からも、彼女が中宗から深い信頼を寄せられていたことがうかがえます。
余の病状はチャングムだけが知っている~中宗実録39年10月26日~
10月26日の記述には、有名な言葉「予の証しは、女医之を知る」が記されています。
余の病状は、女医だけが知っている。<中宗39年10月26日>
<解説>
これは、余の病状は医女(チャングム)だけが知っていると中宗が言ったとされており、チャングムが中宗から絶対的な信頼を得ていた証拠と言われています。
チャングムの最後の登場~中宗実録39年10月29日~
チャングム(長今)の名前が中宗実録に登場するの最後の部分です。
朝、医女の長今(チャングム)が内殿から出て申し上げた。「下気(下痢・排泄の便)が通じ始め、非常に快適でございます。」
<解説>
長今(チャングム)の名が登場する最後の記録です。しかし、実際には11月に入ってからも医女が王の病状を報告する記録があり、それまでの文脈から判断して医女はチャングムと考えられます。
13日には王の病気が深刻となり、15日には危篤であることが医女から伝えられます。そして、11月15日の深夜、中宗は亡くなります。
実話から創作されたドラマの最後
本来、王がなくなると主治医は治せなかった罪で処罰されますが、その記録が中宗実録にはありません。このことが、ドラマのラストシーンのヒントになったとされています。
ドラマでは中宗とチャングムのラブストーリーとなり、死が迫った中宗がチャングムをミン・ジョンホのもとに逃がすというストーリーが創作されました。
なお、ドラマ制作に関するエピソードはこちら>>【制作秘話】医女チャングムは何故、料理人になったのか
まとめ
中宗実録に記録されたチャングムの記録はたったの10箇所ですが、この10箇所の史実から、あの名作「宮廷女官チャングムの誓い」が考え出されたとは驚きです。
しかし、一つ一つの記録を丁寧に読み解くことで、ドラマ制作の背景と物語を深く理解することができます。
本記事がチャングムの実話とドラマとの繋がりを考えてみる参考になれば幸いです。