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善徳女王の家系図を徹底解説【女王の特異性と歴史的役割】

善徳女王は朝鮮半島で初めての女性の王として知られています。

家系図を紐解くと、その背後に驚きの事実が見えてきます。

本記事では、善徳女王の家系図を中心に、彼女の特異性と歴史的役割を詳しく解説します。

家系図に関連する驚きの事実

善徳女王の複雑な家系図

<善徳女王の家系図>

632年に真平王が亡くなって、王位を継承したのが善徳女王です。

善徳女王の生年は不明ですが、このとき、45歳前後ではなかったかと推定されます。

聖骨制度による複雑な家系図

新羅の王位継承には新羅独自の制度である聖骨(ソンゴル)制度がありました。

父母ともに国王の血を引く王族を「聖骨」、それ以外の王族を「真骨(チンゴル)」と称していました。

純血の「聖骨」であることが、新羅王を継承する絶対的な条件でした。

王族は特別に選ばれた存在として徹底した近親婚によって自分たちの血統を守っていたのです。

その結果、善徳女王の家系図は網の目のように驚くほど複雑な系図になっています。

聖骨制度が生み出した初の女性王

三国史記では王に男の子供がなかったこと、三国遺事では聖骨の男が盡(つ)きたことを女王擁立の理由としています。

家系図を見ると、確かに真平王には男子はいませんが、王位継承可能な聖骨の男子としては王の弟の国飯と伯飯、真智王の息子の金龍春と金龍樹、そして、孫の金春秋がいました。

しかし、真平王の在位が53年であったことから国飯と伯飯はすでに他界または、高齢であった可能性が高く、金龍春と金龍樹は廃位された王の息子で、新羅王の血を引く正統な王位継承者は女性である善徳女王しかいなかったと思われます。

どの国の王族の家系を見ても、女性が王を継承した例はありませんが、新羅独特の聖骨制度が女性君主という他国に例を見ない異例の地位を作り上げたのです。

今では信じられない3人の夫

新羅の王制を維持するためには、「聖骨」の王位継承者を維持することが火急の課題でした。

そのため、善徳女王に息子を生んでもらうことが避けて通れぬ国家の要望でしたが、最初の夫であった龍春との間には子供は生まれませんでした。

そこで、大臣たちは新たな方法を模索し、驚くべき案を打ち出しました。

「三婿制」です。

この制度のもとで、欽飯と乙祭が徳曼の夫として迎えられることとなり、善徳女王は三人の夫を持つ女王となったのです。

家系図から見える善徳女王の仏教政策

善徳女王の先祖にあたる法興王は正式に仏教を認めた王でした。

父方も母方も法興王の祖先にあたる善徳女王の家系は仏教に深い信仰を持っていたと考えられます。

特に、善徳女王の母の摩耶夫人の名前の「馬耶」はお釈迦まさの母親の名前から頂いた名前でした。

彼女が国を治める政策として、仏教信仰を強く推進した理由は、幼い頃から植え付けられた仏教信仰にあったのです。

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女王を誕生させた女性としての特異性

善徳女王が誕生した背景には聖骨制度がありましたが、王として認められるには、民や国人を納得させるだけの「王としての資質」が必要でした。

彼女が女性である故に人々を納得させた理由は類まれな予知能力でした。

記録に残るエピソードとしては、唐からの贈答品である牡丹の絵や蛙の鳴き声、自らの死去する年月を予知した話が有名で、「三国史記」や「三国遺事」に記述されています。

こうした予知能力を持った女性というミステリアスな特異性が、人々に「普通の人とは違う特別な存在」と認めさせ、初の女性王を誕生させたのです。

また、「三国史記」では、新羅の初代王・赫居世とその妃・閼英夫人を二聖と称するなど、この時代の女性は男性に引けを取らない存在でした。

このように新羅の女性の社会的地位が十分に高かったことが、善徳女王の特異性を神聖な能力と認めたのです。

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善徳女王の歴史的意義

善徳女王は16年に渡り国王を務め、女性でも王が務まるという前例を作りました。

特に、彼女が領土拡大よりも内政に注力して国力を高めたことは、後の三国統一の大きな基盤となっています。

毗曇の乱はありましたが、こうした業績により後継者選びの争いもなく、聖骨である真徳女王へ王位がスムーズに継承されました。

そして、真徳女王の在位中には、金春秋が外交での功績を積み、次期王としての実績を着実に上げています。

金春秋(武烈王)とその息子(文武王)で成し遂げた三国統一ですが、その偉業のスタートは善徳女王の時代だったといえます。

善徳女王と家族の関係

善徳女王には3人の夫がいましたが、子供を授かることはありませんでした。

善徳女王の家族

善徳女王に3人の夫がいたことは、「花郎世紀」に記録されています。

最初の夫は真智王の息子の龍春でしたが、徳曼が王になるときに、跡継ができないことを理由に女王の夫になることを辞退したといいます。

そこで、選ばれたのが真興王の孫にあたる欽飯(フムパン)と上大等の乙祭(ウルジェ)でした。

<善徳女王の家族構成>

関係 名前 読み方 備考
女王 善徳女王 ソンドクニョワン 第27代国王
正公爵 龍春 ヨンチュン 天明王女の夫の弟
副公爵 欽飯 フムパン 真興王の孫
乙祭 ウルジェ 上大等(大臣)
子女 なし

双子の姉妹はドラマの創作

ドラマ「善徳女王」では、善徳女王と天明公主は双子の姉妹ですが、これはドラマの創作です。

善徳女王は三国史記では長女と記録されていますが、三国遺事と花郎世記では次女と記録されています。

いずれが正しいかは分かりませんが、善徳女王が双子の姉妹でなかったことは間違いありません。

また、三国遺事には三女として善花公主(ソンファコンジュ)が登場しますが、真実は明らかではありません。

証明する史料がないのが現状です。

善徳女王はどんな女王だったのか

温和で消極的な性格の姉妹・天明王女と比較して、徳曼王女は寛容で仁徳があり、頭脳明晰で俊敏であったといいます。

<プロフィール>
新羅第27代王
生年:586年(推定)
没年:647年
享年:62歳(推定)
在位:632年-647年
姓:金
諱:徳曼
父:真平王(第26代王)
母:摩耶夫人

大邱市にある善徳女王を祀った符仁寺では女王を敬い慕い、その功績を称えて、毎年「崇慕祭」が行われています。

1000年以上続く祭祀は、善徳女王が民衆のために死力を尽くした国王であったことの証であるといえます。

善徳女王が新羅に残した遺産|仏教振興と政治的業績

善徳女王は従来の領土拡大ではなく、女性ならではの方法で王室基盤の強化と新羅の安定と統一を推進しました。

仏教の振興と普及を図る

善徳女王は権力で国を治めるのではなく、仏教の力をかりて国の復興と民の忠誠心を求めました。

これは父・真平王が推し進めてきた仏教振興政策を引き継ぐものでもありました。

彼女は部族の集合体であった神話の国から、仏教により国民の王家崇拝を図り、王を中心とした中央集権国家を築いていくことを推進しました。

仏教による経済の活性化

善徳女王は仏教で王室の権威を高め、民の拠り所を作って国を平和にすることを最優先に取り組みました。

しかし、仏教振興政策により次々と寺院を建設した背景には、寺院の周辺に市場を形成して経済を発展させる目論見があったと考えられます。

その効果は、日本の有名な神社仏閣の周囲の街に多くの人々が集まり、賑わっている風景を見れば明らかです。

善徳女王は薫り高き女王の寺と言われる芬皇寺や蛙の鳴き声のエピソードで有名な霊廟寺、新羅最大の建築物となる皇龍寺九層木塔などを建て、新羅の仏教建築の全盛期を築きました。

仏教による軍事力の強化

善徳女王が多くの寺院を建設したもう一つの理由は寺院を守る僧軍を拡大するためでした。

僧軍は寺院を暴徒から守るだけでなく、国の非常時には正規軍に編入され、国防軍として役割を果たしました。

善徳女王は国の軍備を効率よく拡充にするために、仏教を利用したとも言われています。

善徳女王の政治的業績

善徳女王が仏教の振興以外にも多くの業績を残しています。

天文台「瞻星台」の建設

瞻星台(チョムソンデ)は、現存する世界最古の天文台の一つです。

星を観測し農業や季節の変化を管理するために使われ、国家の農業政策や気象管理に大きく貢献しました。

隋や唐との外交強化

善徳女王は隋・唐との外交関係を重視、朝貢を通じて中国文化の導入を推進し、新羅の社会基盤を強化しました。

隣国との商業的、文化的交流は侵攻の脅威に対する防御の意味もありました。

民心の安定を図る

善徳女王は常に、民衆の安定と平和に気を配っていました。

民衆が干ばつで苦しんだときには、自ら雨乞いの儀式を指揮したことや、彼女が「月の形を彫刻した石」を設置し、水不足の問題を緩和した逸話も有名です。

まとめ

善徳女王は、朝鮮半島初の女王としてその名を歴史に残しました。

彼女の家系図からは、王権を巡る新羅独特の聖骨制度や複雑な政治背景が浮かび上がりますが、その背景には、王位継承者としての資質と女性特有の類まれな知性と予知能力がありました。

即位後の善徳女王は女性ならではの感性を政治に発揮、仏教振興による経済の活性化や軍事力の強化を計り、国を安定させています。

善徳女王が築いた遺産は、新羅の繁栄を支え、その後の三国統一に大きな影響を与えています。

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