大院君と閔妃の対立はなぜ起こったのか?
この記事では、朝鮮王朝末期を震撼させた二人の政争の真相を詳しく解説します。
大院君と 閔妃との対立とは?|朝鮮を震撼させた確執
朝鮮王朝末期、二人の強烈な政治的存在がぶつかりました。
それが、興宣大院君(以下、大院君)と高宗の王妃・明成皇后(以下、閔妃)です。
義理の親子の関係でありながら、王権と外戚、改革と保守という政治的立場の違いから深刻な対立に発展し、やがて朝鮮を震撼させた報復合戦へと発展しました。
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大院君は、王位継承とは程遠い傍系の王族でしたが、息子を王にする野望をもっていました。
彼は叔母である神貞王后に近づき親睦を深め、1863年12月に哲宗が亡くなると、次男の命福を即位させることに成功します。
王の父として摂政となった大院君は、安東金氏一族を排除、勢道政治を終わらせます。
その後、大院君は重要な政治的決断を次々とくだし、独裁者と言える絶対的な地位を確立していきました。
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外戚による勢道政治で辛い経験をした大院君は、親族が政権に関与しないことを絶対条件に、閔致禄の娘を王妃に選びました。
彼女の父はすでに故人で、兄は夫人の実弟(養子)であり、将来の脅威にはならないと判断したのです。
結婚当初、高宗に寵愛されず孤立していた王妃は、宮中の書物を読みあさり、知識を蓄積していきました。
また、大院君の政治を観察する中で行政力を身につけるなど、逆境の中で、閔妃の政治手腕は磨かれていきました。
王妃が対立へ向かった理由
宮廷内での発言力を高めていった閔妃が、遂に、義父に牙をむきました。
キッカケは、高宗が寵愛する李尚宮との間に子供をもうけたことでした。大院君がその子供を寵愛し始めたのです。
まだ、子供が生まれない王妃にとって、側室の子が寵愛されるのは、この上ない脅威でした。
ここから、義父である大院君との対立が始まります。
大院君 vs 閔妃|報復の連鎖と歴史的大事件
報復合戦のキッカケは明成皇后の母親と義理の兄が送られてきた爆弾により爆死した事件でした。
両者の争いは、単なる内部争いにとどまらず、政変、外国勢力の介入、王宮の襲撃、そして王妃の暗殺にまで発展します。
以下に、報復合戦の主な出来事をまとめます。
年月 | 明成皇后側 | 興宣大院君側 |
1874年11月 | 義兄・閔升鎬と母親が爆死 | |
1873年11月 | 癸酉政変(大院君失脚、高宗の親政) | |
<閔氏一族の勢道政治が始まる> | ||
1873年12月 | 明成皇后の宮殿が爆破される | |
1875年11月 | 大院君の兄・興寅君の家が放火される | |
1880年1月 | 永保堂の息子・完和君が病死 | |
1882年7月 | 壬午事変(明成皇后は昌徳宮から脱出) | |
1882年8月 | 大院君が袁世凱により清に幽閉 | |
1884年12月 | 甲申政変(閔氏一族が殺害される) | |
1892年6月 | 大院君邸が爆破される | |
1895年10月 | 明成皇后が暗殺される |
こうした、報復合戦は1895年10月8日に閔妃が暗殺されるまで続きました。
大院君と閔妃の正式な呼び名
息子が王になると新しい国王の実父に対して贈られる尊号が大院君(テウォングン)です。
正式な呼び名は興宣大院君(フンソンテウォングン)ですが、生前に「大院君」に称されたこと、朝鮮王朝での影響力が大きかったことから、単に「大院君」と呼ばれることもあります。
閔妃の死後の諡号(追贈される称号)は明成皇后です。従って、明成皇后が正式な呼び名ですが、「高宗の閔氏夫人(王妃)」ということで、閔妃と呼ばれています。
まとめ
朝鮮王朝末期、大院君と閔妃の衝突の背景には、王権と外戚勢力の対立がありました。
王妃として政治力を身につけた閔妃と、息子を王に据えた大院君は激しい権力闘争を展開していきます。
やがて、報復の連鎖は閔妃の暗殺という最悪の悲劇で終わりを迎えますが、二人の争いは、国家全体を巻き込み、列強各国の干渉を招き、朝鮮王朝の崩壊へとつながっていきました。