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イソンゲの死因とは?【晩年の生活からお墓まで徹底解説】

イソンゲの死因とは?

イバンウォンと敵対したイソンゲはどんな最後を送ったのか?

晩年の記録から壮大なお墓まで史実に基づき解説します。

イソンゲの死因

イソンゲは74歳で亡くなっています。

太上王薨于別殿
(引用元:太宗実録1408年5月24日)

<訳文>太上王(太祖)が別殿(昌徳宮)で亡くなる

死因の記録はありませんが、実は太祖は1月に、中風(ちゅうぶ)にかかったていました。

上詣德壽宮。太上王暴得風疾。
(引用元:太宗実録1408年1月19日)

<訳文>上(太宗)は徳寿宮を訪れた。太上王(太祖)は急に中風を患った。

中風(ちゅうぶ)とは、脳梗塞または、脳出血などによって起こる、半身不随、手足のまひなどの症状です。

太祖は亡くなる約4か月前に中風を患い、その後、回復した記録がないことから、脳血管疾患(脳梗塞や脳出血)による合併症が死因となった可能性が高いと考えられます。

ただし、当時の医療知識では脳血管障害の診断や死因の特定は非常に難しかったため、正確な死因は明記されていません。

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イソンゲの最後|晩年は仏教に帰依

太祖は1398年に譲位すると、政務からは退き、太上王 として景福宮内の別殿で静かに暮らしました。

彼は晩年、居住していた離宮の近くに小さな仏堂を建てて、仏教への信仰を深めています。

太上王營宮室, 樓北鑿池, 又殿西營別宮, 宮西峯腰構小佛堂。
(引用元:太宗実録1401年9月14日)

<訳文>太上王は宮殿を造営し、楼閣の北に池を掘り、また殿の西に別宮を造営し、宮の西の峰の中腹に小さな仏堂を建てた。

波乱万丈の生涯を振り返り、仏教に帰依して、静かに祈る時間を持ちたいと願っていたのかもしれません。

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イソンゲとイバンウォンの確執と和解

イバンウォンが異母弟イ・バンソクを殺害して以降、父イソンゲとの関係は極度に悪化していました。

しかし、父の譲位後、イバンウォンは誕生日や病気を気遣うなど信頼関係を修復しようと努力を重ねています。

晩年、イソンゲの病状が悪化すると、イバンウォンは父のそばで寝泊まりし、自ら食事の世話や薬の服用まで手伝うほどでした。

1408年、イソンゲが亡くなると、イバンウォンはその死を深く嘆き、胸をたたいて号泣したという記録が残っています。

二人が完全に和解したかは不明ですが、イバンウォンが晩年の父を深く敬い、ひとりの息子として真摯に向き合っていたことは、史料からも明らかです。

イソンゲのお墓

イソンゲ(李成桂)のお墓は東九陵(トングルン)にあります。

東九陵には9つの陸があり、総面積は58万坪と実に広く、東京ドーム約40個分に相当する韓国最大規模の王陵です。

景福宮から見て「東側」にあり、「九つ」の陵があることから「東九陵」呼ばれています。場所は京畿道九里市仁倉洞です。

イソンゲが眠る健元陵

イソンゲ(李成桂)のお墓は東九陵の奥にある健元陵(コンウォンルン)です。

東九陵は風水学的には最高の明堂(ミョンダン)と評価されるお墓で、その中でも健元陵は王陸としては一番綺麗な形の陸です。

<豆知識>
明堂(ミョンダン)とは
明堂とは風水学的に吉の場所のことで、代表的な明堂としては生きている人が泊まる陽宅(宮殿)と、死んだ人が眠る陰宅(お墓)があります。明堂として、最高の陽宅(宮殿)が昌徳宮、最高の陰宅(お墓)が東九陵と言われています。

健元陵の特徴

イソンゲ(李成桂)のお墓には、他のお墓にはない特徴があります。

<健元陵の3つの特徴>
・陸の名前が3文字
・陸寝には故郷の土とススキが使われた
・神道碑(シンドビ)がある

こんもりと盛られた陸寝(ヌンチム)にはイソンゲの故郷である咸鏡道咸興(ハンギョンドハムン)の土が使われ、墓には故郷のススキが植えられました。

これは、生前、イソンゲを恨んでいた太宗が唯一、イソンゲの願いをかなえたものでした。

<年に1度行われるすすき刈りの様子>

まとめ

イソンゲ(李成桂)は、晩年は仏教に帰依し、静かな生活を送りました。

1408年、中風を患った記録があり、そのまま病床に伏し、74歳で別殿にて亡くなっていますが、正確な死因は不明です。

故郷をしのぶススキと土で築かれたイソンゲのお墓(健元陵)は、太宗の最後の思いやりでした。

壮麗な東九陵の中でも特に格式の高い健元陵は、王として、そして一人の父としてのイソンゲの人生を物語っているようです。

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