仁祖の次の王は次男の孝宗(鳳林大君)でした。なぜ、長男の息子ではなかったのか?
恨みが生み出した歴史の悲劇を掘り下げます。
仁祖の跡を継いだ孝宗
孝宗は第17代国王として、1649年から1659年まで朝鮮王朝を治めました。
彼は昭顕世子の弟であり、本来なら世子の息子が王位を継ぐのが慣例です。
しかし、仁祖は独断で強引に孝宗を世子に選びました。
この決断は臣下の反対を受けただけでなく、世論の非難も強かったといいます。
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仁祖は清に屈辱的な降伏を強いられたことで深い反清感情を抱いており、清の文化に心酔する昭顕世子夫婦を決して許すことができませんでした。
その恨みと怒りの感情が、後継者選びに決定的な影響を与えたのです。
<昭顕世子の死と仁祖の過激な決断>
年 | 月 | 出来事 |
1645 | 4 | 昭顕世子が亡くなる |
6 | 鳳林大君(孝宗)が世子になる | |
1646 | 3 | 昭顕世子の妻カン氏が死罪 |
3人の息子は流刑になる | ||
1649 | 6 | 鳳林大君が第17代王(孝宗)に即位する |
仁祖は昭顕世子の一族を政治から完全に排除しました。
3人の息子の内2人は流刑地で亡くなっており、生き延びたのはたった一人(石堅)だけでした。
昭顕世子と妻カン氏の名誉が回復されたのは、粛宗の時代になってからのことです。
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孝宗と昭顕世子は兄弟仲が良く、人質として共に清で暮らしました。
ただし、昭顕世子が清に友好的な姿勢を示したのに対し、孝宗は屈辱から強い反抗心を抱くようになり、この違いが後の王位継承や政治姿勢に影響を及ぼしました。
王位に就いた孝宗は、軍事改革を推し進め、北伐(打倒・清)を夢見て準備を整えていきますが、目的を成し遂げることなく、41歳で亡くなりました。
詳しくは>>孝宗の家系図【北伐(清の討伐)に生涯をかけた不遇の国王】
仁祖と孝宗の政治の違い
清に対する屈辱と怒りは同じですが、仁祖と孝宗の政治に対する姿勢は全く反対の方向を示していました。
<仁祖と孝宗の政治姿勢の違い>
比較項目 | 仁祖 | 孝宗 |
内政姿勢 | 保守・自己保身的 | 実務・改革的 |
外交姿勢 | 消極的な親明政策 | 強固な反清政策 |
性格傾向 | 疑り深く優柔不断 | 思慮深く、芯が強い |
よくある質問(FAQ)
- Q:孝宗はなぜ清に人質として送られたの?
A:丙子胡乱で朝鮮が清に降伏した結果、仁祖の息子である昭顕世子と孝宗が人質として清に送られました。 - Q:孝宗の即位に反対はなかったの?
A:臣下の強い反対がありましたが、最終的には仁祖が強引に孝宗を後継者に選びました。 - Q:孝宗は家庭ではどんな人物だったのか?
A:残った記録から、孝宗は大変な愛妻家で優しい父親でした。
まとめ
仁祖の次の王は、長男の息子ではなく次男の孝宗でした。
その背景には、清に心酔する長男・昭顕世子夫婦に対する仁祖の深い確執がありました。
孝宗は即位後、父とは異なる実務的で軍事的な路線を取り、朝鮮王朝の転換期を担った王として高く評価されています。