トンイのクムの師匠であるウナク(雲鶴)のモデルは郭始徵(クァク・シジン)です。
クム(英祖)が後に、名臣であったと言わせた郭始徵はどんな人物だったのでしょうか?
詳しく調べてみました。
一読後に、ウナクの場面をもう一度観ると「なるほど!」と思うことが多々ありますよ。
トンイのウナク(雲鶴)のモデルとは?
トンイに登場するウナク(雲鶴)ことキム・グソンのモデルは郭始徵(クァク・シジン)といわれています。
郭始徵は朝鮮後期の学者で、宋時烈(ソン・シヨル)の弟子でした。
宋時烈が王位継承の問題で流刑になると、郭始徵は官職を離れ、学問に専念して多くの弟子を育てました。
しかし、後に王子師傅(王子の先生)として延礽君の教育を担当しています。
実際に、朝鮮王朝実録の粛宗実録(1708年1月)には郭始徵が王子師傅(王子の先生)であったことが記録されています。
1708年当時の王子は淑嬪崔氏(トンイ)の息子の延礽君か、䄙嬪朴氏の息子の延齢君です。
また、英祖実録(1757年10月)では英祖が「郭始徵が甘盤(中国の王・武丁の名臣)のような人物であった」と述べています。
ちなみに、武丁はこの名臣を傅説(フエツ)と呼んでします。
傅説は名臣の代表としてしばしば取り上げられる伝説の人物です。
このことからも、郭始徵が延礽君の大切な師匠であったと思われます。
この史実が、クムの師匠ウナク(雲鶴)のモデルが郭始徵であるといわれる理由です。
しかし、残念ながら郭始徵に関する詳しい情報は残されていません。
没年:1713年
1694年に官職をやめて、野に下る
1703年に王子師傅を務める
才能がありながら官職に嫌気がさして、野に下り、学問に専念した郭始徵です。
ドラマでは、その人格がクムの師匠のモデルとして十分に生かされています。
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ウナクの師匠・宋時烈(ソン・シヨル)
ウナク(雲鶴)のモデルになった郭始徵(クァク・シジン)の師匠とはどんな人物だったのでしょうか。
ドラマでは56話で、ウナクが延礽君を師匠が眠っているお寺に案内しています。
宋時烈は、1633年に科挙に合格し官僚となり、後の第17代王・孝宗(ヒョジョン)の先生となりました。
孝宗が王に即位すると、その功績から重用され右議政、左議政を歴任しました。
その後、宋時烈は政界を離れて野に下りますが、政界への影響力は大きかったといいます。
1689年に粛宗が張禧嬪の子供を元子(王位継承順位第1位)にしようとすると、異を唱え粛宗の怒りをかって流刑になりました。
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ウナク役を演じたメン・サンフン
ウナク(雲鶴)を演じたメン・サンフンはイ・ビョンフン監督作品の常連です。
イ・ビョンフン監督からは、「ドラマがキチンと仕上がるよいうに手伝ってほしい」と出演を依頼されたようです。
長年の信頼関係から役柄について、監督とは特に話し合うことはしなかったといいます。
そんなメン・サンフンのプロフィールをご紹介します。
生年月日:1960年10月29日
(2025年02月05日現在、64歳)
身長:175cm
血液型:A型
学歴:京畿大学仏文科
奥さん:俳優のムン・ヨンミンの妹
メン・サンフンはイ・ビョンフン監督の常連の一人で、監督の全ての作品に登場します。
役柄の特徴は、その見た目からか主人公を助ける「良い人」がほとんどです。
メン・サンフンはイ・ビョンフン監督作品に安心感を与える、作品に無くてはならない存在です。
・医心伝心~脈あり!恋あり?~
(2017年、ユ・チャンソン)
・オクニョ 運命の女
(2016年、チョン・マッケ)
・馬医(2012年、オ・ジャンバク)
・屋根部屋のプリンス
(2012年、パク・インチョル)
・インス大妃(2011年、キム・チョソン)
・トンイ(2010年、キム・グソン)
・美賊イルジメ伝
(2009年、一枝梅の養父)
・イ・サン(2007年、ナム・サチョ)
・淵蓋蘇文-ヨンゲソムン-
(2006年、ソンチュン)
・薯童謠[ソドンヨ](2005年、ワング)
・チャングムの誓い
(2003年、チョン・ウンベク)
・商道-サンド-(2001年、ファン・デホ)
・ホジュン宮廷医官への道
(1999年、キム・マンギョン)
まとめ
トンイに登場するクムの師匠ウナク(雲鶴)のモデルは郭始徵でした。
詳しく調べると、郭始徵がクム(後の英祖)にとって重要な師匠であったことが分かります。
頭が良く、勉強の好きだった英祖にとって、郭始徵は掛け替えのない先生だったと思われます。