善徳女王の父・真平王はどんな王だったのか?
真平王の家系図から詳しく調べてみました。
真平王の家系図
真平王は第24代真興王の孫であり、第25代真智王は真平王の伯父さんにあたります。
真平王の娘には、朝鮮半島初の女王になる善徳女王と武烈王(金春秋)の母親の天明公主がいました。
<真平王の家系図>
真平王が王位を継いだときは、まだ幼かったため、祖母の思道王后が摂生を行いました。
思道王后は真平王が成人しても、実権を握り続け、長い間、国政の中央に君臨していました。
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真平王はどんな王だったのか?
真平王は体が大きく、強い意思を持った聡明な王だったと言われています。
しかし、長い間、祖母の思道王后に実権を握られていたことから、どことなく優柔不断で決定力のない王のイメージが強いです。
しかし、国内では度々、組織を改正して王権強化を図りました。
外交面では百済、高句麗にしばしば侵略されましたが、隋に朝貢して親交を深め、隋の力を持って外敵を防ぐように務めました。
また、真平王は隋に僧侶を派遣して仏教の普及に務めています。
真平王のプロフィール
真平王は15歳と若くして王になったことから、在位期間は53年と非常い長い王でした。
しかし、跡取りには恵まれず、結局、娘が王位に就くことになります。
真平王
新羅第26代王
生年:565年
没年:632年
在位期間:579年-632年
姓:金
諱:伯浄。
父:金銅輪
母:万呼夫人(万内夫人)
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真平王の家族
真平王は二人の王妃を迎えましたが、王子には恵まれませんでした。
最初の王妃・摩耶夫人
真平王の最初の王妃は葛文王・金福勝の娘の摩耶夫人でした。
葛文王・金福勝は第21代王・炤知麻立干の孫にあたります。
葛文王は王名ではなく、新羅の最高貴族に与えられた称号で、從って、その娘の摩耶夫人は王族でした。
<摩耶夫人の家系図>
摩耶夫人との間に生まれた徳曼公主(善徳女王)は、「三国史記」では長女、「三国遺事」と「花郎世紀」では次女と記載されています。
三女の善花公主は百済武王の王妃で、ドラマ薯童謠(ソドンヨ)のモデルになった女性です。
しかし、「三国遺事」のみに記録がある王女で、実在の可否は確かではありません。
四女の天花公主も「花郎世記」に記録があるだけで、実在の可否は定かではありません。
継室の僧満夫人
摩耶夫人が亡き後、王妃の座に就いたのは僧満(スンマン)夫人でした。
僧満夫人の氏族は孫氏で王族ではありません。更に、親族やその出生については謎だらけの女性でした。
僧満夫人は男の子を生みますが、幼くして亡くなっています。
やっと生まれた男の子を失った僧満夫人の悲しみは深く、この頃、寵愛を受けていた側室の宝良宮主とその息子の宝路(ポロ)を嫉妬から宮殿を追放しています。
ドラマ「大王の夢」の僧満はその殆どが、ドラマの創作と考えられます。
真平王の家族一覧
この時代の結婚(側室を含む)は親族同士の結婚が多く、その関係を非常に複雑なものにしています。
関係 | 名前 | 備考 | |
正室 | 摩耶夫人金氏 | ||
長女 | 徳曼公主 | 第27代善徳女王 | |
次女 | 天明公主 | 第29代武烈王の母 | |
三女 | 善花公主 | 百済の武王の王妃 | |
四女 | 天花公主 | 花郎世記に記載。実在ではない可能性もあり。 | |
継室 | 僧満夫人孫氏 | ||
息子 | 夭逝 | ||
後宮 | 宝明宮主 | 立宗の娘 | |
娘 | 良明公主 | 宝宗の妻。宝良宮主の母 | |
後宮 | 美室宮主 | 未珍夫の娘 | |
娘 | 宝華公主 | ||
後宮 | 宝良宮主 | 宝宗と良明公主の娘 | |
息子 | 宝路殿君 | 金庾信の娘・酌光と結婚 | |
後宮 | 太陽公主 | 真興王と思道王后の娘 | |
息子 | 太元 | ||
息子 | 好元 | ||
後宮 | 蘭若公主 | 真興王と美室の娘 | |
娘 | 雨若公主 | ||
後宮 | 昔明公主 | 真智王と宝明宮主の娘 | |
後宮 | 龍明公主 | 真興王と智道皇后の娘 | |
後宮 | 花明娘主 | 二花郎と叔明公主の娘 | |
後宮 | 玉明娘主 | 二花郎と叔明公主の娘 |
美室宮主はドラマ「善徳女王」に登場する善徳女王の政敵・美室(ミシル)です。
美室はその美貌を武器に多くの王族を誘惑したとされており、真興王、真智王、真平王との色ごとは有名です。
真平王の生涯
579年、15歳で第26代新羅王に即位した真平王は53年の長きに渡って国王を務めました。
組織を改変して王権強化に務める
真平王はたびたび、組織を改変して王権の強化に務めました。
真平王の時代に新しい官府と官職が数多く設置されたことは特筆すべきことです。
三国史記に記録されているものは次の通りです。
年月 | 内容 |
581年1月 | 初めて位和府(官吏の人事を担当)を設置する |
583年1月 | 初めて船府署に大監と弟監の各一名を置いた |
584年2月 | 調府(貢納を担当)と乗府(馬政と車乗を担当)を設置する |
586年1月 | 礼部令に二名置いた(礼部令は文交と儀礼を司る部門) |
623年1月 | 兵部に大監二名を置いた |
624年1月 | 侍衛府(国王の護衛を担当)に大監を六名 |
賞賜署に大匠を一名、大道署に大正を一名置いた |
仏教の普及に務める
真平王は隋に僧侶を派遣して仏法を求め、仏教の普及に務めた王でした。
記録からその行跡をたどってみました。
589年3月、円光法師が陳に行って仏法を求めています。
10年以上に渡り隋で修行した円光は隨の朝聘使である奈麻の諸文や大舍の橫川を従えて600年に帰国しています。
また、602年9月には高僧の智明が隨の入朝使の上軍を連れて帰国し、王が智明がよく戒律を守ることに敬服して大德にしたと記録されています。
605年3月には、596年に隋に入った高僧の曇育が隨から入朝使の惠文を連れて帰国しています。
高句麗との戦い
603年8月、高句麗が北漢山城に侵攻しましたが、王は自ら1万の兵を率いて撃破しています。
しかし、その後も高句麗は新羅侵略を進め、608年2月に国境の北部で8000人が捕虜にされました。
更に、4月には鳴山城が陥落されるなど、高句麗侵略が激化していきました。
そこで、611年、王は隋に使者を派遣して、高句麗討伐のための兵の出兵をお願いしました。
もともと、高句麗と敵対関係にあった隋の皇帝はこれを許可しています。
612年、隋は大規模な高句麗討伐を開始しますが、高句麗は激しく抵抗、隋は3度の高句麗遠征に失敗します。
この失敗がキッカケで内乱が各地で勃発、618年、隋は滅亡しています。
百済との戦い
真平王の在位中に百済も度々、新羅の領土を犯してきました。
611年、10月、百済は椵岑城を百日も包囲、縣令の讚德が固守しましたが、力尽きて、城は陥落しています。
618年には、北漢山州の軍主の邊品が奪われた椵岑城を奪還しようと百済と戦いました、
しかし、奪回は失敗、この戦いで讚德の子・奚論が戦死しています。
624年10月には百済が侵攻してきて、速含、櫻岑、岑、烽岑、旗懸、穴柵の6城が包囲されました。
そのうち、3城が陥落あるいは降伏しています。
627年7月には、百済の将軍・沙乞が国境の西部にある2城を襲撃して、男女300余人を捕虜として連れ帰っています。
このように、百済との戦いは敗れた記録が多く残されています。
勝利の記録としては、628年2月、百済が椵岑城を包囲したので、王が自ら出兵して撃破したことが記録されています。
真平王の最後
632年1月、真平王が亡くなりました。
死因は不明です。
諡を真平とし、漢只に埋葬されました。
唐の太宗が詔(しょう)して、左光祿大夫に追贈し、二百反の布を送ったと記録されています。
まとめ
善徳女王の父親として有名な真平王です。
祖母の思道王后が生存中は、思道王后が実権を握り、真平王は操り人形でした。
真平王が親政を始めた頃は、新羅、百済、高句麗が激しい戦闘を繰り広げていた三国時代でした。
この三国を統一に導いた貢献者は孫の武烈王(金春秋)と金庾信でしたが、実際に三国統一が実現されるのは、武烈王の息子・文武王の時代まで待つ必要がありました。