文定王后(ムンジョンワンフ)はドラマでは「悪女」としての側面が強調されることが多い王妃ですが、史実ではどのような人物だったのでしょうか。
この記事では、文定王后の家系図をもとに人物像、家族構成、生涯について解説します。
文定王后の家系図
文定王后(ムンジョンワンフ)は、多くの王妃を輩出した名門・坡平尹氏の出身です。坡平は京畿道坡州の旧称で、始祖は高麗開国の功臣・尹莘達とされています。
文定王后の父・尹之任は、第7代国王・世祖の正室である貞熹王后の弟・尹士昕の曾孫にあたり、一族は代々王室と深く関わってきました。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<文定王后の家系図(簡略版)>
※家系図(詳細版)は記事末に記載しています>>詳細版はこちら
家系図から分かるように、坡平尹氏からは第7代世祖の貞熹王后、第11代中宗の章敬王后といった王妃が出ています。さらに、廃妃尹氏(成宗の正室)も同族の咸安尹氏から輩出されています。
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1517年、17歳で揀択により中宗の王妃となった文定王后は、学識と教養に優れ、決断力と行動力を持った女性でした。やがて大臣をも圧倒する政治力を発揮します。
義理の息子・仁宗には冷淡に接し、実子・慶源大君を王にするために策を巡らせたと伝わります。仁宗の死とともに彼女の政治的影響力は頂点に達しました。
生年:1501年10月22日
没年:1565年4月6日(享年65歳)
在位:1517年7月19日-1544年11月20日
諡号:聖烈仁明文定王后
氏族:坡平尹氏
父:尹之任(1475-1534年)
母:全城府夫人・李氏
文定王后の家族
文定王后は中宗との間に1男4女の子をもうけています。息子の慶源大君は第13代国王の明宗として即位しました。
関係 | 称号 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
夫 | 中宗 | 李懌 | 1488-1544 | 第11代国王 |
本人 | 文定王后 | 不明 | 1501-1565 | |
長男 | 慶源大君 | 李峘 | 1534-1567 | 第13代国王・明宗 |
長女 | 懿恵公主 | 玉蘭 | 1521-1564 | 韓景禄と結婚 |
次女 | 孝順公主 | 玉蓮 | 1522-1538 | 具思顔と結婚 |
三女 | 敬順公主 | 玉賢 | 1530-1584 | 申檥と結婚 |
四女 | 仁順公主 | 不明 | 1542-1545 | 早世 |
文定王后の兄弟
弟の尹元衡は領議政に上り詰め、文定王后と共に政権を独占しました。この姉弟による支配体制は、外戚政治を象徴するものでした。
関係 | 名前 | 生年 没年 |
官職 | |
兄 | 尹元凱 | 不詳 | 不詳 | |
兄 | 尹元亮 | 1495 1569 |
敦寧都正 | 仁宗の後宮 淑嬪尹氏の父 |
兄 | 尹元弼 | 1496 1547 |
龍驤衛大護軍 | |
弟 | 尹元老 | 不詳 1547 |
敦寧府都正 | 弟・尹元衡との権力争いに敗れ、賜死 |
弟 | 尹元衡 | 1509 1565 |
領議政 | 妻は鄭蘭貞 |
文定王后の生涯
1545年、仁宗が亡くなると、文定王后の弟・尹元衡が中心となり、先代仁宗の外戚勢力をすべて粛清(乙巳士禍)その結果、文定王后を中心とした外戚が朝廷を独占しました(外戚政治)
年 | 出来事 |
1501 | 尹之任の娘として生まれる |
1515 | 中宗の2番目の王妃・章敬王后が逝去 |
1517 | 文定王后が17歳の時に揀択で王妃に選ばれる |
1534 | 慶源大君(明宗)が生まれる |
1544 | 中宗亡くなり、仁宗が即位 |
文定王后は王大妃となり政治への介入を強める | |
1545 | 仁宗が病気で逝去 |
慶源大君が12歳で即位して明宗となる | |
文定王后は大王大妃となり垂簾聴政を行う | |
1545 | 仁宗の外戚が一掃される(乙巳士禍) |
文定王后と弟の尹元衡が朝廷を独占する | |
1565 | 文定王后が65歳で亡くなる |
文定王后の最期
実録には文定王后が午前9~11時頃、昌徳宮の昭徳堂で亡くなったことが記録されています。
巳時、大王大妃薨于昌德宮 昭德堂
<引用元:明宗実録1565年4月6日>
彼女が亡くなると、外戚の勢力は衰退し、弟の尹元衡とその妻・鄭蘭貞は失脚の末に自決しています。
文定王后が出るドラマ
史実では政治に強い影響を与えた王妃ですが、一方、ドラマでは劇的効果を高めるために、「悪女」としての側面が誇張されがちです。
宮廷女官チャングムの誓い
(2003年、パク・チョンスク)
天命(2013年、パク・ジヨン)
オクニョ 運命の女
(2016年、キム・ミスク)
魔女宝鑑 〜ホジュン、若き日の恋〜
(2016年、キム・ヨンエ)
参考資料:文定王后の家系図(詳細版)
<文定王后の家系図(詳細版)>
まとめ
文定王后は、貞熹王后や章敬王后を輩出した名門・坡平尹氏の出身で、中宗の王妃となり明宗の母として大王大妃に昇りました。
彼女は弟・尹元衡と共に政敵を排除して朝廷を掌握し、女性として稀に見る政治力を発揮しました。
ドラマでは「悪女」として描かれることが多いものの、史実と比較することで多面的な人物像を知ることができます。