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仁敬王后の家系図【甥は仁顕王后の復位に貢献した金春沢】

仁敬王后(インギョンワンフ)は粛宗の最初の正室でした。

しかし、若くしてなくなったためほとんどドラマにも登場しません。

たった19歳で亡くなった仁敬王后とはどんな王妃だったのか。

仁敬王后の家系図から調べてみました。

 

仁敬王后の家系図

仁敬王后の氏族は高位な官職であった平章事(正二品)を多く輩出した光山金氏(クァンサンギムシ)です。

光山金氏は金興光を始祖とする高麗の有力豪族でした。

<仁敬王后の家系図>

 

仁敬王后の甥は金春沢

ドラマ「トンイ」に登場するシムウンテクのモデルの金春沢(キムチュンテク)です。

金春沢は仁敬王后の兄・金鎭亀の息子、つまり、甥にあたります。

金春沢から見ると仁敬王后は叔母さんですね。

<仁敬王后の親族>

 

また、父親の金萬基の弟の金萬重は文臣で小説家でした。

トンイに出てくる謝氏南征記(シャシナムジョンギ)を書いた人物です。

仁敬王后はトンイには登場しませんが、親族は物語に大きく関与しています。

 

大学者であった金長生の五代孫

仁敬王后の高祖父にあたる金長生(キム・チャンセン)は宣祖時代に活躍した学者でした。

1548年に金継輝の子として生まれた金長生は、李珥の門人として学問を学びました。

李珥はわずか13歳で進士の初試に合格、九回受験した科挙で全て一番という天才学者です。

 

金長生の弟子には粛宗に仕えた宋時烈がいました。

宋時烈は仁敬王后が亡くなると明聖王后とともに次期王妃として仁顕王后を推薦しています。

 

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仁敬王后はどんな王妃だったのか?

わずか11歳で世子だった粛宗と政略結婚させられ、20歳で亡くなった仁敬王后の記録はほとんどありません。

 

仁敬王后のプロフィール

<仁敬王后(インギョンワンフ)>
別称号:光烈宣穆恵聖純懿孝荘明顕仁敬王后
生年:1661年9月3日
没年:1680年10月26日
配偶者:粛宗
子女:2人
氏族:光山金氏
父親:金萬基
母親:西原府夫人
陵号:翼陵(西五陵)

 

仁敬王后の家族

仁敬王后は金萬基と西原府夫人の間に4男3女の長女として生まれました。

関係 名前 生年ー没年 備考
金萬基 1633-1687 光城府院君
西原府夫人 生年不詳-1720 清州韓氏
長男 金鎭亀 1651-1704 刑曹判書、息子は金春沢
次男 金鎭圭 1658-1716 工曹判書
長女(本人) 仁敬王后 1661-1680
三男 金鎭瑞 1663-1712
四男 金鎭符 1676-1693
次女 金漢惠 生没年不詳
三女 金福惠 生没年不詳 贈貞敬夫人
粛宗 1661-1720 第19代国王
子供 長女: 公主 1677-1678 早世
次女: 公主 1679-1679 早世

 

仁敬王后の生涯

仁敬王后は17歳と19歳のときに女の子を生んでいますが、いずれもすぐに亡くなっています。

自身も天然痘にかかり、発病後8日で亡くなりました。

出来事
1661年 金萬基と西原府夫人の長女として生まれる
1671年 世子だった粛宗と政略結婚(11歳)
1674年 粛宗が即位して王妃となる(14歳)
1677年 長女を出産するが早世(17歳)
1679年 次女を出産するが早世(19歳)
1680年 天然痘で亡くなる(享年20歳)

 

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仁敬王后の最後

仁敬王后は次女を亡くした翌年に天然痘にかかり亡くなりました。

朝鮮王朝実録の記録によると、発病後8日後のことでした。

1680年10月18日発病

中宮有違豫之候, 證涉痘患
中宮(仁敬王后)に良くない兆候が見られた、症状は天然痘である
<引用元:粛宗実録1680年10月18日>

 

1680年10月26日逝去

辛亥/二更, 中宮昇遐于慶德宮
午後10時頃に中宮(仁敬王后)が慶德宮で亡くなった
<引用元:粛宗実録1680年10月26日>

 

まとめ

粛宗の最初の王妃であった仁敬王后は高麗の有力豪族であった光山金氏の出身でした。

仁敬王后は若くして亡くなったため、ほとんどドラマに登場していません。

しかし、家系図を調べてみるとシムウンテクのモデルの金春沢や金萬重など、親族が物語に関連していることが分かります。

 

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