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貞顕王后の家系図【中宗の実母は心優しい温厚な王妃】

中宗の実母・貞顕王后は心優しく、誰からも愛された王妃でした。

貞顕王后はどんな王妃だったのか?

彼女の家系図とともに、人物像、生涯、家族関係を詳しく解説します。

貞顕王后の家系図

貞顕王后は坡平尹氏一族の出身です。

坡平は京畿道坡州の別称で、始祖は高麗の開国功臣・尹莘達(ユン・シンダル)です。

貞顕王后の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<貞顕王后の家系図>

坡平尹氏は4人の王妃と一人の側室を輩出した名門一族でした。

坡平尹氏から出た主な王妃たち

貞熹王后:世祖の王妃
貞顕王后:成宗の王妃
章敬王后:中宗の2番目の王妃
文定王后:中宗の3番目の王妃

多くの王妃を輩出した坡平尹氏の系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<多くの王妃を輩出した坡平尹氏の系図>

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貞顕王后の人物像|優しく品格ある王妃

貞顕王后は、おとなしく素直な性格でした。

特筆すべきはことは、燕山君が母の復讐を始めたときに、あやうく命の危機に瀕しますが、廃妃慎氏(燕山君の妻)によって助けられたということです。

王妃としての人望があったことがうかがえるエピソードです。

貞顕王后のプロフィール

貞顕王后は実録に唯一、名前が記されている王妃です。

父親の尹壕が忠清道新昌郡で地方官を務めていたことから、「昌年」と名付けられたと記録されています。(中宗実録1530年8月25日)

また、貞顕王后は熱心な仏教徒でした。

貞顕王后(チョンヒョンワンフ)
生年:1462年6月25日
没年:1530年9年8月22日
享年69歳
名前:昌年
氏族:坡平尹氏
父親:尹壕
母親:延安府夫人田氏
埋葬:宣陵
配偶者:第9代王・成宗
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貞顕王后の家族

貞顕王后の家族は以下の通りです。

父の尹壕(ユン・ホ)は、娘が入宮時は兵曹参判の官職で、王妃になると国舅(王妃の父)として、鈴原府院君の爵位を授けました。

その後、工曹参判などの官職を歴任、最終的には右議政を務めています。

<貞顕王后の家族>

関係 名前 生年-没年 備考
尹壕 1424-1496 右議政
延安府夫人田氏 1421-1500
尹殷老 生没年不詳
尹湯老 1466-1508
成宗 1457-1495  第9代王
長女 順淑公主 1478-1488 11歳で逝去
次女 慎淑公主 1481-1486 8歳で逝去
長男 晋城大君 1488-1544 第11代王・中宗

貞顕王后の生涯

貞顕王后は側室として12歳で宮中に入り、正室(廃妃尹氏)が廃位されると、王妃に昇格しています。

以下に、彼女の主な生涯の出来事を年表にまとめました。

年月日 年齢 出来事
1462 1 父・尹壕の長女として生まれる
1473 12 6月14日、12歳で側室として入宮、淑儀に封じられる
1478 17 順淑公主を出産する
1479 18 6月2日に王妃尹氏が廃位される
1480 19 11月8日、王妃に封じられる
1481 20 慎淑公主を出産する
1488 27 李懌(晋城大君/中宗)を出産する
1495 34 燕山君が即位したことで大妃となる
1496 35 慈順の尊号を受けて、慈順王大妃と称される
1505 44 慈順王大妃は景福宮に居を移す
1506 45 9月2日、中宗反正が起こる
1515 54 中宗と章敬王后に孫の李峼(仁宗)が生まれる
1530 69 8月22日、景福宮に於いて69歳で逝去する

中宗即位の影の立役者

1506年、クーデター(中宗反正)を起こした朴元宗、程喜燕、劉順らが燕山君の廃位と中宗の即位を貞顕王后に訴えました。

最終決定権は大妃である慈順王大妃(貞顕王后)の手にあったのです。慈順王大妃は燕山君の廃位と中宗の即位を承諾しました。

貞顕王后の晩年

中宗の即位後、貞顕王后は穏やかな生活を送りました。

1515年、孫の李峼(仁宗)が生まれますが、母親の章敬王后は直ぐに亡くなってしまいました。そのため、慈順王大妃は李峼を大変寵愛したといいます。

1530年、景福宮にて亡くなり、宣陵に埋葬されました。享年69歳でした。

まとめ

貞顕王后は、中宗の実母であり、温厚で思慮深い王妃として知られています。

彼女は名門・坡平尹氏の出身で、家系からは多くの王妃が輩出されました。

中宗の即位後は、波乱の人生を振り返りながら、穏やかな晩年を過ごしたと思われます。

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