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敬嬪朴氏の家系図【中宗に寵愛された側室|灼鼠の変で失脚】

敬嬪朴氏は、地方の没落士族の出身でありながら、中宗の寵愛を受けて長子・福城君を生んだ側室でした。

この記事では、敬嬪朴氏の家系図をもとに、家族構成や人物像、さらに失脚の原因となった灼鼠の変について分かりやすく解説します。

敬嬪朴氏の家系図

敬嬪朴氏の父は、正兵として軍役に就いていた朴秀林です。朴秀林以前の家系については、詳しい記録が残されていません。

これは、敬嬪朴氏が名門両班ではなく、地方の没落士族の出身だったことに加え、後に灼鼠の変へ連座して家門が政治的に失脚したことが影響したと考えられます。

敬嬪朴氏の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<敬嬪朴氏の家系図>

実録からは、敬嬪朴氏に兄の朴仁亨・朴仁貞がいたことが確認できます。また、息子の福城君は男子を残さず亡くなったため、敬嬪朴氏の直系は福城君の代で断絶しました。

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養女説が広まった根拠

ドラマなどでは、敬嬪朴氏が朴元宗の養女として描かれることがあります。しかし、敬嬪朴氏が朴元宗の養女だったという記録は確認されていません。

この説は、朴鍾和の大河小説の影響が大きく、特にドラマ化された『女人天下』によって「朴元宗の養女説」が広く知られるようになったと考えられます。

実際には、後に朴元宗の姪が王妃(章敬王后)として入宮しています。そのため、史実から見ても、朴元宗が敬嬪朴氏を養女にした可能性は低いとみられています。

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敬嬪朴氏の家族

敬嬪朴氏は中宗との間に1男2女をもうけました。

関係 名前 生没年 備考
朴秀林 不詳
不詳 不詳
朴仁亨 不詳
朴仁貞 不詳
長男 福城君(李嵋) 1509-1533
長女 恵順翁主(李鉄環) 1512-1583 金仁慶の妻
次女 恵静翁主(李石環) 1514-1580 洪礪の妻

福城君は中宗の長子だったため、一時は世子候補として警戒される存在でもありました。

しかし、敬嬪朴氏と福城君は灼鼠の変によって賜死となり、父・朴秀林と兄の朴仁亨、朴仁貞も連座して流刑となっています。二人の娘である恵順翁主と恵静翁主は庶人に降格されましたが、後に福城君とともに名誉を回復しました。

敬嬪朴氏はどんな人物だったのか

敬嬪朴氏は容姿が美しく、『中宗実録』には中宗の寵愛を受けていたことが何度も記録されています。しかし、一方で性格については好意的な記述が少なく、長男・福城君を世子にしようとする動きへの警戒もあってか、否定的な評価が目立ちます。

性不恭謹, 知足務爲取媚之術, 恃恩縱恣。 猶懷非分, 廣招賂遺, 干請雲集, 略不知戒, 以至於禍, 然時論以爲非, 獨朴氏之罪, 亦由過寵之致。”
<中宗実録:中宗22年4月26日の条>

<訳>性格は慎みがなく、満足することを知らず、人に媚びる術に長け、恩寵を頼みにして放縦であった。さらに身分を越えた望みを抱き、広く賄賂を受け取り、請託が集まっても少しも戒めることがなく、ついには禍を招いた。しかし当時の世論は、これは朴氏一人の罪ではなく、中宗の過度な寵愛にも原因があったとしていた。

※放縦は好き勝手に振る舞うこと。請託は頼み事や口利きの依頼のことです。

さらに近年では、ドラマ『女人天下』で描かれた強烈な悪女像によって、敬嬪朴氏のイメージがより固定化された面もあるようです。

王妃への道が閉ざされる

1515年3月、中宗の継妃・章敬王后が亡くなると、敬嬪朴氏を王妃にする案が取り沙汰されました。中宗もこれを望んでいましたが、鄭光弼は次のように強く反対したと記されています。

正位, 當更求淑德名門, 不可以側微陞
<中宗実録:中宗12年7月22日の条>

<訳>正位(王妃)は、あらためて徳のある名門から選ぶべきであり、側室の身分から昇らせてはならない

こうした反対意見もあり、敬嬪朴氏を王妃に立てる案は実現せず、新たな王妃を選ぶことになりました。

灼鼠の変による失脚

1527年2月には東宮で、さらに3月には景福宮の寝室で、焼いた鼠を使った呪詛の痕跡が発見される事件(灼鼠の変)が起こりました。この事件は、世子を呪詛した疑いがあるとして宮廷内で重大な問題となりました。

確たる証拠はないまま、敬嬪朴氏は容疑者とされ、処分を求める声が高まります。しかし、中宗は当初これを拒否しています。それでも、上疏は収まらず、最終的に中宗は敬嬪朴氏と福城君の処分を命じました。

朴氏賜藥, 福城君遠方安置可也
<中宗実録:中宗28年5月23日>

<訳>朴氏には薬を賜り、福城君は遠方へ流配せよ。

※原文の「賜薬」は薬により死を命じることを意味します。

さらに5月26日には、敬嬪朴氏の二人の娘が庶人へ降格され、父・朴秀林と二人の兄も流配となりました。

灼鼠の変をめぐる再評価|李宗翼の上疏

1532年3月、李宗翼が獄中から提出した上疏が波紋を呼びました。彼は、灼鼠の変は金禧が私欲のために起こしたものだと主張したのです。

此不過金禧生私、作妖之所致也
<中宗実録:中宗27年3月20日>

<訳>これは、ただ金禧が私情から妖しい行いをして引き起こしたことにすぎない。

この上疏により、灼鼠の変には金禧、さらに金安老が関与していたのではないかという説が唱えられるようになりました。

ただし、これは李宗翼による一方的な主張であり、『中宗実録』に金安老・金禧の関与が正式に認められた記録は確認されていません。

そのため、灼鼠の変の真相は現在でも断定されておらず、敬嬪朴氏の疑いも完全には晴れていません。

世子の上疏による身分回復

1541年、世子(後の仁宗)が、福城君の娘と二人の翁主(敬嬪朴氏の娘)を哀れに思い、身分回復を求める上疏を行いました。(中宗実録:中宗36年11月9日)中宗はこの願いを聞き入れ、三人の身分回復が実現しています。

ただし、敬嬪朴氏や福城君、さらにその家門に関する身分回復の記録は確認されておらず、あくまで三人に対する温情措置に留まりました。

まとめ

敬嬪朴氏は名門の出身ではなく、地方の没落士族の出身でしたが、その容姿の美しさから中宗に大変寵愛された側室でした。さらに、長子・福城君を生んだことで、政治的に大きな影響力を持つ存在となりました。

一方、中宗時代は複数の政治勢力が激しく対立した時代でもありました。福城君が中宗の長子だったことも、敬嬪朴氏が警戒される要因になったと考えられます。

敬嬪朴氏の家系図からは、彼女が巻き込まれていった宮廷内の権力争いを垣間見ることができます。

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