大院君(テウォングン)とは何か?
朝鮮王朝に実在した4人の大院君についてわかりやすく解説します。
大院君とは
大院君(テウォングン)とは、王の父親に与えられる尊号です。
通常は、王である父親の後を継いで息子が王になります。しかし、王位が父から子への直系継承が行われなかった場合、つまり、父親が王でなかった場合に、実父には大院君の尊号が贈られます。
大院君の尊号が送られた父親は4人存在します。
定遠大院君 16代・仁祖の父
全渓大院君 25代・哲宗の父
興宣大院君 26代・高宗の父
称号の由来と必要性
大院君とは、「大きな格式をもつ王の父」といった意味合いの称号です。王ではなかったが、王の実父である人物に敬意を込めて贈られる尊号として成立しました。
王の父親は元々「王」であるケースが多いのですが、王の父が王でなかった場合に、「父親を何と呼ぶべきか?」という制度上の必要性から「大院君」という称号が生まれました。
初めて、「大院君」の名称が実録に登場したのは、宣祖実録1576年(宣祖9年)7月20日のことです。
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徳興大院君は代9代王・中宗と側室・昌嬪安氏の次男として生まれています。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<徳興大院君の家系図>
三男の河城君が第14代王(宣祖)として即位したとき、すでに亡くなっていた父・徳興君に大院君の尊号が与えられました。
息子の宣祖は、明宗の養子となり王になりましたが、庶子として初めて即位した特異な事例でした。
庶子:側室から生まれた子供
定遠大院君|王に昇格した大院君
定遠大院君は第14代王・宣祖と側室・仁嬪金氏の三男として生まれています。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<定遠大院君の家系図>
長男が仁祖反正で王位に就くと、大院君に追尊され、定遠大院君と呼ばれました。
仁祖は父を王にしようとし、元宗の廟号を追尊しています。これは実質的に大院君を超えて「王」に昇格させた非常に稀な例といえます。
全渓大院君|弾圧と悲劇の末に追尊
全渓大院君は恩彦君(思悼世子の庶長子)の七男として生まれました。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<全渓大院君の家系図>
三男が哲宗として即位すると、大院君に追尊され、全渓大院君と呼ばれました。
全渓大院君の父・恩彦君は、妻がカトリック信者であることから辛酉邪獄で殉教、そのときに連座して賜死しています。時代に翻弄された家系でした。
興宣大院君|生前に称号を得た唯一の人物
1863年、高宗が第26代王に即位すると、父・興宣君(フンソングン)には、大院君の尊号が送られました。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<興宣大院君の家系図>
このときから、興宣君の正式な呼び名は興宣大院君(フンソンテウォングン)となります。生前にこの尊号が送られたのは興宣大院君だけでした。
興宣大院君は、実際に国政を主導するなど、極めて大きな影響力を持ちました。
そのため、一般に「大院君」といえば、この興宣大院君を指すことが多く、固有名詞のように扱われることもあります。
本名:李昰応
称号:興宣君(王の父になる前)
称号:興宣大院君/大院君(王の父になった後)
その他敬称:閣下/大院位大監
まとめ
大院君とは、王ではなかった父親に贈られる尊号です。歴代で4人が大院君となり、特に高宗の父・興宣大院君は生前にこの称号を受け、強い政治的影響力を持ちました。
他にも宣祖の父・徳興大院君、仁祖の父・定遠大院君、哲宗の父・全渓大院君がいます。
特に、興宣大院君は、生前に称号を得て政権を掌握した稀有な存在であり、今なお「大院君」の名で広く知られています。