この記事では、イソンゲの祖先の足跡から国王になる前のイソンゲの功績について分かりやすく解説します。
イソンゲの先祖とは?
朝鮮王朝の初代国王となったイソンゲ(李成桂)は、どのような家系から生まれたのでしょうか。
彼の出自は、全州(チョンジュ)に根を張った豪族で、代々、高麗朝廷に仕える武臣の家柄でした。
<イソンゲの家系>
続柄 | 追尊 | 名前 | 備考 |
高祖父の祖父 | - | 李璘 | 高麗の朝廷で内侍執奏 |
高祖父の父 | - | 李陽茂 | |
高祖父 | 穆祖 | 李安社 | 元に寝返る |
曽祖父 | 翼祖 | 李行里 | |
祖父 | 度祖 | 李椿 | |
父 | 桓祖 | 李子春 | 再び、高麗に寝返る |
本人 | 太祖 | 李成桂 | 初代国王 |
李義方と李璘の兄弟、家門の始まりと危機
イソンゲの家系は、兄・李義方(イ・ウィバン)とその弟・李璘(イ・リン)から始まります。
李義方は、高麗の武臣政権初期を担った重要人物で、初代執権者として歴史に名を残します。
しかし、彼は政敵である鄭仲夫に暗殺され、家門は危機に陥りましたが、弟の李璘が全州に逃れ、一族の存続を図りました。
【PR】スポンサーリンク高祖父・李安社、モンゴルへ投降
時代は13世紀。高麗はモンゴル帝国(のちの元)の圧力にさらされ、北部では激しい攻防が繰り広げられていました。
イソンゲの高祖父・李安社(イ・アンサ)は、東北面でモンゴル軍と戦った後に投降し、モンゴルの官職「達魯花赤」に任命されます。
彼は「斡東千戸所(1000人規模の軍組織)」を統率する立場となり、一族は元の支配下に組み込まれることとなりました。
<モンゴルの軍事侵攻>
父・李子春、高麗への復帰
元に仕えた一族ですが、時代が移り変わり、イソンゲの父・李子春(イ・ジャチュン)は高麗に再び仕えることを選びます。
1356年、恭愍王(コンミンワン)の反元政策が始まると、李子春は積極的に協力します。高麗がモンゴルの拠点であった双城総管府を攻撃すると、元から寝返り高麗の戦闘に参加しました。
その功績により、李子春は「東北面兵馬使」という高位の官職と屋敷を授かり、高麗に復帰しています。
イソンゲ、英雄への道|戦功と名声
李子春の次男として1335年に生まれたイソンゲ(李成桂)は、27歳で父の跡を継ぎ、武将として頭角を現します。以下は彼の主な戦功です。
<李成桂の主な功績>
年月 | 年齢 | 功績 |
1361年10月 | 27 | 朴義の乱を平定 |
1362年1月 | 28 | 紅巾軍からの開京奪回 |
1362年2月 | 28 | 納哈出の撃退 |
1364年 | 30 | 崔儒の撃退 |
1370年1月 | 36 | 東寧府の攻撃 |
1370年11月 | 36 | 遼陽の制圧 |
1380年9月 | 46 | 倭寇の撃退(荒山大捷) |
名将としての第一歩|開京城一番乗り
1362年、10万の紅巾軍が開京を占領する中、李成桂は2000人の兵を率いて「開京城への一番乗り」を果たし、都の奪還に大きく貢献しました。
この功績により、彼の名は一躍高麗中に知れ渡ることになります。
国民的英雄への躍進|荒山大捷
1380年、南原の戦いでイソンゲは倭寇の大軍と激突しました。
高麗王から全羅・慶尚道の軍指揮を任され、倭寇の首領・阿只抜都(アキバツ)を討ち取り、歴史的な大勝利「荒山大捷(ファンサンテチョプ)」を収めました。千数百頭の馬を捕獲、倭寇の残党は70名ほどだったといいます。
倭寇を打ち負かしたこの戦いにより、彼は「国民的英雄」としての地位を確立し、やがて王位への道を歩むことになります。
倭寇を撃破した「三大捷」
イソンゲの荒山大捷は、以下の「三大捷」のひとつに数えられています。
:チェ・ヨン(崔塋)が鴻山で倭寇を撃退
:チェ・ムソン(崔茂宣)が火砲と大艦隊で倭寇を殲滅
:イソンゲ(李成桂)が阿只抜都を討ち、倭寇を撃退
なお、大捷(テチョブ)とは、圧倒的な大勝利を意味します。
まとめ
イソンゲの家系は、モンゴルと高麗の間を揺れ動く複雑な歴史を持った武家でした。
しかし、その波乱の中から登場したイソンゲ(李成桂)は、紅巾軍との戦いや倭寇討伐などで大きな戦功を挙げ、朝鮮王朝という新たな国を築く礎を築いたのです。
イソンゲの先祖の歩みと彼自身の成長を知ることで、彼がいかにして「建国の英雄」となったのか、その背景をより深く理解することができます。