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召西奴(ソソノ)は実在した【高句麗と百済の建国を支えた女傑】

召西奴(ソソノ)は実在した女性であり、高句麗と百済の建国に大きく関わった女傑として知られています。では、彼女はどのような女性だったのか?

この記事では、朱豪との出会いから高句麗建国、王妃としての役割、そして百済建国に至るまでの彼女の足跡を、史実に基づいて詳しく解説します。

召西奴(ソソノ)は実在した女性

召西奴(ソソノ)は「三国史記」の卷二十三 百濟本紀 第一 温祚王の分注に登場する実在の人物です。
「分注」とは、本文の文字よりも小さな文字で補足的に挿入された記述のことです。

史料によると、召西奴(ソソノ)は卒本の延陁勃(ヨンタバル)の娘で、最初の夫は優台(ウテ)でした。
優台との間に生まれた二人の息子が長男・沸流(ピリュ)と次男・溫祚(オンジョ)です。

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高句麗建国を支えた女傑

召西奴(ソソノ)は、高句麗と百済という二つの古代国家の成立に深く関わった女傑として知られています。

優台(ウテ)の死後、卒本で暮らしていた彼女は、扶余から逃れてきた朱蒙と出会い、家財を投じてその建国を支えました。

その努力が実り、紀元前37年に朱蒙は高句麗を建国して初代王に即位。彼は誠実に尽くした召西奴を初代王妃として迎えました。

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第二夫人となり高句麗を去る決意

高句麗の王妃となった召西奴(ソソノ)ですが、その幸せは長く続きませんでした。紀元前19年4月、扶余に残してきた妻・礼氏と子の類利(ユリ)が突然現れました。朱蒙は類利を太子、礼氏を第一夫人としたため、召西奴は第二夫人となります。

同年10月、朱蒙が亡くなり類利が即位すると、彼女は二人の息子と10人の臣下を率いて高句麗を離れる決断をします。多くの人々がこれに従ったと伝えられています。

召西奴(ソソノ)のその後 ― 百済建国へ

ドラマ「朱豪」では、高句麗を去る場面で物語が終わりますが、史料にはその後の召西奴(ソソノ)の動きが詳しく記されています。

紀元前18年、息子の温祚は臣下と協力して河南地域に新たな国(後の百済)を建て、召西奴も建国と初期政治に深く関わったと指摘されています。

一方で、二人の息子の仲は良くありませんでした。河南に向かう途中、二人は別れ、沸流は海辺を望んで弥鄒忽(ミチュホル)に住みました。しかし、土地が湿り、水に塩分が混じるため生活は困難で、沸流は強い後悔の中で亡くなったと伝えられています。

召西奴(ソソノ)の最後

召西奴(ソソノ)の最後の記録が三国史記の百済記に次のように記されています。

十三年,春二月,王都老嫗化爲男。五虎入城。王母薨,年六十一歲。
<三国史記 卷第23百済本紀第1温祚王>

<訳>紀元前6年2月、王都では男に化けた老婆と五虎が入城した。王の母が亡くなった。享年61歳であった。

この一行の記述から、彼女が息子たちの不和を解こうとして武装し、五人の臣下と共に慰礼城を攻撃したという説もありますが、根拠は乏しく無理のある解釈といえます。

なぜ「男に化けた老婆」や「五虎」が登場するのか、その意味は不明で、真相を知る手がかりは残されていません。

ただ、史料から確実にいえるのは、彼女が紀元前6年に61歳で亡くなったという事実のみです。

召西奴(ソソノ)のプロフィール

召西奴(ソソノ)はドラマ「朱豪」では、卒本・桂婁で商団を運営する首領の娘でしたが、史実では卒本の豪族の娘と推測されます。家財を投げ出して、朱豪の開国に貢献したことからも、かなり裕福な家庭で育ったと推測されます。

<プロフィール>
名前:召西奴(ソソノ)
地位:高句麗王朱蒙の王妃
生年:不詳
没年:紀元前6年
父:延陁勃(ヨンタバル)
母:不詳
夫:優台(ウテ)、朱豪
息子:沸流(ピリュ)、溫祚(オンジョ)

まとめ

歴史の中で長く埋もれていた召西奴(ソソノ)ですが、ドラマ「朱豪」をきっかけに注目される存在となりました。

高句麗・百済建国をめぐる物語には神話的要素もありますが、「三国史記」に基づけば、彼女が歴史上重要な役割を担ったことは間違いありません。

史料が限られるため全貌の把握は難しいものの、建国に寄与した女傑としてその名が語り継がれてきたことは確かです。

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