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	<title>朱豪</title>
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		<title>テソ王（帯素王）の家系図【高句麗を苦しめた東扶余の王】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Jun 2024 05:18:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[朱豪]]></category>
		<category><![CDATA[風の国]]></category>
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					<description><![CDATA[テソ王（帯素王）はチュモン（朱豪）、ユリ王、ムヒョルと3代にわたり高句麗の王を苦しめた人物として記録されています。 この記事では、テソ王の家系図から彼の人物像、家族構成、そして生涯まで詳しく解説します。 テソ王（帯素王） [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>テソ王（帯素王）はチュモン（朱豪）、ユリ王、ムヒョルと3代にわたり高句麗の王を苦しめた人物として記録されています。</p>
<p>この記事では、テソ王の家系図から彼の人物像、家族構成、そして生涯まで詳しく解説します。</p>
<h2>テソ王（帯素王）の家系図</h2>
<p>テソ王（帯素王）は東扶余の第3代王であり、祖父は初代王の解夫婁王（ヘプルワン）、父は<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/kumuwawan-kakeizu2426/">第2代王の金蛙王（クムワワン）</a>です。</p>
<div id="attachment_10840" style="width: 547px" class="wp-caption aligncenter"><img fetchpriority="high" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-10840" class="wp-image-10840" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/06/da08800810e15d35954a4c9c4fe438e3-800x488.jpg" alt="帯素王の家系図" width="537" height="327" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/06/da08800810e15d35954a4c9c4fe438e3-800x488.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/06/da08800810e15d35954a4c9c4fe438e3-500x305.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/06/da08800810e15d35954a4c9c4fe438e3-300x183.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/06/da08800810e15d35954a4c9c4fe438e3-768x469.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/06/da08800810e15d35954a4c9c4fe438e3.jpg 870w" sizes="(max-width: 537px) 100vw, 537px" /><p id="caption-attachment-10840" class="wp-caption-text">本図は当サイトが独自に作成した家系図です</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜帯素王の家系図＞</strong></p>
<p>高句麗の初代王である朱豪（チュモン）は解慕漱（ヘモス）と柳花夫人の子供でしたが、金蛙王により実子のように育てられたため、テソ王にとっては義弟のような存在でした。</p>
<p>また、テソ王の王妃や子供に関する記録は史料になく謎に包まれており、後継者はいなかった可能性が高いと考えられます。</p>
<h2>テソ王（帯素王）はどんな王だったのか？</h2>
<p>テソ王（帯素王）は<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/jumong-kakeizu2234/">高句麗初代王のチュモン（朱豪）</a>、<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/yuriwan-kakeizu2423/">第2代王のユリ王（瑠璃明王）</a>、<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/muhyoru-kakeizu2425/">第3代王・ムヒョル（大武神王）</a>の3代に渡り、高句麗に敵対した王でした。</p>
<p>80歳を超えても征服欲が衰えないことから、精力的な王だったと推測されます。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜プロフィール＞</strong><br />
帯素王（テソワン）<br />
東扶余第3代王<br />
在位期間：不詳-22年<br />
生年：不詳<br />
没年：22年2月<br />
都城：迦葉原<br />
父：金蛙王<br />
母：不詳</div>
<h2>テソ王（帯素王）の家族</h2>
<p>テソ王（帯素王）には7人の兄弟と腹違いの弟の朱豪（チュモン）がいました。</p>
<p>弟の七男はテソ王がムヒョル（第3代王・大武神王）に殺害されたときに、東扶余を脱出して曷思国を建国した曷思王です。</p>
<p>そして、曷思王の孫娘はムヒョルの妃となりホドン（好童）を生んでいます。東扶余から別れた高句麗と曷思国の縁が再び結ばれることになりました。</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="26%">関係</td>
<td width="18%">名前</td>
<td width="25%">生年-没年</td>
<td width="31%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>父</td>
<td>金蛙王</td>
<td>不詳</td>
<td>東扶余第2代王</td>
</tr>
<tr>
<td>母</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>長男（本人）</td>
<td>帯素王</td>
<td>不詳-22年</td>
<td>東扶余第3代王</td>
</tr>
<tr>
<td>次男～六男</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>七男</td>
<td>曷思王</td>
<td></td>
<td>曷思国の王</td>
</tr>
<tr>
<td>義弟</td>
<td>朱豪</td>
<td>BC58-BC19</td>
<td>高句麗初代王</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>テソ王（帯素王）の生涯</h2>
<p>テソ王（帯素王）は東扶余の第2代王・金蛙王の長男として生まれています。生母及び生年は不明です。</p>
<h3>チュモン（朱豪）との対立</h3>
<p>テソ王（帯素王）はチュモンに対する対抗意識は強く、文武に才能があるチュモンに嫉妬して殺害を企てたとされています。それを知ったチュモンは東扶余を脱出、紀元前37年に高句麗を建国しました。</p>
<h3>王位継承と高句麗への侵攻</h3>
<p>紀元前7年頃に即位したテソ王（帯素王）は、翌年に高句麗へ人質交換を要求するも拒否されます。激怒したテソ王は5万の兵で侵攻しましたが大雪で撤退。高句麗は危機を免れています。</p>
<h2>テソ王の最後と東扶余の滅亡</h2>
<p>西暦13年、テソ王（帯素王）は高句麗へ再侵攻するもムヒョル軍に敗退し、22年には大武神王の大軍に攻め込まれました。</p>
<p data-start="171" data-end="199">このとき、「三国史記」には次のように記されています。</p>
<blockquote data-start="201" data-end="330">
<p data-start="203" data-end="330">敵の不備を突こうとして馬を駆け進んだが、ぬかるみにはまり進退できなくなった。そこで王は怪由に命じた。怪由は剣を抜き放ち、大声で叫びながら攻撃すると、敵軍はたちまち総崩れとなり支えることができなかった。そのまま突き進んで扶余王を捕らえ、首をはねた。<br />
＜引用元：三国史記 大武神王五年，春二月＞</p>
</blockquote>
<p data-start="332" data-end="373">この記述の通り、テソ王（帯素王）は家臣の怪由によって討たれ、最期を迎えました。</p>
<p data-start="375" data-end="422">その後、弟は曷思国を建てましたが、住民の多くは高句麗に降伏し、東扶余はついに滅亡しました。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>テソ王（帯素王）はチュモン（朱豪）を追い出し、東扶余の第3代王となりました。</p>
<p>テソ王はチュモン、ユリ王、ムヒョルと3代に渡り、高句麗を苦しめましたが、最後はムヒョル（大武神王）により、あっけなく殺害されました。</p>
<p>高句麗との因縁の中で生きた王であり、その存在は曷思国の建国やホドン誕生にもつながるなど、後世に影響を与えました。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>召西奴（ソソノ）は実在した【高句麗と百済の建国を支えた女傑】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/sosono-jitsuzai2428/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 31 May 2024 08:21:54 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[朱豪]]></category>
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					<description><![CDATA[召西奴（ソソノ）は実在した女性であり、高句麗と百済の建国に大きく関わった女傑として知られています。では、彼女はどのような女性だったのか？ この記事では、朱豪との出会いから高句麗建国、王妃としての役割、そして百済建国に至る [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>召西奴（ソソノ）は実在した女性であり、高句麗と百済の建国に大きく関わった女傑として知られています。では、彼女はどのような女性だったのか？</p>
<p>この記事では、朱豪との出会いから高句麗建国、王妃としての役割、そして百済建国に至るまでの彼女の足跡を、史実に基づいて詳しく解説します。</p>
<h2>召西奴（ソソノ）は実在した女性</h2>
<p>召西奴（ソソノ）は「三国史記」の卷二十三 百濟本紀 第一 温祚王の分注に登場する実在の人物です。<br />
「分注」とは、本文の文字よりも小さな文字で補足的に挿入された記述のことです。</p>
<p>史料によると、召西奴（ソソノ）は卒本の延陁勃（ヨンタバル）の娘で、最初の夫は優台（ウテ）でした。<br />
優台との間に生まれた二人の息子が長男・沸流（ピリュ）と次男・溫祚（オンジョ）です。</p>
<h2>高句麗建国を支えた女傑</h2>
<p>召西奴（ソソノ）は、高句麗と百済という二つの古代国家の成立に深く関わった女傑として知られています。</p>
<p>優台（ウテ）の死後、卒本で暮らしていた彼女は、扶余から逃れてきた朱蒙と出会い、家財を投じてその建国を支えました。</p>
<p>その努力が実り、紀元前37年に朱蒙は高句麗を建国して初代王に即位。彼は誠実に尽くした召西奴を初代王妃として迎えました。</p>
<h2>第二夫人となり高句麗を去る決意</h2>
<p>高句麗の王妃となった召西奴（ソソノ）ですが、その幸せは長く続きませんでした。紀元前19年4月、扶余に残してきた妻・礼氏と子の類利（ユリ）が突然現れました。朱蒙は類利を太子、礼氏を第一夫人としたため、召西奴は第二夫人となります。</p>
<p>同年10月、朱蒙が亡くなり類利が即位すると、彼女は二人の息子と10人の臣下を率いて高句麗を離れる決断をします。多くの人々がこれに従ったと伝えられています。</p>
<h2>召西奴（ソソノ）のその後 ― 百済建国へ</h2>
<p>ドラマ「朱豪」では、高句麗を去る場面で物語が終わりますが、史料にはその後の召西奴（ソソノ）の動きが詳しく記されています。</p>
<p>紀元前18年、息子の温祚は臣下と協力して河南地域に新たな国（後の百済）を建て、召西奴も建国と初期政治に深く関わったと指摘されています。</p>
<p>一方で、二人の息子の仲は良くありませんでした。河南に向かう途中、二人は別れ、沸流は海辺を望んで弥鄒忽（ミチュホル）に住みました。しかし、土地が湿り、水に塩分が混じるため生活は困難で、沸流は強い後悔の中で亡くなったと伝えられています。</p>
<h2>召西奴（ソソノ）の最後</h2>
<p>召西奴（ソソノ）の最後の記録が三国史記の百済記に次のように記されています。</p>
<blockquote><p>十三年，春二月，王都老嫗化爲男。五虎入城。王母薨，年六十一歲。<br />
＜三国史記 卷第２３百済本紀第１温祚王&gt;</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞紀元前6年2月、王都では男に化けた老婆と五虎が入城した。王の母が亡くなった。享年61歳であった。</div>
<p>この一行の記述から、彼女が息子たちの不和を解こうとして武装し、五人の臣下と共に慰礼城を攻撃したという説もありますが、根拠は乏しく無理のある解釈といえます。</p>
<p>なぜ「男に化けた老婆」や「五虎」が登場するのか、その意味は不明で、真相を知る手がかりは残されていません。</p>
<p>ただ、史料から確実にいえるのは、彼女が紀元前6年に61歳で亡くなったという事実のみです。</p>
<h2>召西奴（ソソノ）のプロフィール</h2>
<p>召西奴（ソソノ）はドラマ「朱豪」では、卒本・桂婁で商団を運営する首領の娘でしたが、史実では卒本の豪族の娘と推測されます。家財を投げ出して、朱豪の開国に貢献したことからも、かなり裕福な家庭で育ったと推測されます。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜プロフィール＞</strong><br />
名前：召西奴（ソソノ）<br />
地位：高句麗王朱蒙の王妃<br />
生年：不詳<br />
没年：紀元前6年<br />
父：延陁勃（ヨンタバル）<br />
母：不詳<br />
夫：優台（ウテ）、朱豪<br />
息子：沸流（ピリュ）、溫祚（オンジョ）</div>
<h2>まとめ</h2>
<p>歴史の中で長く埋もれていた召西奴（ソソノ）ですが、ドラマ「朱豪」をきっかけに注目される存在となりました。</p>
<p>高句麗・百済建国をめぐる物語には神話的要素もありますが、「三国史記」に基づけば、彼女が歴史上重要な役割を担ったことは間違いありません。</p>
<p>史料が限られるため全貌の把握は難しいものの、建国に寄与した女傑としてその名が語り継がれてきたことは確かです。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>朱豪のイェソヤは実在した？【モデルの礼氏を史実で解説】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/ieson-jitsuzai2427/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 29 May 2024 06:43:30 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[朱豪]]></category>
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					<description><![CDATA[ドラマ「朱豪」に登場するイェソヤは、史実に記録された朱豪の妻・礼氏がモデルです。 この記事では、三国史記の記述にもとづき、礼氏（イェソヤ）の実在性とその生涯を詳しく解説します。 イェソヤのモデルは実在した礼氏 三国史記「 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>ドラマ「朱豪」に登場するイェソヤは、史実に記録された朱豪の妻・礼氏がモデルです。</p>
<p>この記事では、三国史記の記述にもとづき、礼氏（イェソヤ）の実在性とその生涯を詳しく解説します。</p>
<h2>イェソヤのモデルは実在した礼氏</h2>
<p>三国史記「瑠璃王」に<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/yuriwan-kakeizu2423/">類利（ユリ）</a>の母は礼氏（旧字：禮氏）と記述されています。</p>
<blockquote><p>瑠璃明王立。諱類利，或云孺留。朱蒙元子，母禮氏。<br />
＜引用元：三国史記 卷十三 高句麗本紀 第一 瑠璃王＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞瑠璃明王が即位した。諱は類利、または孺留。朱蒙の元子（長男）、母は禮氏である。</div>
<p>当時の史書では女性名が詳細に記録されることは少なく、礼氏の娘なので礼氏とだけ記録されています。</p>
<h2>本当に、朱豪は礼氏と類利を残して亡命したのか？</h2>
<p><a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/jumong-kakeizu2234/">朱豪</a>が礼氏を残して、扶余（旧字：扶餘）に亡命したことは三国史記に明記されています。</p>
<p>朱豪は王子たちに殺害されることを恐れたのです。しかし、このとき、礼氏（イェソヤ）は既に妊娠していました。</p>
<p>三国史記の記録によると</p>
<blockquote><p>初，朱蒙在扶餘，娶禮氏女有娠。朱蒙歸後乃生，是為類利。<br />
＜引用元：三国史記 卷十三 高句麗本紀 第一 瑠璃王＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞昔、朱蒙が扶餘（扶余）にいたときに、禮氏（礼氏）の娘を娶り妊娠させた。しかし、その子は朱豪が扶余を去ったあとに生まれ、名は類利とした。</div>
<h2>礼氏（イェソヤ）と類利が朱豪と再会した事実</h2>
<p>ドラマでも描かれる「母子の再会」は、三国史記に記録されています。</p>
<blockquote><p>十九年，夏四月，王子類利自扶餘與其母逃歸。王喜之，立為太子。<br />
＜引用元：三国史記 卷十三 高句麗本紀 第一 東明王＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞紀元前19年4月、王子・類利が母とともに扶余から逃げてきた。王は喜び、類利を太子とした。</div>
<p>このとき、類利は断剣を携えて朱豪に会いに行ったことも記述されています。</p>
<blockquote><p>遂持之與屋智、句鄒、都祖等三人，行至卒本，見父王，以斷劒奉之。王出己所有斷劒，合之，連為一劒。王悅之，立為太子，至是繼位。<br />
＜引用元：三国史記 卷十三 高句麗本紀 第一 瑠璃王＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞類利は断剣を持って、屋智、句鄒、都祖の三人と共に、卒本に行き、王（父）に会い、断剣を差し出した。王は自分が持っていた断剣と合わせると、一つの剣となった。王は喜び、彼を太子として後に王位を継がせた。</div>
<h2>朱豪の逝去と礼氏（イェソヤ）の晩年</h2>
<p>遂に、朱豪と再会した礼氏（イェソヤ）でしたが、その年の9月に朱豪は亡くなっています。再会して5ヶ月後でした。</p>
<blockquote><p>（十九年）秋九月，王升遐，時年四十歲。葬龍山，號東明聖王<br />
＜引用元：三国史記 卷十三 高句麗本紀 第一 瑠璃王＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞（紀元前19年）9月、王（朱豪）が逝去した。享年40歳。龍山に埋葬され、諡号を東明聖王とした。</div>
<p>礼氏（イェソヤ）のその後の記録は残っていません。</p>
<p>しかし、息子の類利が第2代高句麗王として即位したことから、礼氏は王の母として平穏な晩年を過ごしたと推測されます。</p>
<h2>礼氏（イェソヤ）と召西奴（ソソノ）の関係は？</h2>
<p>史実には、二人が対立し争ったことを示す記録はありません。</p>
<p>三国史記によると、朱豪の死後、類利が王位を継ぐと、<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/sosono-jitsuzai2428/">召西奴（ソソノ）</a>とその息子・沸流（ピリュ）と温祚（オンジョ）は、10人の臣下と多数の従者を従えて高句麗を去っています。</p>
<p>召西奴（ソソノ）は、息子同士の争いを避けるため自ら高句麗を去ったと考えられます。その後の動向については史料に比較的詳しい記述があり、彼女は息子・温祚とともに河南へ向かい、そこで新たな国（後の百済）を建国しています。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>イェソヤのモデルとなった礼氏（禮氏）は、三国史記に記録された実在の人物でした。扶余に残されながらも、類利を出産。母子で朱豪に再会して、後に息子が王位に就くという大きな役割を果たしました。</p>
<p>礼氏の晩年については詳しい記録は残されていませんが、息子・類利の即位により平穏な生活を送ったと考えられます。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>金蛙王（クムワワン）家系図【朱豪の養父の神話と史実】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 27 May 2024 23:51:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[朱豪]]></category>
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					<description><![CDATA[朱豪の養父として知られる金蛙王（クムワワン）は、三国史記や三国遺事にも登場する伝説的な扶余王です。 この記事では、金蛙王の家系図・家族関係・生涯の記録をもとに、神話と史実が交差するその実像に迫ります。 金蛙王の家系図 金 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>朱豪の養父として知られる金蛙王（クムワワン）は、三国史記や三国遺事にも登場する伝説的な扶余王です。</p>
<p>この記事では、金蛙王の家系図・家族関係・生涯の記録をもとに、神話と史実が交差するその実像に迫ります。</p>
<h2>金蛙王の家系図</h2>
<p>金蛙王（クムワワン）は、朱豪による高句麗建国から約400年後に編纂された「三国史記」及び「三国遺事」に登場する物語性の強い人物です。</p>
<p>「三国史記」という正式な歴史書にも記録されていますが、その内容は王家の起源を語る説話的色彩が濃厚で、歴史記述というより物語性が際立っています。このため、建国神話を整える過程で後世に創作された人物と見る説もあります。</p>
<p>ここでは、ドラマ「朱豪」の相関関係に近い、「三国史記」の家系図をご紹介します。</p>
<div id="attachment_10602" style="width: 810px" class="wp-caption aligncenter"><img decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-10602" class="wp-image-10602 size-large" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/05/bf273dc3ef6b2095d82e74b59e756c2b-800x378.jpg" alt="金蛙王の家系図" width="800" height="378" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/05/bf273dc3ef6b2095d82e74b59e756c2b-800x378.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/05/bf273dc3ef6b2095d82e74b59e756c2b-500x236.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/05/bf273dc3ef6b2095d82e74b59e756c2b-300x142.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/05/bf273dc3ef6b2095d82e74b59e756c2b-768x363.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/05/bf273dc3ef6b2095d82e74b59e756c2b.jpg 941w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /><p id="caption-attachment-10602" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜金蛙王の家系図＞</strong></p>
<h2>金蛙王はどんな王だったのか？</h2>
<p>「三国史記」によると、金蛙王（クムワワン）は子のなかった東扶余の初代王・解夫婁（ヘプル）が山道で拾った子どもでした。この記述から、金蛙王は、生まれながらの王族ではなかった可能性が高いです。</p>
<h3>金蛙王のプロフィール</h3>
<div class="primary-box">東扶余第2代国王：金蛙王（クムワワン）<br />
王朝：東扶余<br />
在位期間：不詳<br />
都城：迦葉原<br />
生年：不詳<br />
没年：不詳<br />
父：解夫婁王（ヘプルワン）<br />
母：不詳</div>
<h2>金蛙王の家族</h2>
<p>金蛙王には朱豪以外に7人の息子がいたとされ、「三国史記」には第2代王となる帯素王と、東扶余を離れて曷思国を建てた末弟・曷思王が登場します。</p>
<p><strong>＜金蛙王の家族＞</strong></p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="25%">関係</td>
<td width="23%">名前</td>
<td width="23%">読み方</td>
<td width="29%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>父</td>
<td>解夫婁</td>
<td>ヘプル</td>
<td>東扶余第1代王</td>
</tr>
<tr>
<td>母</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>本人</td>
<td>金蛙</td>
<td>クムワ</td>
<td>東扶余第2代王</td>
</tr>
<tr>
<td>正室</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>長男</td>
<td>帯素</td>
<td>テソ</td>
<td>東扶余第3代王</td>
</tr>
<tr>
<td>次男～六男</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>七男</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
<td>曷思王</td>
</tr>
<tr>
<td>側室</td>
<td>柳花</td>
<td>ユファ</td>
<td>河伯の娘、朱豪の母</td>
</tr>
<tr>
<td>継子</td>
<td>朱蒙</td>
<td>チュモン</td>
<td>高句麗初代王</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>※ドラマ「朱豪」に登場する憎みきれない王子ヨンポは架空の人物です。</p>
<h2>金蛙王の生涯</h2>
<p>史書に記録されている金蛙王の生涯は伝説的な描写が多く、史実と区別して読む必要があります。</p>
<h3>解夫婁王の太子となる</h3>
<p>解夫婁王には子供がいませんでしたが、ある日、金色の蛙の姿をした子供に出会います。これが金蛙王とされ、解夫婁は天から授かった子として太子にしました。</p>
<p>神話的描写のため、史実として解夫婁と金蛙王の間に血族関係があったかは不明です。</p>
<h3>東扶余の建国</h3>
<p>天神が降臨した占者が、宰相の阿蘭弗に都を迦葉原に移すことを進言。解夫婁王はこれに従い、東扶余を建国しました。</p>
<p>解夫婁が退去すると、天帝の子を自称する解慕漱（へモス）が現れ、跡地を北扶余として国王となりました。</p>
<h3>柳花との出会いと朱豪の誕生</h3>
<p>王となった金蛙王は川辺で美しい柳花（ユファ）と出会い、宮殿に迎え寵愛しました。宮殿に入った柳花は光に照らされて<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/jumong-kakeizu2234/">朱豪</a>を生みます。このとき、朱豪は卵から生まれ、解慕漱（へモス）の子と伝えられています。</p>
<p>これは卵生神話であり、東アジアの建国神話に共通する表現です。現実的には、金蛙王が柳花を寵愛し、解慕漱の子である朱豪を愛し育てたと解釈できます。</p>
<h3>朱豪を実子のように育てる</h3>
<p>金蛙王は他の7人の子供と同様に朱豪を大切に育てましたが、「三国史記」には、朱豪の能力が他の子よりも長けていたことが記されています。</p>
<blockquote><p>金蛙有七子，常與朱蒙遊戯、其伎能皆不及朱蒙<br />
＜引用元：三国史記卷十三 高句麗本紀 第一より抜粋＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞金蛙には7人の子があり、いつも朱豪と遊んでいたが、その能力は朱豪には及ばなかった。</div>
<p>朱豪の能力を恐れた長男の<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/tesowan-kakeizu2435/">テソ（後の帯素王）</a>は朱豪を排除することを王に進言していますが、金蛙王はこの進言を聞き入れませんでした。</p>
<h3>愛する柳花の死</h3>
<p>ＢＣ24年、柳花が東扶余で亡くなりました。彼女が亡くなると、金蛙王は大后の礼で葬儀を行い、神廟を建造しました。</p>
<p>史実としては、たった1行の記録ですが、金蛙王が深く柳花を愛していたことが伝わります。</p>
<h3>金蛙王の最後</h3>
<p>金蛙王がいつ亡くなったのか、記録は残っていません。</p>
<p>扶余国を就いだ帯素（テソ）が王となり、和睦のため高句麗の人質を要求したことが、瑠璃王十四年（BC6年）の記録にあります。</p>
<blockquote><p>十四年，春正月，扶餘王帶素遣使來聘，請交質子<br />
＜引用元：三国史記卷十三 高句麗本紀 第一から抜粋＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞BC６年１月、扶余王の帯素が使者を派遣し、人質を交換して国交を開くことを要請してくる</div>
<p>從って、紀元前６年までに、金蛙王は亡くなっているか、帯素（テソ）に譲位したものと考えられます。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>歴史書に現れる金蛙王は神話的な要素が多い人物でした。史書からわかることは以下です。</p>
<p>・王の血を引く後継者ではない<br />
・朱豪の養父であった<br />
・朱豪を実子と同じように扱った<br />
・生涯、柳花を深く愛した</p>
<p>金蛙王の家系図や生涯を整理することで神話と史実が区別され、金蛙王の実像を知る手助けとなります。</p>
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