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ドラマ「王は愛する」の実話【ワン・リンは実在したのか?】

ドラマ「王は愛する」には多くの実話が盛り込まれています。

大注目のワン・リンは実在したのか?

「王は愛する」の史実と実在した登場人物についてご紹介します。

 

王は愛するの史実

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元の従属国であった高麗は、世子のときは元で暮らし、元の皇族の娘を王妃にするのが慣習でした。

こうした慣習の始まりの高麗王が、忠宣王の父・忠烈王でした。

高麗初の混血王子の誕生

1236年、後に第26代高麗王になる忠宣王が誕生します。

忠烈王とモンゴル人の母・元成公主との間に生まれた混血王子でした。

 

母親の父は初代元の皇帝クビライの娘なので、忠宣王は皇帝クビライの孫にあたります。

本名はドラマで使われた王謜(ワン・ウォン)です。(後に、王璋(ワン・ヴァン)に改名)

 

おそらく、皇帝クビライに大変可愛がられたのでしょう。

3歳で世子になったワン・ウォンは元で暮らすことが多かったといいます。

 

貢女を世子嬪に

1287年、ワン・ウォンは王族の王瑛(ワン・ヨン)の娘が貢女として元に送られることを知ります。

ワン・ウォンは王瑛の娘と仲が良かったのでしょう。

母親の元成公主に頼み、貢女のリストから外してもらいました。

 

そして、1289年、ワン・ウォンはこの娘と結婚します。

娘は静妃王氏

ワン・ウォンの最初の世子嬪で、ドラマ「王は愛する」のワン・ダンのモデルです。

 

最愛の妃・趙妃と結婚

1292年に、ワン・ウォンは高麗の文臣であった趙仁規の娘と結婚しています。

趙仁規はモンゴルの通訳官でしたが、忠烈王に外交力がかわれて出世した人物でした。

政略的な結婚だったかもしれませんが、ワン・ウォンはこの娘・趙妃(チョビ)を大変寵愛しました。

 

モンゴルの皇族の娘と結婚

1296年11月に、ワン・ウォンは皇族カマラの娘・ブッダシュリ(宝塔実憐)と結婚しました。

ブッダシュリは、初代元の皇帝クビライの曾孫にあたります。

 

このとき、ワン・ウォンは王瑛や趙仁規の娘と結婚していましたが、モンゴル人の也速真(イェスジン)とも結婚していました。

しかし、初代元の皇帝クビライの曾孫であったことから、ブッダシュリが第1妃となりました。

 

史実でも無比(ムビ)を処刑

無比(ムビ)はワン・ウォンの母親である元成公主を差し置いて、忠烈王から寵愛を受けていた側室です。

ワン・ウォンは無比に対して、激しい憎悪を持っていました。

また、王の寵愛を受ける無比の周りには恩恵を受けたい輩(やから)が集まっていたといいます。

 

1297年5月に母親の元成公主が亡くなると、元より帰国したワン・ウォンは忠烈王に母親の死の究明を訴えました。

動かぬ王に代わってワン・ウォンは事実を探り、無比が呪詛していたことを突き止めました。

 

そして、無比とその関連する人たちを殺害してしまいました。

これに驚いた忠烈王はワン・ウォンに譲位することを決意しました。

1298年1月、ワン・ウォンが忠宣王として即位します。

 

趙妃誣告事件

忠宣王(ワン・ウォン)は趙妃を大変寵愛しました。

そのため、第1妃となった薊国大長公主からひどく嫉妬され、悲劇的な事件が起こります。

1298年5月に起こった趙妃誣告事件です。

 

趙妃誣告事件とは、趙妃に嫉妬した薊国大長公主が親元の元に虚偽の訴えをしたことで元の怒りをかった事件です。

誣告(ぶこく)は、わざと事実を偽って告げることです。

元の朝廷は趙仁規の一家を断絶。趙妃は趙仁規とともに元に送られ、その後、消息不明となりました。

 

王妃に過ぎなかった薊国大長公主の権力が絶大であったことが分かります。

忠宣王は元に呼び戻され、以降10年間、薊国大長公とともに元で生活することになります。

1299年9月、忠宣王は世子の降格、再び、忠烈王が王位につきました。

 

実際にあったワン・ジョンの謀反の動き

ドラマ「王は愛する」に登場するワン・ジョン(王琠)は実在した人物です。

ワン・ジョンの家系は第20代高麗王の神宗につながる王族です。

 

1306年、ソン・バンヨン(宋邦英)を中心に王族の王琠を世子にする動きが起こりました。

ソン・バンヨンも「王は愛する」にオトボケの重臣として登場しています。

 

史実のソン・バンヨンは、忠烈王の忠実な部下で忠宣王と対立するグループの中心的存在でした。

元と密接な関係を持っていたソン・バンヨンはワン・ジョンの世子擁立を元に働きかけました。

 

しかし、モンゴルでの後継者争いでソン・バンヨンは元の後ろ盾を失い、企ては失敗に終わります。

1309年、ワン・ジョンとソン・バンヨンの一味は新たな元の第3皇帝カイシャンに処刑されてしまいました

 

忠宣王の最後

1308年、忠烈王が亡くなり、ワン・ウォンが忠宣王に即位しました。

しかし、忠宣王は高麗に留まることはせず、元の大都から高麗の家臣たちに伝旨で国政を行いました。

 

1310年、なんと忠宣王は長男の広陵君(王鑑)が王座を狙ったとして殺害してしまいます。

実は、高麗に戻らない忠宣王に対して、重臣たちが息子の広陵君を王にしよう企てたのでした。

 

1313年、重臣からの圧力に遂に、忠宣王は次男の王燾に王位を譲りました。

1316年には、王暠(延安君)に瀋陽王も譲っています。

1320年、元により忠宣王は吐蕃(チベット)に流刑にされますが、1323年に解放されています。

 

そして、その2年後の1325年、元の首都・大都で亡くなりました。

享年51歳でした。

 

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ワン・リンは実在したのか

残念ながら、ドラマ「王は愛する」には登場するワン・リンは架空の人物です。

しかし、ワン・リンの家族は実在した王族でした。

ワン・リンの家族は実在した

貢女として元に送られるところを助けられて世子嬪になったワン・リンの妹、世子の地位を狙うワン・リンの兄など実在した人物でした。

また、ワン・リンの父・ワン・ヨン(王瑛)は忠烈王の王妃だった貞和宮主の弟でした。

<実在したの家族>

関係 名前 備考
王瑛(ワン・ヨン)
長男 王玢(ワン・ブン) 第34代国王・恭讓王の曽祖父
次男 王琠(ワン・ジョン) 瑞興君。処刑される
長女 靜妃王氏 忠宣王の妃

 

父・ワン・ヨンは王族の家系

ワン・ヨンの曽祖父は第20代高麗王の神宗です。

皇族の血を引く家系ですが、ドラマ同様、ワン・ヨン自身は王位には興味はありませんでした。

<王瑛(ワン・ヨン )の家系図>

 

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登場人物の実在モデル

ドラマ「王は愛する」には、多くの実在した人物が登場しています。

役名 実在のモデル 備考
ワン・ウォン 王謜(ワン・ウォン) 第26代高麗王・忠宣王
ワン・ヨン 王瑛(ワン・ヨン )
ワン・ダン 靜妃王氏 王瑛の娘、忠宣王の妃
ワン・ジョン 王琠(ワン・ジョン) 王瑛の次男
ソン・バンヨン 宋邦英(ソン・バンヨン) 重臣、密直副使
ムビ(オク・プヨン) 無比(ムビ) 忠烈王の側室
忠烈王 忠烈王 第25代高麗王
元成公主 元成公主 忠烈王の第1妃
フラタイ 忽刺歹(フラタイ) 元成公主の従臣、高麗名は印侯
貞和宮主 貞和宮主 忠烈王の正妃、王瑛の妹
江陽君 江陽公 王滋 忠烈王と貞和宮主の息子
ソン・イン 宋璘(ソンリン) 重臣

 

まとめ

ドラマ「王は愛する」は、フィクションですが、多くの実話が盛り込まれていました。

そのため、多くの実在する人物が登場しています。

 

一躍注目されたワン・リンは架空の人物でしたが、その家族は実在する家族でした。

史実を知って、物語を改めて見ると巧みに史実が取り込まれていることが分かります。

 

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