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光宗(ワンソ)の家系図【高麗 第4代王の複雑な婚姻関係】

高麗時代の王族は、政略目的で親族間の結婚が多く、家系図は非常に複雑です。特に、第4代王・光宗は、親族から王妃や側室を迎え、時代の婚姻慣習を体現した人物でした。

この記事では、光宗の家系図を軸に、家族関係、高麗王朝の婚姻制度の背景、王政改革まで詳しく解説します。

光宗(ワンソ)の家系図

光宗の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<光宗の家系図>

高麗時代では、王権強化と財産の流出防止を目的に、異母兄妹や従兄妹同士の婚姻が一般的でした。記録によれば、光宗(ワンソ)も王后は異母妹であり、側室の一人は従姉妹を選んでいます。

ところで、ドラマ「麗」に登場するヘスのモデルになった女性はいたのでしょうか?
その疑問はこちら>>ドラマ「麗」のヘスは実在した人物? で詳しくご紹介しています。

また、ドラマでは、顔に傷をおった光宗は信州のカン氏に養子に出されていますが、史実ではそのような記録はありません。

<光宗のプロフィール>
生年:925年
没年:975年7月4日
在位期間:949年4月13日-975年7月4日
姓・諱:王昭(ワン・ソ)
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光宗の正妃と側室

光宗(ワンソ)には、正妃と二人の側室がいました。

関係 名前 子ども 備考
正妃 大穆王后 2男3女 異母妹
側室 慶和宮夫人林氏 子女なし 恵宗の娘
側室 宜慧貴妃大氏 子女なし 渤海国王族出身

光宗の正妃・大穆王后(異母妹)

神静王后の娘で、光宗との間に2男3女をもうけています。ドラマ「麗」では冷酷な后として描かれましたが、晩年に、光宗から息子の景宗とともに疑念を抱かれ、冷遇されていたことは史実の通りです。

側室・慶和宮夫人(恵宗の娘)

史実の慶和宮夫人は弟が光宗に粛清され、その悲しみから自害しています。ドラマ「麗」では、豪族の支援を得るために嫁(実際は人質)に出されるところを光宗に助けられ、彼と結婚しました。

側室・宜慧貴妃(渤海国の王族)

宜慧貴妃大氏は渤海国王族出身の女性です。この女性はドラマ「輝くか狂うか」のシンユルのモデルとも言われています。

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光宗の子供たち|後継者と成宗へのつながり

次表のように、正妃・大穆王后との間には2男3女の子供がいましたが、側室との間には子どもはいませんでした。

<正妃・大穆王后との子どもたち>

関係 名前 備考
長男 景宗 第5代国王
次男 孝和太子 早世
長女 千秋公主
次女 寶華公主
三女 文徳王后 第6代国王・成宗の正妃

長男の王伷(景宗)は光宗からは懐疑の目を向けられ、二人の関係は良くありませんでした。ドラマ「麗」でも、光宗は息子に会おうともしませんでした。

光宗が亡くなると、長男が第5代高麗王の景宗として即位しますが、大きな功績もなく26歳の若さで亡くなりました。景宗の子供がまだ幼かったため異母弟の王治(成宗)が第6代高麗王として即位しています。

光宗の母と兄弟姉妹

光宗(ワンソ)の母・神明順聖王后は太祖の第3王后で、豪族・劉兢達の娘でした。

劉兢達は太祖の建国を支え、その影響力は大きく、神明順聖王后も強い発言力を持っていたと考えられます。ドラマ「麗」でも彼女は存在感ある王后として描かれますが、ドラマのように光宗を嫌っていたという史実は確認されていません。

光宗は5人兄弟の三男として生まれています。長男は若くして亡くなっているため、次男の王堯(ワン・ヨ)が第3代高麗王に即位しています。

<光宗の兄弟姉妹>

続柄 称号 姓・諱 備考
長男 太子泰 早世
次男 定宗 王堯(ワンヨ) 第3代高麗王、在位4年で病死
三男 光宗 王昭(ワンソ) 第4代高麗王、王権の強化に努める
四男 文元大王 王貞(ワンジョン)
五男 證通国師 出家して僧侶になる
長女 安貞淑儀公主 新羅の敬順王の妻
次女 興芳宮主 元荘太子の妻

史実で見る姉妹の政略婚

長女・安貞淑儀公主は、新羅最後の王・敬順王(金傅)に嫁いでいます。これは新羅の王統を高麗に取り込み、王権を強化する政略婚でした。高麗史には、次のように記されています。

安貞淑儀公主,・・(略)・・,新羅王金傅入朝,以公主歸之。
<引用元:高麗史91巻「公主」列伝>

<訳>安貞淑儀公主は、新羅王・金傅(敬順王)が朝廷に帰順した際、この公主が彼に嫁がされた。

また、次女・興芳宮主は、異母甥である元莊太子(定宗の子)に嫁ぎました。これは王族内での近親婚を通じて王統の一体化を図る政略婚でした。高麗史には次のように記されています。

興芳宮主,亦神明太后所生,適元莊太子。
<引用元:高麗史91巻「公主」列伝>

<訳>興芳宮主は、神明太后の生んだ娘であり、元莊太子に嫁いだ。

このように、光宗の姉妹たちも王権強化と外戚制御を目的とした政略婚の一環として重要な役割を果たしていました。

高麗時代の婚姻制度と家系の複雑化

太祖は当初、王族と豪族との結婚により、外戚勢力を取り込む政策をとりました。しかし、その結果、豪族の発言力が強くなり、王権が弱体化していきました。

そこで、太祖は王族同士を結婚させることにより、豪族の権限を弱め、王室の権限強化を図ります。これが後に、近親婚が慣習となり、家系図が非常に複雑になった大きな要因です。

また、近親婚は王室からの財産流失を防ぐ目的もあったとされています。

光宗の王政改革と後世の暴君評価

光宗(ワンソ)は豪族に支配される王室の権力を取り戻すために、豪族の経済力と武力を排除することに力を注ぎました。

<主要な改革>
・奴婢の開放(奴婢按検法)による豪族の弱体化
・科挙の導入による豪族支配の打破と王権強化

しかし、改革は多くの抵抗を招き、数百人単位の粛清を繰り返すようになり、建国時に数千人いた功臣も、粛清により数十人程度になったとも言われています。

晩年には、王妃や息子に対しても疑いを持つようになり、「暴君」との評価が後世に定着します。それでも、王権集中と官僚制度の整備は、高麗王朝の基盤を築く一大功績とされ、「名君」との評価も併存しています。

光宗の肖像画と最期

ドラマ「麗<レイ>」には、最終回に展示会用のポスターに使われた光宗の肖像画が登場します。もちろん、この肖像画はドラマ用に作られたもので、第4代高麗王・光宗の肖像画は残っていません。

光宗は975年7月4日に享年51歳で亡くなっています。死因の記録はなく、おそらく病死とされています。

お墓は北朝鮮の領土内に存在しますが、ほとんど管理されておらず、荒廃しているとされます。

光宗の荒廃したお墓の画像

<光宗のお墓>

光宗が登場するドラマ

光宗(ワンソ)が登場する代表的なドラマは次の3件です。光宗のドラマの人物像は、史実のどの部分を強調するかにより、かなり脚色されていますが、史実との違いを知ることで、彼の本質に近づくことができます。

・光宗大王 〜帝国の朝〜
(2002年、キム・サンジュン)
・輝くか、狂うか
(2015年、チャン・ヒョク)
・麗<レイ>~花萌ゆる8人の皇子たち~
(2016年、イ・ジュンギ)

まとめ

高麗第4代王・光宗(ワンソ)の家系図は、近親婚を基本とした政略婚が織りなす非常に複雑な構造でした。その背景には、豪族を排除し、王室中心の体制を築こうとした光宗の政治戦略があります。

改革を断行し、多くの粛清を実施したことから冷酷な「暴君」とも評価される光宗ですが、その統治は高麗の官僚制度と王権確立の礎を築いた点で「名君」との評価も併存しています。

光宗に関する史実は多くのドラマの題材にもなっており、フィクションと史実の違いを知ることで、謎めいた彼の人物像を理解することができるかもしれません。

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