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朝鮮王朝の歴史年表【歴代王妃と側室編】

韓国朝鮮王朝の歴史をドラマを見るのに歴代王妃及び側室の年表です。

時代劇ドラマを見るときの参考にしてください。

なお、他の人物についても随時、追加していく予定です。

昭憲王后(1395年~1446年)

昭憲王后の生涯はまさに苦難の生涯だったと言えます。

出来事
1395 沈温の娘として名家に生まれる
1408 太宗の三男・忠寧大君(世宗)と結婚する(14歳)
敬淑翁主(キョンスク オンジュ)に封ぜられる
1412 長女の貞昭公主が生まれる(18歳)
1414 李珦(文宗)が生まれる
1415 次女の貞懿公主が生まれる
1417 次男の李瑈(世祖)が生まれる
三韓国大夫人に封じられる
1418 三男の安平大君が生まれる
1418 6月、譲寧大君が品行不良の理由で王世子を廃位される
夫の忠寧大君が世子に昇格する
昭憲王后は世子嬪(敬嬪)となる
1418 9月、太宗が譲位、夫の忠寧大君が即位する(後の世宗)
昭憲王后は王妃となる
父親の沈温が朝廷の最高位・領議政になる
父の弟の沈泟が濡れ衣で処刑される
父親の沈温が策略により処刑、母親と兄弟は奴婢にされる
1420 四男の臨瀛大君が生まれる
1422 5月、太宗が逝去する
1424 長女の貞昭公主が13歳で亡くなる
母方の実家(安天保の家)に行くことが許される
1425 五男の廣平大君が生まれる
1426 六男:錦城大君が生まれる
母・安氏と兄弟が奴婢から解放される
1427 七男の平原大君が生まれる
1434 八男の永膺大君が生まれる
1444 五男の廣平大君が20歳で亡くなる
1445 七男の平原大君が19歳で亡くなる
1446 昭憲王后が逝去(次男 首陽大君の私邸で)
1450 夫の世宗が54歳で逝去
1451 息子の文宗が即位する
沈温の復権が行われ、子孫は官職に就くことが許可される
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顕徳王后(1418年~1441年)

わずか23年で亡くなった顕徳王后の生涯は死後も含めて幸せなものとは言えませんでした。

出来事
1418 権専の娘として生まれる
1431 鄭氏、洪氏とともに王世子(文宗)の側室(承徽)になる
1433 長女(早世)を出産。良媛に昇進
1435 次女の敬恵公主が生まれる
1437 世子嬪に冊封される(世子嬪・純嬪奉氏は廃位)
1441 7月、李弘暐(後の端宗)を生むが、翌日に顕徳王后は亡くなる
11月、父・権専が亡くなる
1450 文宗が即位。「顕徳王后」と王妃に追尊される
1455 端宗が譲位。上王となる
1456 端宗復位の計画が発覚(死六臣事件)
母・阿只および弟・自愼も関係したとして処罰される
1457 夫(上王)が魯山君(庶人)に降格される
この時点で追尊は取り消されたと推測される
6月、母・阿只が庶人に降格される
1513 中宗により復位
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廃妃尹氏(1455年~1482年)

燕山君の母・廃妃尹氏は気が強く、嫉妬深い性格から廃位、賜死となりました。しかし、そのことが後の朝鮮王朝最大の粛清劇につながっていきました。

出来事
1455 尹起畝の娘として生まれる
1473 後宮の揀択で入宮して、淑儀に封じられる
この時、後の王妃・貞顕王后も入宮して淑儀に封じられている
1474 最初の王妃・恭恵王后が亡くなる
1476 成宗が仁粋大妃の反対にもかかわらず、妊娠中の廃妃尹氏を王妃にする
4ヶ月後に燕山君を出産
1477 気が強く、嫉妬深い性格があらわれる
寵愛される側室に嫌がらせを行い、砒素や呪詛の道具が見つかる
1479 成宗の顔を爪で引っ掻くという不敬により廃位され宮廷から追放される
1480 側室だった貞顕王后が王妃に選ばれる
1482 廃妃尹氏が謹慎していたにもかかわらず、偽りの報告により賜死となる
1483 燕山君が世子になる
1494 成宗が逝去、燕山君が第10代王に即位する
1504 燕山君が生母・廃妃尹氏の賜死に関わったすべての人を粛清(甲子士禍)
燕山君により復位、斉献王后(チャホンワンフ)と追号される
墓も懐陵と改称
1506 中宗反正で燕山君が廃位、再び復位を取り消される

張禧嬪(1659年~1701年)

4年間で承恩尚宮から王妃まで一気に駆け上がった前例のない出世でした。

出来事
1659 張烱と後妻・尹氏の次女として生まれる
1669 父が亡くなる(11歳)
不明 荘烈大妃の針房内人として入宮。粛宗の寵愛
1680 宮廷から追放
1684 明聖王后が逝去。側室として再入宮
1686 承恩尚宮から淑媛(スグォン)に昇進
1688 李昀(後の景宗)を出産
1689 嬪(正一品)に昇進。李昀は元子に冊封
1690 己巳換局で仁顕王后が廃位。張禧嬪が王妃になる
1694 甲戌換局で仁顕王后が復位。張禧嬪が嬪に降格
1701 仁顕王后が病死。呪詛の罪で張禧嬪が賜死

仁元王后(1687年~1757年)

仁元王后は英祖を守った王妃として有名です。

出来事
1687 金柱臣と嘉林府夫人の娘として生まれる
1694 張禧嬪が側室に降格
1701 張禧嬪が死罪になる
2番目の王妃・仁顕王后が逝去
仁元王后が揀択で選ばれ入宮
1702 正式に王妃に冊封される
1711 天然痘を患うが回復
1713 恵順(ヘスン)の尊号を受ける
1718 淑嬪崔氏が亡くなる
1720 粛宗が亡くなって景宗が即位する
仁元王后は王大妃になる
1721 延礽君を養子にする
1721 景宗が延礽君を王世弟に冊封する
1724 景宗が崩御され、王世弟は第21代王・英祖として即位
仁元王后は大王大妃になる
1757 義理の娘・貞聖王后(英祖の正室)が亡くなる
1ヶ月後、宮殿・昌徳宮で71歳で亡くなる

綏嬪朴氏(1770年~1822年)

綏嬪朴氏は、第23代王・純祖を生んだ正祖の側室です。

年齢 出来事
1770 1 朴準源と原州元氏の三女として生まれる
1779 10 側室の元嬪洪氏が亡くなる
1786 17 側室の宜嬪成氏が亡くなる
1787 18 貞純大妃によって、綏嬪朴氏が側室に選ばれる
1790 21 純祖を出産する
1793 24 淑善翁主を出産する
1800 31 純祖が世子に封じられる
31 正祖が逝去する
31 純祖が第23代国王に即位する
31 貞純大王大妃が垂簾聴政を始める
1822 53 昌徳宮徽慶堂にて死去
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