ポッサム〜愛と運命を盗んだ男〜に登場する光海君の娘は実在していました。
そこで、ファイン翁主スギョンのモデルになった王女について、詳しく調べてみました。
実在した光海君の娘
光海君には側室の昭儀尹氏との間に1人の娘が実在しました。
ドラマ「ポッサム」に登場するファイン翁主スギョンは、この光海君の娘をモデルにしています。
生年:1619年6月23日
没年:1664年11月1日
享年:46歳
父:光海君
母:昭儀尹氏
夫:朴澂遠
子供:2男3女
娘は光海君が46歳のときに生まれたので、大変可愛がられて育ちました。
しかし、まだ5歳のときにクーデター(仁祖反正)が起こり、光海君は流刑、母親は死罪になりました。
残された娘は翁主の称号を剥奪されて外叔父の家で育てられます。
そして、光海君の娘は1643年の25歳のときに朴澂遠に嫁ぎました。
ドラマでは初夜を過ごすこと無く、夫は亡くなりますが、実際には朴澂遠との間に2男3女の子供を産んでいます。
光海君の娘は1664年に亡くなりますが、1717年に粛宗が復位を許可して翁主の称号を取り戻しました。
光海君の娘が無くなったことは、顕宗実録に記録されています。
戊子朔/光海君女卒。【光海、卽廢主也。】上命戶曹優給喪需。
光海君の娘が亡くなった。(光海君は既に廃位)葬儀物品を多めに送るように命じた。(引用元:顕宗実録1664年11月1日)
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光海君の家族
光海君には1人の正室に9人の側室がいましたが、子供は息子一人と娘一人だけでした。
<光海君の家族>
第15代国王・光海君 | |||
王妃 | 文城郡夫人柳氏 | 1男 | 李祬(廃世子) |
側室 | 昭儀尹氏 | 1女 | 翁主(名前は不明) |
昭儀洪氏 | (子供なし) | ||
昭儀権氏 | (子供なし) | ||
淑儀許氏 | (子供なし) | ||
淑儀元氏 | (子供なし) | ||
昭容鄭氏 | (子供なし) | ||
昭容任氏 | (子供なし) | ||
昭媛辛氏 | (子供なし) | ||
宮人趙氏 | (子供なし) |
ポッサムに登場するファイン翁主スギョンは、この昭儀尹氏の娘がモデルです。
ファイン翁主の母親・昭儀尹氏
昭儀尹氏は父親が尹弘業、母親が兪必英の娘の間に生まれました。
昭儀尹氏は1617年に側室で淑儀(スギ)従二品の品階を受けましたが、翌年には昭儀(ソイ)正二品の品階に昇格しました。
1619年には産室を設置せよとの命令が下りました。
朝鮮王朝実録に記録されています。
傳曰: “昭儀尹氏産室排設。”
昭儀尹氏の産室を設置せよ
引用元:光海君日記1619年4月8日より
このときに、昭儀尹氏の妊娠が確証されたと思います。
6月23日にファイン翁主を生んでいますが、娘のためか実録への記録は見られません。
そして、1623年3月13日に仁祖反正が起こり、昭儀尹氏は処刑されてしまいます。
残された娘は、まだ5歳の少女であったことから、死罪は逃れ外叔父に預けられたようです。
その子がファイン翁主スギョンのモデルです。
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実在したファイン翁主のモデルの家族
ファイン翁主のモデルになった光海君の娘には、夫の朴澂遠の間に2男3女の子供がいました。
ドラマでは、夫の朴澂遠は初夜を過ごすこと無く亡くなりますが、これはドラマのフィクションです。
<光海君の娘の家族>
関係 | 名前 | 生年-没年 | |
夫 | 朴澂遠 | 1625年-1690年 | |
妻 | 翁主(名前は不明) | 1619年-1664年 | ファイン翁主のモデル |
長男 | 朴泰龜 | 1654年-1725年 | 妻は慶州李氏 |
次男 | 朴聖龜 | 1656年-1713年 | 妻は南原梁氏 |
長女 | 詳細不明 | ||
次女 | 詳細不明 | ||
三女 | 詳細不明 |
光海君の娘は結婚が25歳と遅かったため、上の男の子は35歳のときに生まれました。
1664年、二人の男の子はまだ11歳と9歳の幼いときに、光海君の娘は46歳で亡くなります。
まとめ
ポッサム〜愛と運命を盗んだ男〜に登場する光海君の娘は実在していました。
この娘がドラマのファイン翁主スギョンのモデルです。
ドラマとは違い、光海君の娘は朴澂遠との間に2男3女の子供をもうけています。
そして、光海君の子供として唯一生き残った光海君の娘は46歳で生涯を閉じました。