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恭愍王の生涯【史料で知る反元改革と魯国公主の死】

高麗第31代王・恭愍王は、元の支配からの脱却を目指し、反元改革を断行した国王です。しかし、急進的な改革は強い反発を招き、さらに最愛の王妃・魯国公主の死が王の運命を大きく変えていきました。

本記事では、恭愍王の誕生から反元改革、辛旽政治、晩年の変貌、そして突然の死に至るまで、その生涯を史料に基づいて詳しく解説します。

恭愍王の誕生と魯国公主との結婚

1330年、恭愍王(コンミンワン)は忠粛王と恭元王后の次男として生まれました。長男は第28代王・忠恵王です。

1341年、12歳のとき元の都・燕京(現在の北京)に入り、元朝のもとで生活を始めます。1349年、20歳のとき、元皇族ボロト・テムルの娘・魯国公主と結婚しました。

魯国公主は高麗に渡った後、高麗文化を尊重し、韓服を着用するなど高麗社会への適応を示した王妃として知られています。こうした姿勢もあって、恭愍王は公主を深く寵愛したことが史料に記されています。

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反元改革|奇氏一派の粛清

1351年、恭愍王は元から帰国。高麗第31代王として即位します。当時の高麗では、元皇帝の寵妃となった奇皇后の一族が大きな権力を持っていました。恭愍王は反元改革を進めるため、1356年に奇轍(キチョル)をはじめとする奇氏一族を粛清します。

丁酉 太司徒奇轍·太監權謙·慶陽府院君盧頙, 謀反伏誅, 親黨皆逃
<引用元:高麗史 恭愍王5年(1356年)5月>

<訳>18日、太司徒の奇轍、太監の權謙、慶陽府院君の盧頙を謀反の罪で処刑した。その一派は皆逃げた。

この事件により、恭愍王は国内の反元勢力を一掃することに成功しました。

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元からの完全脱却

1356年、恭愍王は元の年号(暦)と官制を廃止し、元からの完全脱却を図ります。

さらに元の支配下にあった双城総管府を攻略し、高麗領として取り戻しました。この時、後に朝鮮王朝を建国する李成桂の父・李子春が高麗側に協力しています。李子春はこの功績により東北兵馬使に任命されました。

辛旽の改革と頓挫

1358年頃、恭愍王は当時、名も無い一介の僧僧・辛旽を登用し、国内改革を進めました。辛旽は不法に奪われた土地を元の所有者に返し、奴婢の解放を行うなど大胆な政策を実施します。

民衆からは歓迎されましたが、権門勢族(有力勢力)の反発を招きます。最後は王の信任を失い、流刑後に処刑されてしまいます。1371年、辛旽が50歳のときです。

愛する魯国公主の死

1365年2月、ようやく懐妊した魯国公主が難産の末に亡くなりました。魯国公主を深く寵愛していた恭愍王の悲嘆は大きく、その落胆ぶりは周囲が見るに堪えなかったと伝えられています。

最愛の妻を失った衝撃により、王は次第に政治から距離を置き、亡き王妃の供養に心を傾けるようになります。とくに王妃を祀る霊堂の建立や仏事に力を注ぎ、その規模は当時としても異例なものでした。

魯国公主の死後、恭愍王は複数の側室を迎えましたが、これらは王位継承者を得ることを目的とした形式的な婚姻であったとも考えられています。

恭愍王晩年の変化と子弟衛

愛する魯国公主の死、辛旽の失脚、反元政策の停滞などの精神的打撃を受け、恭愍王の統治姿勢は晩年になるにつれて大きく変化していきました。

恭愍王は子弟衛(チャジェウィ)を設置し、容貌の優れた若者たちを側近として宮中に置きました。『高麗史』には、彼らを近侍させた生活や王妃との関係をめぐる異例の行為が伝えられています。こうした記述は、『高麗史』世家第四十三・恭愍王二十一年冬十月条で確認できます。

恭愍王の突然の死

1374年、恭愍王は45歳で突然亡くなりました。高麗史には、次のように記されています。

癸未 幸王輪寺影殿, 宴于花園. 甲申 王暴薨. 在位二十三年, 壽四十五. 王性本嚴重、動容中禮。至晩年、猜暴忌克、荒惑滋甚。
<引用元:高麗史 恭愍王23年(1374年)9月>

<訳>21日、恭愍王は王輪寺の影殿に行き、花園で宴を開いた。22日、恭愍王が突然、亡くなる。在位23年、享年45歳だった。王は本来、厳格な性格で、立ち振舞も礼儀正しかった。しかし、晩年は、疑い深く、乱暴で、嫉妬心が強く、生活は、ひどく荒れすさんだ。

高麗史では「暴薨」と記録されています。暴薨という表現は突然死を意味しますが、暗殺を示唆する場合もあります。実際、『高麗史』卷一百三十一 列傳第四十四「叛逆 洪倫」には子弟衛の洪倫らにより暗殺されたことが記録されています。

恭愍王の死後、10歳の禑王が即位しました。

恭愍王と魯国公主が眠るお墓

現在、恭愍王と魯国公主は開城(北朝鮮の国境付近)に存在する陸墓に二人並んで眠っています。向かって左が「玄陵」で恭愍王のお墓、右が「正陵」で魯国公主のお墓です。二つの陵墓の内部は「魂の穴」と呼ばれる通路でつながっています。これは死後も夫婦が共にあることを願ったものと考えられています。

玄陵と正陵の外観

<玄陵と正陵の外観>

この陵墓は恭愍王が生前に造営を命じたもので、他の高麗王陵と比べても際立って豪華な造りとなっています。

まとめ

恭愍王は、元王朝の影響から脱却しようと反元政策を積極的に推し進めた国王でした。しかし、最愛の魯国公主を失ったことで深い喪失感に陥り、次第に政治への関心を失った結果、その改革は道半ばで頓挫します。

恭愍王が目指した元からの完全な独立は、朱元璋が建国した明により元がモンゴル高原へ退き、最終的に滅亡へ向かう14世紀末まで待たれることとなりました。

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